自前の保険

20180316

おまけって、あると嬉しいものだけど、どうしておまけというのだろう? まけ、を丁寧に言ったみたいで、ふしぎなことばだ。そういえば店の人が値引きしてくれることを、まけとくよ、なんて言ったりもする。
まけは負けのことだろうか? 負けるのも悪くない。

子供の頃から勝ち負けのあるものがあまり好きではない。何人かでやるゲームは楽しいけれど、オセロとか一対一だとどうしても勝ちと負けのはっきりした結果が待っていて、その打ちのめされる感じにどこまでも悲しくなる。大人になってから旦那さんとオセロをして、負けたときもはらはらと泣いてしまって情けなかった記憶がある。負けて悔しいのもなくはないけれど、徹底的にダメという感じが敗者につきつけられるのが怖いのだ。だからこういうゲームで勝ったときは、嬉しさというより安堵でいっぱいになってしまう。

大きなことに挑むとき、わたしは最悪の結果を考えずにはいられない。
一昨年お腹が大きかった頃は、出産で死ぬかもしれないと毎日のように思っていた。それでもやるのだ、と思うから、その最悪を免れたときに、よかった、よかったとことさら思う。分娩台から降りてほてるお腹を冷やされながら休んでいるとき、ああ、わたし生きてたなあ、としみじみと思った。こどもが無事産まれたこともよかったけれど、わたしも無事であることがとてもありがたかった。
この考えかたは、後にふりかかるつらいことや苦しいことで自分の心が受けるダメージを少しでも軽くするための、不幸保険みたいなものだ。おそらく、とくに珍しいやりかたでもないだろう。

この考えかたを捨てたら負けだ、ともう少し若い頃は思っていた。保険をかけないで生きることは、とんでもなく愚かだ、と。
けれど今日はふと、もうかけていないことがいくつかあることに気付く。目の前の幸せにある意味甘んじて、これが果てることはないと心底信じていることがある。けれどそれはわたしにとっては、若い頃はそんなものがあるとも知らずにいた崇高な勝利だ。誰にも奪われず、誰も負かすことのない、美しいものがいまのわたしの心にたしかにある。なんて言うのは恥ずかしいけれど、心の中にある花は、他のどんな力にも踏みにじられることはない。

そしてその代わりのように、あらたにかけている保険もある。今は、七歳までは神の子、という言葉がそれを象徴している。
自前の不幸保険は、どうやら無意識的に見直しが行われているらしい。

春がきた。昨年はなかったのに今年は庭につくしが生えた。摘んで菜の花と一緒に天ぷらにして、おいしく食べたけれど、そのあとがくんと体調を崩してしまった。
揚げ物をたくさん食べると数時間以内に体調が悪くなるようになってしまったよう。前は外食の油だけだったけれど、最近は家で作る揚げ物でもなってしまう。ある意味ダメージに反応しやすい、強い身体になっていると思うことにする。

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