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フジファブリック志村くんの死

自分に多大な影響を与えた彼の死。
リアルタイムで音楽ナタリーと
Yahooニュースを見て
頭が真っ白になった。

ユニコーンの奥田民生に影響を受けて音楽を志した志村くんの存在は憧れの人としてあった。
自分も同じように奥田民生、ユニコーンに憧れてロックをやろうと思った人間だったから。

そしてその翌年に僕は小説を書き下ろす。
純文学で花屋の娘をテーマにした純情小説。
また、後年無名ボカロPとして活動する際にも志村くんの誕生日にオリジナル曲か生前ユニコーンの曲で好きと言っていた甘い乳房(アルバムスプリングマン収録)のカバー曲もニコニコに上げた。

30、40、50、60、70、80になる
シムシムが見たかった。
良い奥さんを捕まえてダイチャンみたいに子どもを作って欲しかった。
若者のすべてが24時間テレビで流れたらしいが、
近年少しくらいしかフジファブリックを出演させてないテレビ局(日テレ)にはあまり好意を抱いていない。
むしろ、亡くなってから比較的早く音楽番組で特集を組んだフジテレビかMステ(テレ朝)の方が好きだ。

フジファブリック自体との出会いは高校時代の友達が好きなバンドでそいつから教えてもらった。
それ以来、フジのロックにハマりどこか心に引っかかるバンドとして機能していた。

亡くなる前日か当日にCHRONICLEのCDをツタヤで借りて、バウムクーヘンに心をわしづかみにされた。
仕事を辞め、行き場のない心とさみしさを抱えていた筆者には志村の作る歌詞がヤバく刺さった。
全音源を聴き直した。

志村會(お別れの会)にも顔を出した。
行く前に立ち寄った花屋はスゴい行列で女性ファンが花を買い求めていた。
フジフジ富士Qが最初に見るフジファブのライブになった。
あの日の光景は一生忘れないだろう。

それからだいぶ時間は経った。
フジ自体はギター山内がフロントマンになり、数々の名曲をアニメ主題歌に提供し始めた。
山内総一郎くんの昭和音楽大学のソロライブも見に行った。
白を聴いた時、泣きそうだった。
フジファブのファンを長くやってきてよかったと思わされた。
サタデーナイトクエスチョンのセルフカバーもカッコよかった。

生前志村くんは必死に音楽を作っていた。
睡眠時間を極限にまで削り、食べるものも食べないで無我夢中で作り続けていたという。

なにもそんなに無理をしなくてもいいじゃないかと
声をかけたくなる。
休んだって誰も怒らないよ。
全力で走りすぎなんだよ、志村くん。

去年、志村くんの墓を訪ねた。
ずっと避けてきた。
なぜなら彼の死をさすがに受け止めてはいたけど、
確実に実感することになるからだ。
山梨の富士吉田まで約1時間半。
そこからタクシーで15分。

彼の墓には大量のコーラがお供えされていた。
こんなに飲めないよって志村が苦笑しそうだった。
寺のノートには志村さんへのメッセージが死から10年以上経った今でも多く書かれていた。
全国からフジのファンが訪ねていることに志村くんが忘れられていないことを確かめられて、胸がジンと熱くなった。

でも、やっぱり早すぎるよ志村くん。
アメスピのメンソール、値段の割に本数少ないから
好きじゃないけどたまには吸うよ。
気合い入れたい時。
例えばライブをやる前(筆者はアマチュアミュージシャン)、それか女の子に会う前とかに。

志村くん、命日に君の絵を描くよ。

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