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今冬の奇妙な慰め

 冬が来た。今年の冬は、急ぎ足でやってきた。にわかに、思いがけず。

 十二月も初めの時点では、外の色彩も人々の装いもまだ秋で、今年の冬は暖かくていい、などと呑気に思っていたら、瞬く間に冬がやってきてしまった。驚くまもなく。街の空気が途端に、白くさみしくなった。

 冬と言えば、例年はもっと静かに、憂鬱に迫ってくる印象がある。

 例えるなら、物静かな少女たちが一枚一枚、薄皮のような白いベールを被せてゆく、といったもの。色彩がゆるやかに塗り替えられ、雲は重く垂れ込め、街路に並んだイチョウが散り、日がどんどん厳粛な色を帯びてくる頃、ようやく冬の、肺が凍るようなつめたさを認知する。そして「今年も冬が来てしまった」と、半ば途方に暮れながら窓外を見つめるのである。

 私は元来、冬が苦手だ。好きな季節は春と夏。第一に、冬は光が少なくて息がつまるし、寒さに身体が硬直する。外出する気なんて萎れた花のごとく後退し、仕事などでどうしても外出をしなければならないときは、厳しい風に顔を顰めながら、師走の渋滞に巻き込まれたバスを凍えながら待ち続けるのである。まるで、葉がすっかり落ちてしまった冬木のような、心許ない風情で。

 しかし、今年の冬は様相が違った。
  前触れなどきわめて薄く、冬への恐怖が増幅する前に、思いがけずやってきた。まるで赤い扉を開いたら、冬が立っていたという感じ。冬特有の憂鬱な圧迫感に攫われることもなく、急に気温が下がり、空や空気が寒さを含んだ。

 冬空の下、まだ秋を幻視するイチョウたちが無邪気に葉を揺らしているのを見ると、奇妙な感覚に襲われた。コートも羽織らぬまま外出し、凍えた様子で背中を丸めている人達を見ると、奇妙な感覚に襲われた。秋と冬との境界が曖昧だった。曖昧だったが故に、私は例年憂鬱で仕方がない冬を難なく受け入れられてしまった。

 春夏秋冬。季節は当たり前に巡る。けれど、昨年の冬と今年の冬は当たり前に異なる。空気の白さ。そしてその濃度。今年は初雪が早かった。相変わらずわたしは寒さを厭ってはいるが、例年のような淋しさや、憂鬱さは感じない。

 つい先日のこと。私にとって未知な出来事が到来した。
 今まさに私は揺らぎながら、そして半ば戸惑いながら今年を振り返り、来年を見つめている。

 そんな私に、この不意打ちな冬が奇妙な慰めを与えた。冬への恐怖を溶かし、どこか平静なまま冬空を見上げられることへの安堵。自然からの、ぶっきらぼうで、不思議な慈愛。

 最後に、高名なる生物学者、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』より、この言葉をお借りして、今年の気まぐれな冬の日記を締めくくる。

 地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。

 


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