青い川辺

よりよく生きたい。
この頃はテレビを観る時間がぐんと減った。
遠い場所で起こった交通事故のニュースでも、ぐっ、と胸が詰まる。こどもや、若いひとのことや、どうして、としか言えなくなるような事件や事故ならなおさらだ。
テレビ画面から毎日やすやすとジャブをくらって、くたくたになるわけにはいかない、と、無意識に、防衛反応として、この手はリモコンに触らなくなったのかもしれない。

知らないのは罪だと、思春期の半ばのわたしは思っていた。だから友達に、夢はある?と聞かれたら、百科事典のようになりたいと答えた記憶もある。なにもかもを知りたかった。世の中の出来事や歴史や仕組みを、知らなければそれは生きている者の怠慢であると思っていたし、知っていることが多ければ多いほど、自分は有利に、軽快に、日々をこなせるはずだと感じていたのだ。

それは違う、と感じはじめたのはごく最近のことだ。知らなくてもいいことが、知るべきことよりも、はるかにたくさん、この世に存在していた。
わたしがそう感じるようになったのは、SNSの台頭による。それまでならば生涯知る由もないはずの、些末で、知った側に何の幸せももたらさず、むしろネガティブな感情だけを引き出すような、そういう情報が選択の余地なしに目に飛び込んでくるという状況を身をもって知ったからだ。
でもそれはSNSに限ったことでなく、ラジオだって新聞だって、テレビだってそうなのだ。オンにすれば、自分が拒否を示すかどうかという前に、自分の目や耳に飛び込んでくる情報たち。

そういうものから、ああ、距離を置きたい、と痛切に思う夜が何度も訪れた。
疲れた一日のおわりに、なにかささやかで楽しいことはあるかな? 友達はどうしてるだろう? と思って何気なく押す、青い鳥のアイコン。
フォローする相手は自分で選んだはずだけれど、リツイートやら宣伝広告やら、その人の言葉ではないものが次々目に飛び込んでくる。
もちろん有益なもの、いとしいものもたくさんあった。こどもを事故から守るための知識。健康でいられるための小さな工夫。友人の飼う生きもののこと。ニュースでは語られない当事者の声。遠い国にいる美しい爬虫類。なつかしいキャラクターを描いた素敵な水彩画。
政治を以前よりぐっと身近に感じられたのもツイッターのおかげだった。世の関心の薄いマイノリティの、深い闇と意外な身近さなんかを知ったのも。

川の真んなかにわたしは立っている。流れはゆるやかだけれど、上流からはさまざまなものが絶え間なく流れてくる。時々太ももにそれがこつんと当たって、痛かったり、気持ち良かったりする。わたしは気になるものを直感的に拾ってみたり、それをポケットにしまったり、また投げてみたりもする。本当に、なんでもかんでも流れてくる。小石も、ゴミも、宝石も、ため息も、歌声も、ナイフも、花束も、怒りも、命の輝きも、いっしょくたに。ツイッターはそんなイメージだ。

ツイッターがない世界より、ある世界のわたしのほうが、たしかに知識は豊富なのかもしれない。視野は広いのかもしれない。
しかし同時に、処理しなくてもよいはずの情報を消化するストレスを感じたり、それを見ずにべつのことに費やせる時間を失ったりしたのは確実だ。
見るか見ないかの二者択一ではない。しかしわたしはもう少しSNSに対して慎重になるべきだろう。わたし自身がよりよく生きるために。

より多く知りたいと思う季節は過ぎて、いまはただ、よりよく生きたいのだ。
たとえば、憎悪とはどういうものか、知る道しるべを失い、永遠に忘れたまま、わたしは息をひきとりたい。生まれて30回目の夏。

#日記 #ツイッター #エッセイ #コラム


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