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干渉しすぎず放っておきすぎず、子どもを見守る大切さ

子どもの第一の高い塀は親と先生、第二の塀は法律と国家です。この塀のなかの囚人が子どもなんです」吉本隆明「老いの幸福論」

放っておいたら好きな事しかしないのが子どもたちだ。彼らをどこまで放置するか、そしてどう自主的な行動を促すか、子育てにおいて考えなければならないことは確かに多い。もちろん無力な子どもたちは親の庇護のもとでしか生きる事はできない。だからどうしても育てなくては、といった気持ちに親がなってしまうのも分かるのだが、それが高じて誰かに何かをしてもらうのが当たり前になっている子の多いこと多いこと。何に注視しどう目を逸らすか。一人一人の個性と照らし合わせつつどのようにそれを伸ばしていくのか、子育てで考えなければならないことは本当に多岐にわたる。

子育てにおいて、集団の一人として放任されつつ育てられたら、その承認欲求は満たされない。だが自分だけに焦点を当てられ続ければ、その過干渉に辟易する。どちらも過不足なく、というのはかなり難しいところだが、人間偏ると確かに楽だし、大人も感情の持ち主だ、いつも広い心を持ちつつ子どもに接する事なんてできるわけがない。

ただ一つ、子育てにおいてネガティブな感情に支配されていたとしても、やはり子どもと接する時の中庸だけは意識したい。はっきりしているのは、バランス感覚は人と触れ合う中でしか身につかないという事。「過干渉も放任も、同じ親の無関心」とは加藤諦三氏の格言であるが、人との触れ合いと親の関心のありようだけで子どもはしっかりと育つのだから、干渉しすぎず放っておきすぎず、子どもを見守る必要がある。

とりあえず、この世に白黒はっきりと区別できることは存在しない。あるのはグレーの世界だけ。その事実さえ覚えておけば、少しはこの「塀の中の囚人」たる小さき者たちの良き先達になれるのではないかと思っている。

子は親の鏡である。子どもを見れば、どんな子育てをされてきたのか、だいたい見当がつく。そこで目につくのが、「好き」を奪われて育てられた子どもたちの存在だ。いくつになっても自分探しに夢中で「好き」が見つからないかわいそうな子どもたちは本当に多い。そんないくつになっても不安から逃げられない人を見て、親が一番に考えなくてはいけないことは、勉強させることではなく、社会で生きていくために必要なルールへの自然な従いを身に着けさせ、社会が押し付けてくる明文化されていない裏ルールを自然にあしらい、なおかつ自らの好きを楽しむことなのではないかと思うわけだ。そして、自らの「好き」を肯定されて育てられた子どもたちは、どんなに過酷な仕事でも平気であしらう。そこに楽しみを見つけつつ。


「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

人の世の「世知辛さ」を端的に表す夏目漱石のこの言葉。
そんな世の中をひょうひょうと生きる人を見て、どんな子育てをされてきたのだろう?って思わずにはいられない自分がいる。

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