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弱さこそ、前に出す。筋トレから僕が深読みしたこと。

今年の2月からパーソナルトレーニングに通い始めた。開始当初は週2でみっちり絞り上げ、現在は週1にペースを落としながら、無理のない範囲で続けている。ウェイトを落とすことが主な目的で、もうまもなく目標を達成できる見込みだ。

トレーニングはこれが初めてではない。実は6年前にRIZAPに挑戦し、体重にして12kg、体脂肪で8%近く落とした経験がある。地獄のような日々ではあったが、苦しんだ分だけきちんと数字として返ってきた。筋トレが変えたのは身体だけではない。トレーニングを通して、「やればできる」という自己効力感が自分の中に強く芽生えていった。それまで持ち上げられなかった荷重を持ち上げられるようになることは、成長をダイレクトに実感させる。なぜ経営者たちが多忙な合間を縫って筋トレに励むのか、わかったような気がした。

RIZAP卒業後も、自身で場所をレンタルしてコツコツとトレーニングを重ねていた。とはいえ、トレーニングに関しては依然ズブの素人である。一応基本的なメニューは押さえているものの、身体の現状に合っているかもわからず、実際、体組成の変化も緩やかになっていた。そんな筋トレ迷子に陥っていた矢先、知人の夫がトレーニングジムを開業したと聞き、思わず門を叩いてみた。

計測した数値をもとに目標への適切なアプローチを考えてくれるコーチ的な振る舞いに加え、栄養士の経験を活かした食事へのアドバイスも豊富で、体験レッスンの時点で信頼できるトレーナーであることがすぐにわかった。当初は2ヶ月で完結させるつもりだったものの、彼とのトレーニングが楽しくて仕方なくなってしまい、身体のメンテナンスも兼ねて細く長く継続することに決めたのだった。

僕が特に好きなのは、彼のボキャブラリーだ。トレーニング中、実にさまざまな言葉を投げかけてくれるのだが、深読みしがちな僕は、その中にいつも一抹の普遍性を感じている。人によっては単なるスパルタ発言と聞き流す人もいると思う。しかし、身体を語る言葉は、そのまま心を語る言葉でもある。なぜなら身体を鍛錬するということは、それを為し得る精神を鍛錬することでもあるからだ。その精神は、仕事や家庭での振る舞いと間違いなく地続きになっている。

先日のトレーニングで彼がポロっと口にした言葉に、深く心動かされる瞬間があった。

僕は足や背中に比べて胸や肩などの上半身が弱く、特にベンチプレスに苦手意識を持っている。他の種目に比べ、圧倒的にバテるのが早い。特に利き手である右腕の疲労が早く来る。そんな様子を見て、トレーナーは「弱い部分こそ前に出すべき」と教えてくれた。どういうことか。

人はどうしても利き手を先に使ってしまうが(だから利き手なのだが)、利き手に意識が向くと、必要以上に利き手のほうに負荷がかかり、スタミナが切れるのも早くなってしまう。利き手のスタミナ不足を利き手でない方が補えるはずがないため、結果的に両腕が上がらなくなるのだ。しかし、弱いほうの腕に力の比重を置き、利き手がそれを支えるように持ち上げることで、結果的に負荷がほどよく分散され、持ち上げられる確度が高まるという。弱い部分を庇おうとするからフォームが崩れ、適切な部位に適切な負荷をかけられなくなるのだと。実際、言われたとおりにやってみたところ、格段にパフォーマンスが良くなった。ことさら左腕を庇っているつもりはなかったが、パフォーマンスを見る限り、やはりバランスを欠いた身体の使い方をしていたのだろう。

人生のあらゆる歪みも、弱さを隠し、ごまかすことから生まれる。利き手というストロングポイントを利用して生きるのは、生き物として当然の戦略ではある。しかし、自己の脆弱性をひた隠しにしたままで生きていけるほど、人生は単純ではない。弱さを隠したツケは、必ずどこかで回ってくる。意識的にせよ無意識にせよ、弱さの隠蔽と強さへの過信が無理を生じさせ、誤った方向に人を向かわせる。

反対に、弱さをさらけ出す人ほど成長も早く、その正直さと謙虚さゆえ、人からの信頼も厚い。利き手でないほうの腕を必死で伸ばす姿は、周囲の人を感動させることもあるだろう。ぼんやりではあるが、いまの社会を眺めていると、どことなく弱さの価値が見直されているような気がする。心理的安全性にせよケアにせよ、人間の弱さに端を発するキーワードをよく目にするようになった。昨今、MCやゲストが自身の悩みを吐露するタイプの番組が増えていることも、それと無関係ではないはずだ。

僕らが注意しなければならないのは、弱さを安易に記号化しないことかもしれない。「生きづらさ」という言葉が広まったことで、かえって苦悩の多様性が隠蔽されてしまったのと同じ危うさを、「弱さ」という言葉も秘めている。どんなに抽象化しようと、人間の弱さはまず身体の脆弱性に根ざしている。いずれ消えゆく脆い存在だからこそ、僕らは誰もが尊いのだ。それを実感するためには、やはり自らの肉体に向き合う以外にない。そう、筋トレに励むしかないのだ。


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