何かをはじめるのに、自信はいらないよという話
最近、仕事で高校生や大学生と話をする機会が急に増え、「自分に自信がない」、「自己肯定感がない」という話を耳にすることが増えた。
中には、「自分が嫌いだ」という子までいて、それはさぞかし辛いだろうと思いつつも、どう言葉を返せばよいのか、ここしばらくずっと考えていた。
私自身、自己評価は低い人間で、高校を中退したり、まあまあ懊悩の多い人生を歩んできたので、気持ちは非常にわかる。ただ、不惑を過ぎる頃に雑念が薄れ、今はあまりその手の悩みは無くなってきた。
なので、その心の中をまとまらないなりに言語化してみようと思う。
タイトルにあるように自信はいらないと、最近は考えている。
何かをやりたいと自分の心が動いたときに、迷わず一歩踏み出せる心の状態になっているか。心にサイドブレーキはかかっていないか。そこがポイントで、能力の有無や、他人からの評価は、実は全く無関係だ。
一般的にイメージされる自信がある状態は、
A「私は、それを行うのに、必要な能力を十分に持っている。あるいは、私は十分な準備をしてきた。周りの人もそう言っている。だからやれる。」
こんなイメージだと思う。
でも、そうではなく、目指すのは、
B「私は、それをやりたいのでやります。」とナチュラルに行動にうつせる状態。(それが法を犯していたり、反社会的な行為でない限り。)
Aは、動き出すまでの、ハードルが高すぎて、最初の一歩がなかなか踏み出せない。
他者からの評価をイメージした、自分の心の中のテストで、一定の得点を獲得していない場合は、それを行動にうつしてはいけない。なぜなら、失敗すると危ないし、恥ずかしいし、無駄になるから。こういう考え方だ。
自分の心が、他人による許認可制、ライセンス制で運用されている。心にサイドブレーキがかかった状態だ。
その行動のライセンスを獲得するために、異様に自己評価が高い人、または異様に努力のできる人を目指そうとする。でも、それは不自然だし難しい。
それだと、なかなか動き出せず、不安や焦りがつのり、自己肯定感が下がっていく。負のスパイラルに入る。
自己評価が異常に高い人と自己評価が異常に低い人なら、前者のほうが手数が多く、経験を多く積めるので成功に近づきやすい。なので、自己評価の高い人を無意識で目指そうとしてしまう。
でも、「俺すごい!わたし最高!」という状態を目指すのは、もともとの性格や個性によっては筋が悪くなる。目指すべき「自信がある」という状態は、自分に対する心理的安全性が確保できているという意味に近い。
失敗だって楽しめますが何か?ぐらいの心持ちで、興味関心を持ったものに対して、最初の一歩を軽やかに踏み出せる心の状態をキープしておく。
やりたいからやってみる。
↓
うまくいかなかった。
↓
それでも、まだやりたいから、やり方を工夫してもう一回やってみる。
このループがきれいに回るように心理的安全性を確保しておくこと。
そうすることで、結果として経験が多くたまり、やがて、Aの「私は、それを行うのに、必要な能力を十分に持っている。あるいは、私は十分な準備をしてきた。周りの人もそう言っている。」という状態になってくるかもしれない。
でも、物事を始めるスタート地点でAの状態を求めると、自己評価のセンサーがポジティブ側にぶっ壊れてる人以外は、ほとんど前に進めなくなる。
何かを始めるのに自信はいらない。
能力の有無や、他人からの評価は全く無関係。
「やるか、やらないか」「やりたいか、やりたくないか」それだけ。
「やれそうか、やれなそうか」「やるべきか、やめとくべきか」は最初の一歩には必要ない。ここに自信や第三者はいらない。
自分のときめきに正直に、小さく一歩踏み出すだけ。その小さな一歩を何度も何度も繰り返すだけ。何度もやってみてだめならやめて別の道を選ぶだけだ。
自信はいらない。能力もいらない。というか、そんなものは知ったこっちゃない。やりたいなら、今日やる。今からやる。やりたくないならやらない。自信なんて必要ない。理由なんて必要ない。
やるか、やらないか。それだけ。
こんな心構えで、近年は生きている。ティーンエイジの頃と比べると、はるかに生きやすくはなっている。年を取り体型的に太くもなったが、精神的にも太くなった。加齢もそんな悪いものではない。
昨今の若者たちがのびのびと生きていけるように、何かできることはないか。この先はそういう事に時間を使っていこうと思い始めている。
それが、私のやりたいことだから。そこに、能力の有無や、他人からの評価は、全く関係ないのだ。
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