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芸術鑑賞と夢の類似性について考える-2022年あいちトリエンナーレの芸術鑑賞から-

本文は専門的な知識に基づいたものではなく個人の所感となります。
そのうえでお読みいただけますと幸いです。

昨年の夏、あいちトリエンナーレに行った。
たまたま名古屋に行く機会があったためふらっと寄ったのだが、その時感じた「芸術鑑賞と夢を見る体験の類似性」について備忘録として残しておく。

だがその話に入る前に、当日鑑賞した作品の中で特に印象に残ったものをいくつか紹介したい。

鑑賞した作品たち

あいちトリエンナーレは「愛知芸術文化センター」「一宮市」「常滑市」「有松地区(名古屋市)」の4会場に分かれる。
愛知芸術文化センター以外は(地方芸術祭ではよくあるように)街のいたるところに芸術作品が展示されていて、街の探索とセットで芸術鑑賞ができた。

まず、メイン会場の「愛知芸術文化センター」に赴いた。
ここでは70作品ほどを鑑賞することができ、短時間で非常に多くの作品を見ることができた。丸一日しか時間が取れず、あまり一つひとつの作品鑑賞に時間をかけることができなかった自分にとっては、効率的に鑑賞することができ非常に有り難かった。

中でも今回のトリエンナーレのテーマ「STILL ALIVE」の作者である「河原温」の作品が印象に残った。
STILL ALIVEの元となった河原さんの作品紹介は以下。

河原温は1969年12月に自殺をほのめかす3通の電報をパリの展覧会に送り、その1か月後に最初の《I Am Still Alive》がコレクターのヴォーゲル夫妻に送られています。これらを成立させているのは各地の電報や郵便制度ですが、これを30年間送り続けた行為そのものは彼の生存の証となりました。

 あいちトリエンナーレ公式HPより

会場には、おびただしい数の電報が展示されていた。
以前アーティストの方と会話をした際に「アーティストは生活そのものがもはや芸術活動なんだな」と強く感じたのだが、上記の作品に対しても同じことを思った(本作品は意図せず結果的に作品になってしまったのかもしれないが)。

アーティストの、こういう不器用ながらも生きた証を形に残すような生々しさ・生命力に、自分は憧れていると感じた。

「あいち2022」作品紹介ページより引用

その後、一宮市の展示会場に赴いた。
そこでは、スケート場や製糸工場などが展示会場となっていた。

スケート場に作品が展示してある。異様な光景
かわいい見た目の製糸工場
製糸機材から伸びる無数の赤い糸たち。塩田千春の作品
機織り機などもそのまま置いてあった
専門学校の中でも展示が行われていた(数年前の藝祭でも似た作品があったような)
看護学校の教材を活用した塩田千春の作品

今回は時間の関係で一宮市しか回れなかったのだが、展示会場をぐるっと巡って思ったのは、「非日常な会場での芸術鑑賞とそれに付随するまち歩きは、まるで夢の中にいるようだ」ということだった。

街のいたる場所に作品が展示してあるので、即座に展示会場だとわかるものもあれば、公園の中に突如作品が現れるなんてこともあった。街の中に溶け込む作品を一つずつ見つけていくのは、巨大迷路の中で宝探しをしているような気分だった。

そしてそれはたまに見る、迷路の中に迷い込む自身の夢に似ていた。作品の展示会場を探し、日常とは違う会場の様子や芸術作品を目にする行為は、夢の中で「この先はどうなっているんだろう」と一寸先さえ分からず彷徨う自分の夢のように、不安ながらも刺激的だった。

今回の体験を、少し別の角度から見ることにする。

「開くこと・閉じること」と芸術鑑賞

以前、自分が興味を持って読んでいた論考がある。

この中で筆者の石田さんは、コロナ禍によって、人々が「個人の世界を閉じること(ex.部屋に籠る・イヤホンをするなど)」と「個人の世界をオープンにし、干渉し合うこと(ex.カフェで人と対面し、会話をするなど)」の共存が増えてきたのではないかと述べている。

さらに、彼はこの「閉じる・開く」体験が同時にできる場所として、豊島美術館を例にあげている。

コンクリートシェルの内部は過剰に音が反響し、ジャンパーを脱ぐ音ですら反響する。誰かの話し声は端と端にいてもしっかりと聞こえてしまう。神聖さは自分だけの不思議な夢に迷い込んだようであり、音によるノイズは夢から覚まされるようだった。そのアンバランスは奇妙だ。自分だけの神聖な世界があるが故にノイズが疎ましく、しかしノイズがあるが故にむしろしっかりと自分の世界に集中して浸ろうとする自分に気がつく。僕はそのズレを面白いと思った。閉じると開くということがズレるからこそ、むしろ閉じた世界は反響し相互作用しあう。

「受賞論考の全文公開〜夢の中で暮らすことから始まる都市の公共性のこれから」より一部引用

私自身も、豊島美術館は大好きな場所であり、シンプルな展示ではありつつも、一日中その場でぼーっとできる非常に秀逸な美術館だと思っている。そして改めて考えると、この魅力は「夢の中にいるような感覚を味わえるため」なのかしれないなと思った。

さらに彼は、昨今普及しているVR・ARなどのデジタル技術による「閉じる」活動やコロナ禍の現状により、今後人々がもっと現実と夢のような空間を往来するのではないかと予想している。

人々はもっと閉じていくのではないか、という気がする。カフェでHMDをかぶる人も増えるだろう。好きなものだけを見て、好きな音だけを聞き、自分だけの世界にひたる。人は都市を夢遊病患者のように歩き回るのかもしれない。VR技術による体験は時折夢のようにも見える。そうしたあり方は以前から少しずつ表出してきていたが、コロナ禍は以前とは比べようがないほどそうした閉じたあり方を許すようになったように思える。世界を閉じられたことへの反動かもしれなかった。
 幻覚や幻聴なども含む人の多様な認知は、狂気として都市からは排除されてきた。一方でデジタル技術が都市に溢れるとき、やがてそれはデジタルかフィジカルか、あるいは幻覚か区別がつかなくなる。夢とは、像を結んだ別のリアリティであると捉えてみたい。それは人の認知特性によって生じることもあれば、VRなどの技術によっても実現されうる。それは別世界として機能し、新たな公共空間ともなりうる。

「受賞論考の全文公開〜夢の中で暮らすことから始まる都市の公共性のこれから」より一部引用

この論考を読んで、私は先日(物理的には閉じていないものの)芸術鑑賞により内的世界に「閉じ」ながら、街の「開かれた」空間を歩き回っていたんだなと思った。この「閉じながら開く」体験が夢の中にいるような感覚を呼び起こしたのかもしれない。

では、「閉じながら開くこと」はなぜ夢と類似しているように感じられるのか。そのことについて考えるにあたり、随分前になるが、twitterにて面白い投稿を見たことがあるので紹介する。

liminalは日本語で「境界・限界」のことを指し、
liminalityとは

人類学において通過儀礼の対象者が儀礼前の段階から儀礼完了後の段階に移行する途中に発生する境界の曖昧さまたは見当識の喪失した性状を指す

Wikipediaより

とある。
私の場合は上記のような「liminal space」を見る際に、初見の場所なのに懐かしさを感じたり、夢を見ているような感覚になることがある。その理由は「境界の曖昧さ」によるものなのかもしれない。そう考えると確かに、今回の宝探しのような芸術鑑賞や自分の見る夢も、曖昧さによる魅力を楽しんでいたように思う。

わたし(たち)はなぜ曖昧さに惹かれるのか

上記にあげた数々の現象の価値は結局何なのか。
これは私の意見だが、内的世界への没入感なのではないかと思う。曖昧で分からないから考える。周りに人がいたとしても自分の静かな世界に入り込むことができる。特に私の場合、芸術鑑賞時の内的世界への没入は癒しになる。

トリエンナーレにくる直前、激務とストレスで精神的にかなり参っていた。しかし、夏休みをとり仕事から数日離れて休養したこと以上に、今回のトリエンナーレの経験がかなり精神を救ってくれた。

最後に、かれこれ数ヶ月ハマっている、個人的にliminal spaceぽさを感じるMVを置いておきます。

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