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文化は最先端と最後尾にしか宿らないのか

文化は最先端と最後尾にしか宿り得ないのか。宿り得ないものなのか。

それが、最近思うことだ。

例えば、文化的な景観というと、最先端のオシャレな建築物か、あるいは、100年以上の歴史的な建築物や自然風景が想起される。いわば、時間軸で言うところの「最先端」と「最後尾」だ。

今日のnoteのカバー絵のような、まさに「最先端」と「最後尾」の中間である「今」であり、ロードサイド、国道風景を取り上げられることはない。

あるいは、農業もそうだろう。もてはやされるのは、最先端のアグリテック、フードテック農法か、それとも手作り、無農薬といった、『昔ながらの』(敢えてかっこ書きにした)自然農法か。

その中間にある、大多数の農業従事者が、そして、現役の農業従事者がキャリアを積み重ねてきた、「化学肥料も使うし、それなりに効率性も求めるし、それなりに機械もつかうし、あんまり儲からない中で、なんとか、えっちらおっちら、家族を支えてきた」みたいな農業は、見向きもされない。

これは、工業もそうだ。

最先端のITテクノロジーか、それとも、伝統製法、手作りにこだわるか、もてはやされるのはどちらかだ。「木桶」か「AI管理」か、その中間にある、スチールやプラスチックのタンクでの生産は置いていかれる。

私たちの豊橋は、日本有数のキャベツの産地だ、生産量は6万トン近く、動くお金は50億円、100億円の世界になってくる。それだけの大量生産があるから、日本は、毎日キャベツを買うことが出来、街角の食堂の「とんかつ、キャベツおかわり無料」が成り立っている。

各小学校区あたりに1個、そういう「街角の食堂」があるとしても、全国の小学校の数は2万校、2万軒の食堂が毎日「キャベツおかわり無料」をやっていける、それだけの食料生産が行われている。

これは、きゅうりでも、ピーマンでも、ニンジンでもそう。

それだけの生産供給があるから、私たちの日常生活は成り立っている。そして、数十億のお金が動き、農協や、大手流通が関与し、産地から全国に配送される。

しかし、この「供給責任」を果たしている「普通の農家」は見向きもされない。配送のドライバーさんはそこに存在していないかのようだ。もてはやされるのは「顔の見える農家」か、「AIやドローンなど最先端のテクノロジーで課題を解決するアグリテックベンチャー」かだ。

既存のシステムの中で、えっちらおっちら、家族を養いながら、銭単位残すと削減に取り組み、なんとか20年、30年と農業を続けてきた、「普通の農家のおじさんおばさん」の努力などに、誰も「文化的価値」を見出さない。

『顔の見える農家』のラベルの、そのラベルを印刷する工場で、毎日単調な仕事を繰り返す、最低時給のパート労働者の顔は誰にも見られない。同じ、生産者なのに。

ローカルアクティビストの小松理虔さんは、著書「新地方論」の中で、いわき特産のカマボコをとりあげ、こう述べている

一次産業ばかりでなく「食品加工業」も盛んだ。たとえば、ぼくの暮らすいわき市は長く「板かまぼこ」の生産量日本一だったとされる。一言で「板かまぼこ」と言っても、いわきでつくられているやつは、たとえば神奈川県の小田原でつくられているような高級なやつじゃなくて、透明なフィルムに包まれてて、スーパーで1本100円とか200円くらいで並んでいるやつである。正式には「リテーナ成形かまぼこ」という。

(中略)

大手メーカーの依頼を受けて製造を請け負うOEM生産も多い。多くのかまぼこメーカーにとって、お客さまとは「消費者」というより、スーパーや食品市場の「バイヤー」たちだった。

(中略)

メーカー側はモノいわず、粛々と、黙々と、市民にすら知られることなく生産を続けてきた。供給責任を果たしていくには製造に特化し、徹底して生産効率を上げなければいけない。原料価格も抑え、手数をかけずに安全と味を両立させる必要もある。そうして年間数十万本、数百万本というかまぼこを、いわきのメーカーは県外に送り出してきたわけだ。

そして、こうも述べる

「安価な材料でできる限り質の高いものを安定的に、かつ大量につくる」というのは大変な技術とノウハウが必要である。「熟練した職人の手作業」ばかりが物産をつくっていくわけではない。顔の見えないところにいるつくり手たちのことを、もう少しポジティブに伝えていくことも必要じゃないかと思うのだ。

実際には地域を支えるだけの経済規模を持つのは、こういった大量生産品だ。それが、地域の産業を作り、雇用を生みだし、多くの人の生活を保障している。

そして、産業と雇用を生みだし、維持していくために、効率化のための努力をし、そこに時間を捧げ、日々の仕事に従事してきた、何百人、何千人もの人生と努力がそこにあるのだ。

「最先端」でもない、「最後尾」でもない、中間のところにある大量の生産と、そこに黙々と従事する人たち。私の豊橋、小松さんのいわきのような、田舎でもない、都会でもない、ほどほどの郊外に住んでいる。それが、日本人の多数派なのだ。

https://www.homes.co.jp/souken/report/202209/

LIFULL HOME’S総研の報告書「“遊び”からの地方創生寛容と幸福の地方論Part2」では、余暇活動、食生活、ファッション、教育など様々な分野のWell-beingを調査している。

その結果、全ての項目において「自由に楽しくやれている」と感じる人の割合は、東京都が一番高く、そこから、100万人都市、20~100万人都市、5~20万人都市と、人口規模が小さくなるほど、そう感じる人の割合が少なくなり、5万人未満になると、逆に反転すると報告している。

”ほとんどの町村が含まれる5万人未満のカテゴリーの方が、人口規模が少し大きい都市よりも「自由に楽しく」生きられている人が多いようだ”

これは、まさに、「最先端と最後尾」しか、価値を見いだせていない状況ではないだろうか。

醸造の業界でも、手作りの価値が見直されている。それ自体は大変素晴らしいことだ。だが、一方で、日本には依然として1億人の人が住んでいる。

「日本古来の味噌の価値を見直して、朝昼夕、毎日飲みましょう!」というテーゼに反対する人はあまりいないだろう。私も大賛成だ。

だが、落ち着いて計算してみると、味噌汁を朝昼夕3杯飲むとして、1杯1gなら、3g、3g×1億人なら、毎日300トンの味噌を誰かが造らなければいけない。年間なら10万トン近くになる。

顔の見える手作りの生産、では絶対に無理だ。こんな量。(ちなみに、日本の年間の味噌生産量は約30万トンです)

この、1億人を養うための供給責任を、粛々と果たしているのは、5~20万人くらいの、まさに、工場が立地する地方都市に住み、工場で雇用されている人たちなのだ。

そして、メーカーは、それぞれの地方都市で、地域の有力な産業として、大規模な雇用の供給源として、地域の暮らしを支えながら、首都圏や地元のスーパー向けに、それなりの人口が養える規模の量をちゃんと造って出荷し、毎日の『別に顔が見えるわけでもない日常の消費』への供給責任を果たしている。

食品以外にも、家電や家具、衣料品、ゴム製品、あらゆるものにおいて、同じことが言えるだろう。

その「中間」が評価されない、世の中が「最先端」と「最後尾」ばかりを見ている。都心の最先端か、田舎の自然の生活か。

それによって、そのどちらにも属さない、5~20万人都市の人々の生活が自尊心を得られていないこと。

それが、日本の閉塞感に繋がっているのではないか。

もっと、「地方郊外の普通の生活」「ロードサイドの普通の光景」に光を、そこに文化的価値と評価を、そして、地方都市の自尊心を、と、願わずにいられない。




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