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狭山丘陵南麓の天王様信仰、その1

もう何度もお世話になっている狭山丘陵ですが、

年明けまだ慌ただしい中、大きな輪行袋抱えてというのもご迷惑だろうし、ということで、陸送で行ける所で、且つ、宿題がある所、となると、ここになってしまいました。

宿題とは、

なんですが、このエリアを回っていて思ったのは、須賀神社、八坂神社、八雲神社といった、スサノオノミコト関係の神社が多いということです。

上記リンク、『武蔵国の出雲族、狭山湖周辺』で書いたように、出雲族の影響だろうと思っていたんですが、それもあると思いますが、それだけでも無さそうです。

大山道シリーズ番外編の、『巡見道』で、何を巡見したのか、という話をしました。

天明の大飢饉で相模国最大の百姓一揆、土平治騒動があった愛甲郡、津久井県について、騒動が再発しないか、を、天保の大飢饉の時、巡見したのだ、そういう話をしました。

何故、愛甲、津久井で百性一揆が発生したのか。

それは、山間の農村ですから、米ができない。年貢も金納でした。絹織物や鮎、炭なんかを売って現金を稼ぎ、米を買ってたんです。自給自足が出来ないんですね。

そんな中、飢饉が発生すれば、誰も米を売ってくれませんから、餓死する人も出て、一揆に繋がっていったんです。

飢饉の時の一揆と言えば、ここ村山でも発生しています。天明の大飢饉の際の、武州村山騒動です。

全く同じ状況なんですよね。

村山は狭山丘陵の分水嶺から南、麓までがエリアです。そこから先は、玉川上水まで水がありませんから、前人未到の地ですよ、人が住める地ではありません。ですから、狭山丘陵の谷戸の僅かなエリアで水田を営み、畑をやろうにも赤土で上手くいかなかったようですね。だから、愛甲、津久井同様、年貢は金納でした。やはり、絹織物や、江戸まで近いので、炭などを運ぶ運送屋さんですね、そういったもので現金を稼ぎ、米を買い、肥料を買い、年貢を収めていたのです。

そんな所に飢饉だと、もう、どうしょうもないんです。全く、愛甲、津久井と同じ状況でした。

これが、須賀神社、八坂神社、八雲神社といった、スサノオノミコトを祀る神社が多い、もう一つの理由なんじゃないか、そう、思ったわけです。

上記リンク、『狭山三十三観音巡礼道』の観音霊場が開かれたのも、これ = 天明の大飢饉が原因なんじゃないか、、、なんて書こうと思ったら、自分でそう書いてありました、読み返してみたら。観音霊場が開かれたのは天明の大飢饉の最中、天明8年1788でした。

ということで今回は、狭山丘陵の南麓の、スサノオノミコト、狭山三十三観音霊場、武州村山騒動の痕跡をexploreします。


多摩川サイクリングロードで羽村まで。

天気予報では次の日が強風だったんですが、なかなか風が強い。走るのは辛いですが、富士山はキレイに見えました。

久し振りだったのと向かい風だったので時間も掛かったし疲れました。オシリも痛くなってしまいました。

漸く到着です。

玉川兄弟の像

ここに、玉川上水羽村陣屋があります。

玉川水神社と、玉川上水羽村陣屋の現存する門

武州村山騒動では、天明4年1784の2月26日夜、ここに、羽村村名主羽助、同太郎右衛門、組頭伝兵衛の3人が集まり、打ち合わせをしています。

ここで注目は、騒動を企画した者が、名主、組頭といった、村の指導的立場にいる者たちだったということです。それだけ、逼迫した状況だったのでしょう。

ここから、箱根ヶ崎に向かって羽村街道を行きますが、直ぐに、禅林寺があり、ここに、武州村山騒動に関する豊錠碑があります。明治26年に建立され、武州村山騒動を、村民の為を思った行動として称えた文章となっています。

豊錠碑

鎌倉街道を越え、青梅線を迂回し羽村駅の向こう側に出ますと、ここに、五ノ神社があって、境内社に、八雲神社があります。

五ノ神社境内社八雲神社
そしてまいまいず井戸も。武蔵野台地は浅間山、箱根の山、富士山の火山灰が降り積もった地。だから水はけが良く、井戸を掘ってもなかなか水脈に届きません。より深く掘る為に、この方法が取られました。

この井戸水に細菌やらウィルスがあるとたちまち感染が広がりますから、だから、八雲神社があるのかもしれません。

スサノオノミコトが祭神となっている神社の多くが、元は牛頭天王、所謂、天王様を祭神としていて、明治の廃仏毀釈でスサノオノミコトに変更され、須賀神社、八坂神社、八雲神社という名称に変更となっています。牛頭天王は、厄災を払い、疫病を除き、福を招く神様です。祭礼は主に夏です。

先を行きましょう、羽村街道は八高線を越え日光街道に合流し、飯能街道を西へ行くと狭山池公園です。

狭山池公園

ここが、武州村山騒動の集合場所でした。2, 3万人が集まったそうです。すごい人数ですね。

狭山池に集まった百姓たちに、三社権現の山頂から声が掛かります。

"山王前、山王前"

この掛け声を合図に、中藤村の名主、山王前こと文右衛門宅へ向かったのです。

三社権現、今の狭山神社

日光街道に戻り、浅間谷戸を遡って、箱根ヶ崎八雲神社に向います。

箱根ヶ崎八雲神社、創建年不詳、牛頭天王と称され、浅間谷戸の東にある野山にあったが、1799年、現在地に遷座。

遷座されたのは天明の大飢饉の後です。より近くにいてもらおう、そういう願いだったのではないでしょうか。

この神社は、瑞穂町の夏祭りを、ここと、石畑の須賀神社、殿ヶ谷の須賀神社と合同で開催しています。

日光街道に戻って狭山丘陵通りを東へ。庚申塔、西国百番供養塔を目印に、狭山丘陵の尾根に向います。上り詰めるとここに石畑の須賀神社があります。

石畑須賀神社、創建年不詳、今の祭神はスサノオノミコトですが、瑞穂町夏祭りの参加神社ですから、維新の廃仏毀釈までは天王様ですね。

折角上ったんですが、同じ道で下ります。上記リンク、『武蔵七党、村山党の痕跡を辿る』からの再訪ですが、東に行きますと福正寺があります。ここにある観音堂は、狭山三十三観音霊場の二十五番です。

福正寺、風土記によれば、観音の像は長一尺五寸餘の坐像にて運慶の作、とのこと。

その直ぐ東に、殿ヶ谷の須賀神社があります。

殿ヶ谷須賀神社、創建年不詳、甲子様と呼ばれていたとのことですから、甲子様 = 大黒天 = オオクニヌシノミコトですね。スサノオノミコトの息子ですから、関係無いということはないですが、恐らく、天王様は後に祀られたのではないかと見ます。

その先に阿豆佐味天神社があり、ここの境内社にも須賀神社があります。

阿豆佐味天神社、須賀神社の社はどれか分かりませんでした。毎年7月に開かれる天王祭は、須賀神社のお祭りです。

先を行きましょう、岸の須賀神社です。ここも再訪です。『日本のシルクロード、村山』の。

岸須賀神社

この神社は、狭山丘陵尾根グラベルにある須賀神社奥の院の遙拝所として、1790年、創建されたものです。

ということで、その名も、"宮野入谷戸" から奥の院に行きましょう。観光が目的ですが、僅かな田んぼが残っています。ここもグラベル時に何度か訪問しています。

僅かに残る田んぼ
参道は杉並木
鳥居が見えました。
岸須賀神社奥の院、創建年不詳も、文治年間、大山祗命、日本武尊を祀ったのが始まりとの伝承有り。その後、岸村開村時、村内疫病退散の為、牛頭天王を祀った。社殿は1663年建立、創建もこの頃か。

江戸時代の飢饉と言えば、三大飢饉と呼ばれる、

  • 享保の大飢饉、1732年

  • 天明の大飢饉、1782〜1788

  • 天保の大飢饉、1833〜1839

です。1663年だと、該当するのが無いな、と、思われるかもしれませんが、飢饉はこの3つだけじゃなく、奥の院が開かれた1663年の前、1640年代には、寛永飢饉が発生しています。

このことから推理すると、寛永飢饉の後、今で言う奥の院に須賀神社が祀られ、天保の大飢饉の後に、村落に近い麓に、遙拝所が建てられたのではないか、ということになります。

関係無いどころか、密接に関係していたのではないでしょうか。

さて、時計を見ると14:00過ぎです。陸送で帰るとなるとボチボチ。続きは次回とします。


今回は、武州村山騒動関係では、羽村村名主羽助、同太郎右衛門、組頭伝兵衛の3人が集まり、打ち合わせをした玉川上水羽村陣屋、一揆の集合場所となった狭山池公園を訪れ、天王様関係では、瑞穂町の夏祭りを共に行う箱根ヶ崎八雲神社、石畑須賀神社、殿ヶ谷須賀神社と、岸の須賀神社遙拝所と奥の院を訪れ、狭山観音霊場関係では、福正寺を訪れました。

岸の須賀神社の創建時期を見ると、飢饉と密接に関係していたことが分かりました。

次回は狭山観音霊場二十四番禅昌寺から再開です。

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