#30 徳川家康の心意気と、教如上人の信念
天下人 徳川家康公と
東本願寺を創建された教如上人。
二人の偉人のやり取りに感動した話を書きます。
本願寺が東と西に分かれた歴史
浄土真宗の本山 東本願寺と西本願寺は、
元々1つの本願寺でした。
1592年第11代法主 顕如上人が亡くなられた後、
その長男 教如上人が法主となられました。
しかし、その後、豊臣秀吉の命によって
三男であった准如上人が本願寺の後継者となり、
教如上人は隠居。
(このあたりの歴史も面白いのですが、
とてもとても長くなるため今回は省略します)
教如上人は隠居されたものの、
かねてより親交のあった徳川家康公が
京都 七条烏丸の土地を寄進。
教如上人は、そこに東本願寺を創建されました。
准如上人が後継者となられたのが西本願寺、
教如上人が創建されたのが東本願寺です。
家康公と教如上人の親交
関ヶ原の戦いの軍議とされる小山評定にて
教如上人は西軍 石田三成の動きを伝えたとされています。
関ヶ原の戦いは東軍が勝利。
京都から栃木県小山まで
わざわざ伝えに来てくれたことへの感謝として、
家康公は上人へ褒美を渡されています。
その際、家康公はすでに隠居していた教如上人に、
もう一度法主になることを勧めました。
法主としての強い信念
前置きが長くなりましたが、ここからが今日の本題。
家康公からの「領地もあげよう」と言う提案に対して、
教如上人は「結構です」と断られています。
さらに
「我々の望みは、ただ1つ。
宗祖親鸞聖人の教えを広く世に広めることです。」
目の前に人参を垂らされても、
「自分の本分は教えを弘めることですから」ときっぱり断るこの潔さ。
何とも尊い信念です。
家康の心意気
家康公は寺地を与えるに留まらず、
末寺や門徒に「教如はん、オススメでっせ!」と
お墨付きを与えています。
寺を建てるということは、土地や伽藍だけでは不十分です。
そこに付いていく人たちがいるからこそ、
宗門(教団)が成り立っていく。
ハード面だけでなく、ソフト面への気遣いも忘れない。
多くの人の心を動かしてきた天下人 家康の心意気が伺えます。
家康公のお墨付きがあったからこそ、
全国の末寺・門徒が帰参することになり、
東本願寺が成り立っていくのです。
いかがだったでしょうか。
本願寺が東西に分かれた歴史と、
東本願寺ができるきっかけとなった偉人たちのエピソードでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
素敵な1日をお過ごしください。
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