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幼少期の終わり

小学校の高学年頃だったかと思う。
ある日朝起きたら、あぁ、学校に行きたくないな、このまま起きたくないなと思った。
その時何かが変わった、何かが終わったことを感じた。
学校では、声の大きい女子たちに同調しなければならないことが多くなり、自分が楽しいこと、自分が声を発せられる場所はもうほとんどないように感じた。やりたいことではなく、仕方ないからそのように過ごしていることが多くなった。
それまでの私は、自分がやりたいことをして、友達にも受け入れてもらえ、満足だった。自分のことが大好きだった。自分の生き方を愛し、自信をもっていた。
それがいつからだろう、周りの目を意識したとき、空気を読まなければならなくなったとき、のびのびと生きていた私は死んでしまった。何かが終わってしまったんだ。

大人になることは恐ろしいことだと感じる。悲しいことだ、つまらないことだと感じる。
その思い出があったからだ。
幼少期は終わってしまい、あの頃の私は戻ってこない。
失われてしまったあの頃の私の創造力を思う。

娘は保育園の頃かわいい絵をたくさん描いた。
小学生になって、それまでのようなお絵かきは見られなくなった。
ある時私は、娘が以前のようにたくさんの絵を描くという夢を見た。目覚めた時、成長とは失い続けていくことだと思い、たまらなく悲しいような気がした。
この子も今あるものを失い続けていくのだろうか。

最近娘は一人でよく喋り続け、一日中よく分からないクイズを出してきたり、いかにも小学生らしいお喋りが止まらず大人を辟易させる。私などがうんざりして返しても、意にも介さない様子だ。
子供は我々と同じ空間にいながら、全く違う世界に生きているのではないかと思う。
大人だったら気にすることを全く気にせず、自分の中に楽しみをもち、それを人と共有できると信じている。本当にそうなのだ。

リルケの書簡集を読んでいて、自分の幼少期に直面することは最もよいことだという記述がよくあった。
幼少期は尽きせぬ回想の宝庫である。子供は孤独に神の仕事についている。子供の時に持っていた感覚は自然であり、最もよいものだという。
だとしたらこの子は今その幼年時代にいるのだ。それはいつか終わるとしても、今がその時なのだ。
そして私の幼年時代はあの時終わったとしても、私にもその時が確かにあったのだ。

うつ克服の体験を描いた『僕が僕であるためのパラダイムシフト』という漫画に、以前いたく感動した。
主人公は催眠療法みたいなのを受けるのだけど(それはかかっている呪いを解くというものだった)、その時に自分の幼少期の姿を見て、初めて自分が愛おしいという感覚に包まれるのだ。
それを読んだ時私も泣いた。
幼少期の自分に戻ることはできない。それが失われてしまったことは確かだ。
でもそれは私の一番初めの姿で、私という命の本質であることに変わりはない。
ずっと子供であることはできなくても、子供時代はいいものだ。私にもその時があった、そのことだけで生きていけるほどにいいものだ。

だから私は、この子がこのような子供であったことを忘れないでいようと思う。私もかつて子供であったことを愛おしみたいと思う。
あの日それは終わったとしても、私は子供の頃の私のことを忘れていない。




一人ずつケーキを食べたひな祭りだった。



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