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Whatに熱くなる都市、Whoに熱くなる地方

都市と地方のコミュニケーション作法の差ということを、何度も取り上げています。先日、愛知県三河地方出身で東京で修行をし、また三河に帰ってきた料理人の方と話す機会がありました。

そこで、仰っられていたのが

地方の人は「what」に対して熱くなりにくいけど「who」に対しては熱くなりやすい

ということです。

『美味しい店』か『友達の店』か

具体的には、

地方に初めて開店したとき、「クオリティや正しさよりも優先される判断基準がある」てことを認識してなかった。美味しい店と友達の店、だとどちらが優先されやすいか?という時に地方の場合、後者の要素をある程度追求していかないといけない率が強い

と。この『美味しい店』と『友達の店』は分りやすい選択肢だと思います。

休日の夜に時間がある時、『人間関係は特にないけど美味しい店』に行きたいと思うか、『味が格別良いわけでもないけど、友達がやっている店、常連が知り合いの店』に行きたいと思うか

人によって、その日の気分によっても違うでしょう。私、個人では、8:2で『美味しい店』を選びます。そして、私の体感では都市の人は7:3で『美味しい店に行く』派が多く、地方の人は3:7で『友達の店に行く』派が多いように感じます。

みなさんは、いかがでしょうか?
『美味しい店』に行きますか?
『友達の店』に行きますか?

そう、『その店に何があるか』とWhatに興味があるのか、『その店は誰の店か?』とWhoに興味があるのか?

そして、料理人の方が失敗と語ったのは”『美味しい料理、正しい料理』を提供すれば商売が成り立つと思ってた”ことです。ぶっちゃけると、『東京みたいに、溢れんほどに人口がある都市では、よほど尖ったWhatでも商売が成り立つ程度に来店数を稼げるが、人口の少ない地方では、Whoで釣っていく要素がないと顧客数が成立しない』のです。

実際、このコロナにおいても、テイクアウトへの業態変更などで、飲食店が急場を凌いでいました。

傾向として、都心のレストランほど『テイクアウトでも美味しい***』『レストランの味がご家庭でも!』と、『What』を宣伝し、料理で勝負をし、地方の飲食店は『みんなの愛する***レストランを救おう!』みたいに、ハッシュタグがついて、『料理の美味しさ』ではなく、『今日は常連の**さんがテイクアウトしに来ました!』と、『人と人とのつながり』で集客を伸ばすアプローチが多かったと観察しています。

これは、どっちが良い悪いでなく、それが、都市と地方ということなのだとおもいます。

※都市と一口にくくっていますが、東京でも錦糸町とか町屋とか青砥とか戸越銀座とか武蔵小山とか荏原中延とか、ローカルの強いところは、ここでは『地方』に入れて良いかと思います。

Whatのリーダーシップ Whoのリーダーシップ

さらに、その方はこう続けました。

「クオリティや正しさよりも優先される判断基準がある」ということについて、スタッフに関してもビジョンよりも誰が言うか?がより支配的、と言うのは感じます。

「その人にとっての特別な誰か」にさえなれれば、こんなに楽なことは無いというかめちゃくちゃ熱くなってくれるのかな、と思ってます。

特別な誰かになるための努力と、提案するときの言い方「これは○○だからこうして欲しい」ではなく「これをされると僕が悲しいからやめて欲しい」「こうしてくれると嬉しい」というようなコミュニケーションに気を使うようになってだいぶ楽になりました。

まさに、これが都市と地方のリーダーシップで違うところです。

よくあるリーダーシップ論などでは『ビジョンを語る』とか、『What』、正しさで引っ張ろうとします。これは、『Who』に熱くなる人にとっては、余り響くアプローチではありません。

また、個人のモチベーション形成も「自分のキャリアビジョンを明確に描かせて、そこに向かってモチベーションを喚起する」みたいな手法も、余りピンときません。

一方、内容の高度さとか面白さとか適切さは、一旦横に置いておいて、「誰かのために」「みんなのために」ということを強調すると、驚くほどの結束力とパワーを生み出すのも、地方では珍しくない現象です。

これも、どちらが良い悪いではないです。どちらも一長一短です。Whatに興味がある人は「正しい方向に進むべきだ、人の気持ちなんて関係ない」となりがちですし、Whoに興味のある人は「正しさなんてどうでもいい、みんなが嫌な思いをしないことが重要だ」となりがち。どっちもどっちなのです。

What型の人に対して「みんなの気持ちも考えて!」と訴えても響かないし、Who型の人に対して「こっちのほうが正しいだろ!」と訴えても響きません。

むしろ、「あいつは、いつも感情で動いてばかりだ(だから、正しさで動く俺の方が優れてる)」「あいつは、いつも人の気持ち考えない(だから、みんなの気持ちを考えられる俺の方が優れてる)」と、意固地にさえなります。

勘違いして欲しくないのは、どっちが優秀と言うことではありません。What型にはあるべき姿を追い求め社会のビジョンを指し示す重要な役目が、Who型には人の心を集め社会の結束を固めていく、これまた重要な役目が、それぞれにあるのです。

どっちも大事です。反発ではなく、理解し、手を組みましょう

そして、この、What型とWho型の人口比率や、個人の中でWhatとWhoどっちを重視するかのウエイトの置き方が、都市の人の想定のそれと、地方の人の想定のそれには大きなギャップがある。そして、そこにギャップがあること自体、お互いに意識していません。

私自身、東京の大学に行きアメリカから帰国して直ぐの20代中盤の頃、仕事の付き合いの延長で、ある地域団体に入り、比較的短期にリーダー職になったことがあります。

そのとき、ガチガチのWhat型思考だった私は、「では、この団体のビジョンは何ですか」とか「あなたの入会した理由は何ですか」と掘り下げるワークショップ型でチームをまとめようとしましたが、思いっきり空回りでした。

そもそも、「友達の***ちゃんに誘われて入った」とか「会社の先輩の勧めで入った」とか、「誰かに言われた」「誰かに誘われた」が、入会動機のメイン。決して地域活動をやりたくて入会してるわけではなかったんですよね。

「日曜サーフィン行きたい人~!」って「サーフィンのために」集まるのでなく、「日曜暇な人~」「**ちゃんが行くなら行く」でまず集り、集まったあとで「どこいこうか?」というイベントの生まれ方をするのです。

習い事に関しても、『茶道を習いたいという目的を持って茶道をやってる人』より、『知ってる◎◎さんに誘われたトピックがたまたま茶道であっただけ』で、誘われた教室が生け花だったら生け花だったぐらいのテンションの人の方が多いような印象を受けます。

部活動などでも『**大会で優勝するためには、うちのチームは**が弱点だから、ここを伸ばそう』ということが『話し合い』というより、『**君が練習をサボる』とか『***君は一生懸命やってる』とか『**君の態度がチームの雰囲気悪くしてる』とか、そういうことが『話し合い』の中心になったりします。

都会の人と地方の人、相互にコミュニケーションや社会の仕組みに感じる違和感は、このあたりに起因することが多いのではないでしょうか。

都市と地方の分断は、「What」と「Who」の分断

さて、ここまでWhatとWhoの分断を書いてきましたが、それはなぜ生じるのでしょう?

それは、進路選びの段階で、『自分のやりたいことが明確なWhat型』の人は、それが全国どこにあろうとも(経済事情の許す限り)、それがやれる場所へ移動していく、すなわち、街を出て行く、のに対して、『誰と一緒にいたいかが明確なWho型』の人は、当然ながら、家族や友達と一緒にいられる地元に残ることによって生じます。

それが、進学段階ならWhat型の思考は「***が学びたいから、**高校、***大学」、就職段階なら「***という仕事でキャリアを積みたいから、***会社」ということになりますし、

Who型の思考は「友達の大半がいくから、自分も**高校」「家族と一緒に過ごせる地元にある学校・職場」「地元の先輩に誘われたから就職した」という選び方をする。

そうすると、都会の方が当然「What」への関心を充してくれる大学や企業の数が圧倒的に多い。よって都会ほど「What」型の人材が集中し、「What型」にとって居心地の良い価値観や社会が構成され、地方ほど「Who」型のルールで社会が構成されるようになります。

この傾向を示したのが、以前書いた私の記事ですが、愛知県を出て行く女性は「仕事の内容」が、愛知県に残る女性は「自宅から通えるか」が、仕事選びの最重要点だったというアンケート結果を示しています。

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そして、「What型」の社会は「Who」型にとって、競争的で人の温もりが感じられないことがストレスになりますし、「Who型」社会は「What型」人材にとっては、「人のつながりが濃すぎて息苦しい」ということになります。

佐竹知事は「言いにくいんですが」と切り出し、「『あっこの家の娘だば、まず派手で』とか、『あっこの家の嫁だば、ああだこうだ』とか」と、うわさになるのが嫌で県外に出ていく女性がいるとの見方を披露した。

佐竹知事の言ってることは、まさに「Who」型社会で、「What」型人材が流出していることを示しています。

この分断を解決するには「What型」は「Who型」のコミュニケーション作法を、「Who型」は「What型」のコミュニケーション作法をそれぞれに理解することしかありません。

※逆に、都会に生まれてしまった「Who型」の人の生き辛さというのが別テーマとしてはありますが、またの機会。

What型がWho型社会に馴染むには

最後に、What型がWho型社会に馴染むには、ということを書いていきます。地方が人口流出を防ぐには、「What型」人材に選んでもらえる地方となることも大事ですが、これもまた別の機会。

ここでは、東大生が長野県塩尻市で健康診断の受診率向上に取り組んだプロジェクトを紹介します。

かなり長いので、結論だけ

インタビューの結果、対象となる主に自営業の方は、「自分が店や家族を背負っているんだ」という強い自負と覚悟を持っていらっしゃいました。彼らは市の職員さんからの電話やはがきを、「どうせノルマのためにやっているんだろう」「部外者が一々俺の生活に口を出すな!」と考えているようです。一方、妻や親に「そろそろ健診にいったらどう」と言われたり、また仲間うちと集まる機会になる場合、またかかりつけ医から推薦された場合はほとんどのケースで受診していました。

ここからわかるのは、声をかけた相手が「Weの関係」(=広い意味での身内)と捉えていると、格段に受診率が上昇するということ。そして残念ながら、市職員はまだ「They」(=他人の関係)とみなされていること。よって、市職員を「They」から「We」へと認識の上で変わるようにする方策を打ち出せばよい

ということ、まさに「What=健康診断受診の効果」より、「Who=誰が言ったか」への発想の転換です。

あるいは、木下斉さんの記事を引用すると、

基本的に「可愛がられる」「あいついいヤツ」「すげー面白いやつ」というカテゴリに入るかどうか、みたいなところがあります。可愛げがない奴はどこで何を話したところで、誰もついてきてくれない

(対策) 頼れる兄貴分の翻訳者を見つけよう

もし自分ではなかなかそういうのが分からないとか、見つからないってときは、よき兄貴分をみつけるってのは大切です。このあたりは失敗含めてなんどかトライして自分なりの「触覚」を鍛えるしかないのですが、ちゃんと自分の話を地元の言語でも話してくれる人、自分に不足する信用力とかを担保してくれる人、そういうパートナーをみつけよう

ということにつきます。自分で「Who型」になれないのなら、「Who型」の通訳をつけろという作戦です。

「Who型社会」では、極論を言えば、「自分たちが認めてないやつは何を言ってもダメ」というのが『ルール』。その『ルール』は疑われることさえない『ルール』です。

逆に、『自分たちが認め』さえすれば、『何を言ってるかさっぱり分らないけど、お前が言うのなら、きっとみんなのためになることなんだろうから協力する』となります。

「What」型の人からすると「理解されてないのに協力は全力で受ける」という、もの凄く違和感のある状態ですが、変に解消しようとしない方がいいでしょう。理解してもらおうとすると却って「結局、自分のことばっかり喋って」と、折角の協力がこじれます。

最後に、あえて主語の大きい広い話をすると、日本人の国民性としては「Who型」の人の方が7割ぐらいじゃないかと思います。そして、戦後70年を経て、残りの3割の「What型」が都会(東京)に集中する偏りある人口構成になっている。これが、都会と地方の分断に繋がっているのではないでしょうか。

そして、全国規模の社会の意思決定が「What型」の思考で行われるため、「Who」型からすると違和感のある制度設計になる。もともと「What型」は、ある程度感情を無視して目的に一直線になれるので、短期的な成果は出しやすいし、現代社会では地位を獲得するのに有利に働くのも、それに拍車をかけるでしょう。

そして、実はこの現象、日本だけではないかもしれません。

世界で頻発するナショナリズムへの傾斜は、全人口の3割程度の「What型」人材が考えてリードする社会正義への、残り7割の「Who型」からの反発、と捉えると、以外と説明が上手くいくような気がします。基本的に「What型」がリベラル、「Who型」が保守と相性が良いようにも思いますが、

政治のことに深く立ち入る前に、

今日の話はここまで。

【2020年7月14日追記】

より、コミュニケーションの詳細に触れた続編を書きました。


最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683