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3世が創価本を読んでみた『池田大作と創価学会』

日本の新宗教界において2023年はひとつの転機として語り継がれるだろう。3月2日に幸福の科学総裁・大川隆法、10月16日に冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞、そして11月15日に創価学会名誉会長・池田大作が死去。カリスマ宗教家と呼ばれる3人が次々に亡くなり、世間を驚かせた。

▲一昔前ではあり得ない対談動画も公開された


本記事タイトルにもある通り私は祖父母の代から続く生粋の創価学会3世会員なので、池田氏の訃報を目にした瞬間はかなり大きな衝撃が走ったのを覚えている。詳しくは後述するが完全に非活動になった今のタイミングであっても、幼少期より慣れ親しんだあの池田"先生"が亡くなるというのは素直に「とんでもないことが起きたな」という思いを認めざるを得なかった。

年が明けた2024年のとある日。書店を物色しているととても興味深い一冊を見つけたのですぐに購入した。2月16日発売の小川寛大著「池田大作と創価学会 カリスマ亡き後の巨大宗教のゆくえ」(文春新書)である。


かねてより創価関連の書籍はいくつか読んでいたが、池田氏の死去から数ヶ月が経ったこのタイミングで書かれたのならばタイムリーな付加価値がありそうだと踏んでページをめくる。するとこれが本当にもう想像以上の面白さだった

初代会長牧口・二代目会長戸田らによる草創期から戦後に至るまでの組織発展の歴史、そして三代目会長池田が実現させた成長拡大と、それに付随する社会との軋轢や衝突の過去を辿りながら、池田大作という存在がいかにカリスマであり、現在の姿へ創価学会をつくりあげるに至ったのかを検証。勃興・発展期から微かな衰退の兆しを見せる現在までの流れをさまざまな書籍・インタビュー・調査に基づいて記述・分析している。

一応かつてバリバリの未来部員(学会の小学生〜高校生)であった私が読んだ上でも偏った表現は見られず、あくまで中立的立場から俯瞰する姿勢が徹底されているのもよい点だ。今、創価学会を知りたいなら間違い無くお勧めできる一冊となっている。


今回の記事ではまず私と創価学会の関わりや実際の活動経験、そして現在の学会および新宗教に対するスタンス等を記しておきたい。その後、本書を読んでの感想や学びをいくつか抜粋し、最後に私なりの池田大作像とこれからの学会の未来を改めて考えてみる。

全体を通し特定の個人や団体を誹謗中傷あるいは賛美・称揚する目的はなく、中立の立場を守って事実や私の個人的な見解を述べるだけに努めることをご理解いただければ幸いだ。





私のこと

生まれた時からそこにあった

68年、池田氏と婦人部幹部の集合写真(画像出典

私の創価学会との関わりは祖父母まで遡る。祖父母はどちらも地方から仕事を求め上京し、出会った。同時期に創価学会のコミュニティと接触し、入信も果たしたようである。1960年代、高度経済成長期。いわゆる集団就職を経験した若者にとって、周りに頼る人も少なく慣れない都会暮らしは不安が多い。共通のバックボーンを持つ仲間と寄り合い、語る場所は貴重だったはずだ。

初期池田期・創価学会は貧困層の若者を囲い込み組織肥大化のきっかけ作りにした。その様相は「病人と貧乏人の集まり」と揶揄されるほどであったそうだが、彼らがのちの繁栄を支える下地となる人員であったことは間違いない。

持ち前の地力・胆力で全国を飛び回り彼らを直接激励してまわった池田氏もまた、一般的な家庭で生まれ病弱な身体をもつ"庶民出身"であった。彼自身の出自も信者たちにとっては親近感と憧れを持たせるものだっただろう。

そんな祖父母から生まれた私の親も2世会員として物心つく前には入信を済ませており、成人後に出会ったパートナーを折伏(創価用語で勧誘のこと)し結婚。私もまた0歳の時点で入信し、3世会員としての人生を始めることとなる。


日蓮正宗を知らない世代

日蓮正宗総本山・大石寺への参拝でかつて賑わったJR新富士駅(画像出典

創価学会はもともと独自の教義を展開する日蓮信仰の仏教宗派「日蓮正宗」の下部組織であったが1991年に破門処分を受けた。それまで学会員にとって総本山に建てられた大石寺へ訪れるのは通例になっていたが、事件以後は行われなくなった。

私が調べた限り不和の主な原因は組織拡大に向け力をつけていた創価学会と、その中で進む池田氏のカリスマ化を危惧した日蓮正宗の思惑が食い違ったことにあるようだ。それまで共通の目標としていた所謂「国教化」に近いビジョンも、創価学会側が1970年代頃を境目として社会的立場の変容(創価学会及び公明党が自らに批判的な書籍の出版を妨害したとされ追及を受けた「言論出版妨害事件」を起こす)を余儀なくされ追いかけきれなくなっていた状況も重なったようだ。

ちなみに余談だが宗教団体・顕正会もまた日蓮正宗の信者団体・妙信講を出自とする。

そんな歴史を持つ学会の一員になった私は90年代末生まれ。すでに私の観測できる範囲の創価学会において「日蓮正宗」は綺麗に排除され、全く存在しなかった。祖父母が「昔は山に行っていた」という思い出話と共に当時の映像を収めたVHSを見せてくれた記憶が若干あるが、私と同じ世代の2世、3世会員はほとんどがかつてのいざこざを詳しく知らないだろう。

一方で教義的にはいまだ当時のものに依存し続けている事実があり、日蓮作成とする板曼荼羅の複写(信者からは"御本尊さま"と呼ばれる)に相対して祈るというスタイルの根本部分は日蓮正宗時代から変えていない。


儀礼は最低限

本部幹部会に参加する学会員の様子(画像出典:聖教新聞)

私の物心がついたときから、親は朝晩仏壇に向かい10分弱の"勤行"を行っていた(「南無妙法蓮華経」の唱題をメインにした読経の儀礼)。何をしているかと尋ねれば御本尊様に向かって祈っているのだと返され、信仰の対象は日蓮"大聖人様"だとつけ加える。

休日には月次で1〜2時間ほど学会員同士の集まりに家族全員で参加する。会館(全国に点在する創価学会施設。催しを行う集会所や研鑽を行う小部屋等を備える)での幹部会中継や近所の学会員宅での座談会だ。どちらも根本の内容は似ていて、指導を聞いたり会員の近況報告を行ったあと最後に勤行唱題をして帰る。

ほとんどの一般学会員が日常的に行う「宗教行為」はこれくらいであり、その内容も今挙げた通りごくシンプルだ。


会館内部はかなり広く綺麗で、ピアノも備え付けている。以前イベント設営に携わったことがあったがマイク・モニター等音響映像機材もかなり本格的だった。(画像出典:聖教新聞)

活動を通してフォーマルな緊張感を強いられる機会はほとんどなく、たとえば会館での集まりでも一般会員はみな私服で参加できる。幼少期の私も一応会館に行くものの大人の難しい話が面白いわけもなく、両親の膝の上でピコピコとゲームに励んだり休憩室に設置してある給茶機で無料の緑茶をたらふく飲むなどして遊んでいた。

ただそんな中でも、いつも後半に登壇した"池田先生"はしっかり印象に残っている。どしっと座り独特のテンポで力強く話し、信者たちへ呼びかければ会場(中継先)の男性会員が「ハイッ!!!」と威勢よく返事を返す。時折ジョークを交えつつ直近の組織躍進に対する激励や教義に絡めた人生訓等で空気を盛り上げ、最後には激励の言葉をかけ拍手でステージを後にする。子供ながらに話の上手さとそれに呼応する会場のビリビリとした空気感を感じていた。


少年部としての日々

地域の会員宅を拠点として座談会が開催される。内容は機関紙の読み合わせや近況報告が主。子供たちは構わず近所の公園や別室で遊びまくる(画像出典:聖教新聞)

小学生になると学会内では「少年少女部」と呼ばれる組織に所属することになる。座談会の子供版である部員会が月一ほどのペースで開催され、私の地域では子供達がおよそひとクラス分ほど集まっていた。

しかし、これがもう本当に嫌で嫌で仕方がなかった。とくべつ何かしら苦行を強いられるわけではないのだが、こちとら遊び盛りの小学生真っ最中である。せっかく学校から解放されて公園や空き地に遊びにいきたい日曜日に、なぜわざわざ知らない子供とみちみちに座ってつまらない話を聞かなければならないのか。

1時間ほどの催しではあるが時間感覚の違う一桁代の年齢にとっては相当に長く感じたものだ。学会発行の子供版・聖教新聞である"少年少女きぼう新聞"の内容を読み合ったり、学校で頑張ったことを発表しあったり、軽いレクリエーションなどの時間があった。最後には学会歌を歌い、短く唱題をして終了。

しかしそんな面倒臭い部員会も、唯一の希望は終わった後に駄菓子がもらえることだった。普段お菓子がほとんどない家に育った私にとって、部員会の最後に手渡されるうまい棒やキットカットは日常ではまずお目にかかれない貴重なもの。それだけで大喜びで、御本尊様に感謝感謝の大勝利気分だった(あと、歯医者が終わった後の飴もそう)。



▲未来部公式HPでは新聞連載の教義解説「ライオンキング御書」を試し読みできる。創価教育の雰囲気を感じられるのでぜひご覧いただきたい。いやあ懐かしすぎる……。これが思い出になる悲しい3世の少年期である。


▲ことあるごとに歌われる「学会歌」がいくつも存在し、ほとんどは作詞を山本伸一(池田氏のペンネーム)が務める。軍歌調でお堅いものが多い中、私はこの『21世紀のマーチ』が好きだった(海外の創価学会・SGIのテーマソングだ)。どこかディズニカルで多幸感に溢れたサウンドやキャッチーなメロディに胸が踊る。曲自体は普通にいいと思いますよ。




合唱団に入団

地域レベルから全国レベルまでランク付けがあり、より高度な合唱団へ入ることもできるがその分指導が厳しい。画像は千葉県を代表する王子王女合唱団(画像出典:未来部HP

はじめはあまり興味のなかった信心だが高学年となるにつれ教育も徐々に進み、一流学会員の卵としての素養が出来上がってきた。毎朝学校の前に勤行をし、朝読書の時間には山本伸一著『新・人間革命』を読み、毎月の未来部員会でもすっかり運営側に回って司会進行を務めるようになった。

▲テレビ取材で本棚が写り込んだ佐賀芸人はなわ一家をはじめ、この本が揃う家庭はほぼ間違いなく学会員だ。主人公・山本(池田)の自伝小説で、彼の奮闘と創価学会躍進の様子が希望溢れる視点で描かれる。


ある日、私は地元の幹部会員の誘いに乗って少年少女合唱団に入団することとなる。

こちらも毎月一回ずつ、会館に10人〜20人ほどの子供で集まる機会を伴う組織だ。休日の朝、代表の親が地域の子供をひとりずつ家の前まで車で迎えに来てくれる。30分ほどかけて会館へ向かうと、他の地域からも集まってきて合唱団全員が集合する。そこからは親元を離れ、子供の管理は指導役の一般会員の役目となる。まずは子供達を座らせ、勤行を行う。次にストレッチや発声練習を行い、いよいよ歌の練習に入って2時間ほど指導が入る。

学会本部を有する信濃町に通いつめる国内最高ランクの富士少年希望少女合唱団などは別にして、せいぜいひとつの市から十数人が集められた程度の我々の合唱団にお堅い学会歌を練習する機会はほとんどなく、一般的な合唱曲やヒットソングなどを楽しんでいた。発表の機会もまれで、たまに会館で行われる催しのいちコーナーとして大人数の参加者の前で歌うことがあった程度だ。

毎日同じ友人と顔を合わせる学校での音楽指導や合唱コンクールとは違い、同じ学会員ではあるが一応社交的な場で信仰を深めながら親交を深めながら共通の目標を持って歌に勤しむ時間は貴重な経験であった。思えばこの頃から人前に立つことや友人と付き合うことにおそれがなくなっていった気がする。もちろんそれが必ずしも創価学会の場である必要はないが、人生においてマイナスな体験だけではなかったということもきちんと述べておきたい。



広い会館の一室を子供たちだけで使う、今思えば贅沢な環境であった(画像出典

ここまで記していなかったが、創価学会の運営は一般会員によるボランティアに頼っている部分が大きい。座談会開催・会館設営・会館警備・聖教新聞の配達・子供の送迎などの多くの部分は専業主婦のママさんや休日のお父さんたちが無償で担当している(たまに学会側から贈答品や差し入れの類が送られてくることもあるが、キットカットひとつぶで大喜びしていた私と違って大人に訴求力を与えるほどのものではない)。彼らを動かしていたのは他でもなく信仰心であり、組織いわんや池田"先生"への尽力という実感だけがそのはたらきを可能にしていた。

私の所属していた合唱団も同じで、歌の指導をするのはいつも決まった若い女性の一般会員1〜2名。ピアノをさらりと弾きこなし、声楽の知識もあったためおそらくは教育や保育の現場で働いている方だったのだろう。行けばいつでもそこにいる歌の先生だと認識していたが、成人した今、大人が休日の朝から無償で子供の面倒をみることがどれだけ大変か、胸を痛める思いだ(もちろん、本人にとっては"功徳"という成功報酬を得るための心の底からの善行であろう)。



▲懐かしすぎます。まさに当時は未来部の教育に力を入れていた時期だったようで、子供向けのこの曲がリアルタイムで登場した記憶がある。このnoteを書くまで存在を忘れていたが、一聴して踊り付きでちゃんと歌える自分に震える。この映像、合唱団の練習で軽く100回は見たもんな……。



部活で活動が減った中学校時代

創価幼稚園にはじまり小学校から大学まで創価系教育機関が存在する。熱心にやっていた頃は創価大への入学をよく勧められたものだ(画像出典

中学校に入学すると学会としては中等部に所属することになるが、運動部での練習や大会が忙しく、集まりに参加することはほとんどなくなった。かつて共に信心に励んだメンバーは活動を続けていたようで、たまに訪問してくる会員にその様子を聞かされた記憶がある。しかしそのうち親も諦めからか放任主義になり「毎朝晩の勤行くらいはしたら?」というスタンスである程度好きにさせてくれるようになった。

学校に行く前と寝る前には相変わらず仏壇の前に座り手を合わせており、この頃はまだ信心をしていれば人生がうまくいくと思い込んでいた。幼少期からそこにあるのが当たり前だった仏壇には、神秘的な力が宿っているのだと信じていたからだ。

しかし年月が経つにつれてだんだんとそれも効かなくなってきた。クラスの好きな子と付き合えますようにと願っても全く恋に発展しないことに気づき不信感を募らせていくこととなったのだ(「俗っぽい願いは叶いません」という教義の解釈を聞かされたこともあったが、思春期男子にとってはあまりにも夢のない内容で幻滅したものだ)。

そうして高校生にもなれば根拠を元に自分の意思をはっきりと持てるようになってくる。小学生の頃のように学会活動に時間を使うのは非生産的で面白くないと感じ、そのままあらゆる繋がりからフェードアウト。活動と呼べるものは全くしなくなり、晴れて完全な非活動会員の3世というよくあるモデルに落ち着くこととなった。

それでも定期的に自宅へ会員が訪問してくることがあった。近況を聞いたり座談会へ誘ったりしてくれたが、すでにネットのおもちゃにされた創価学会の姿を摂取していたので心の中では「俺は宗教なんかに興味ねーんだよ!二度と来んじゃねえよ!」と倉地くんばりの対応をして面白がっていたものだ。


学会本部にて(中央が私)

しかしそんな高校時代に一度だけ信濃町・学会本部に何かしらの行事か記念式典で行かされたことがあった。人生に数度しかない経験のうちの一度だったが、建物がものすごく豪華で驚いたのを覚えている。

私以外に数人いた同世代のメンバーに連れられ(全くの初対面だったので会話も弾まず何も面白くなかった)セレモニーに参加したのち記念撮影を撮った。それ以後に連絡を取るといったことも一切なかったため記憶が薄く、本記事を書くまでこの写真の存在のことも忘れていた。

このとき久しぶりの学会行事に参加して感じたのは「男と女がきっぱりと分けられているなあ」ということだった。創価学会では昔ながらの価値観を重んじるように当時社会人以後は男子部・女子部、壮年部・婦人部と男女が分かれた組織構成が採用されており、あらゆる面で区別化がはかられていたのだ。ジェンダーの自由化が声高に叫ばれる現代(当時は2010年代中盤)においてこれでは、この組織はそのうち大きな改革を迫られるのではないだろうか、と高校生ながらに余計な想像を働かせたのを思い出した。

とにかくこのときも私の根本的な姿勢は変わらず「せっかくの休日になんでこんなところにいるんだろう」だったことは保証しておこう。



大学生になり獲得した宗教学的観点

創価大には学会員ではない学生も多い(画像出典

創価大学へ行けば家族も喜んだろうが、もともとの興味通りに言語を学ぶ大学に進学したことは自分と創価学会との関わりを決定づけた最も大きな要素となった。

自由な考えを持つ学生や先生に囲まれながら意見を交換し合い、世界中の文化や宗教を学んで「唯一の絶対的な宗教は存在しない」「同時に個人にとっての宗教の絶対性は規範・信念をつくり、幸福の材料にもなり得る」ということを根拠を持って主張できるようになったからだ。

敷地に入るなと言われた寺社仏閣。修学旅行でくぐらなかった鳥居。テレビで映るたび邪宗だと祖母がつぶやくキリスト教会や礼拝の様子。なんてことはない、そのどれもが歴史にとって、人類にとって重要な、保護されるべき文化であり、誰も存在を否定することはできないのだ。そんな「私にとっての」正しさを改めて獲得することができたのは創価学会での活動があったからだと自信を持って言える。

カルトだ迷惑だと糾弾されてきた歴史の長い創価学会だが、少なくとも私の観測する範囲において過激な勧誘や選挙での票集めでトラブルを起こしている事例は見たことがないし、そういったケースはおそらくほんのごく一部の過激な会員によるものである(どのような宗教も原理主義者や過激派を産み、それが全体を代表しているように見られやすいことは歴史が証明している)。全員が等しく「やばい」なんてことは全くない。多くの活動的な会員は教義、本尊、そして池田先生という絶対的な規範のもとで自律し、仲間同士を気にかける清潔な互助システムを形成している。会員が持ち寄るのは企みや悪意ではなく、信心と善意である。ヒトという動物である以上自由な思想を持って当然であるが、信仰の過程で邪念の類はむしろ排除されていく。

一方でその"善意"が暴走しがちなのが新宗教を含む世界中の宗教の弱点であろう。自分の信仰こそが正しいという自負は、宗教組織自体を強化する力であり信者自身の幸福度を高めると同時に他への攻撃性にも転じてしまう。これは悲しいことで、思想・信条に基づいた争いが今日も無くなっていないことを考えるに人類にとって最も解決が難しい壁なのかもしれない。

加えて、純粋な信仰心だけでコミュニティが成立しているのはあくまで名もなき一般信者の間だけの話である。学会の本部に近い部分での運営や上層メンバーの事情がどうなっているのか、そこには本当にクリーンな信心だけが存在しているのか、真相は私たち会員を含むほとんどのひとにとってブラックボックスの中に存在している。



まとめ:創価学会員でよかったこともある

学会以外に目を向けると世界には素晴らしい宗教文化がたくさんあることに気づく。こちらは荘厳な建築をのこす築地本願寺(浄土真宗本願寺派)

以上が私の創価学会史である。3世会員として生を受け、順調に創価の金の卵になるかと思いきや道中ドロップアウトし今に至る。大人(青年部)としての熱心な活動経験がない以上内情を知れたのは少年目線からのごく一端であるが、それでも人生の大半で創価と付き合い続けた事実に変わりはない。

続けて私の創価学会ならびに宗教全般に対するスタンスも紹介した。私にとって宗教は「個人の自由」であり個人の幸福を追求するためのツールとしての有用性は大いに認める。家族が信者であろうと、友人が信者であろうと(どんな宗教であれ私に直接の被害がないならば)全く構わない。それは私こそがかつて"カルト宗教"とも呼ばれる団体の一員だったからに他ならず、その実態や宗教信者の行動原理をよく知っているからでもある。一方で、現在私は創価学会の教義を信仰したいとは思わない。親は「私が死ぬまで脱会するな」と言っているが、これをいい機会に近いうちには見切りをつけて除籍の手続きを進めようと思う。

私の信仰は私が決める。では、私は今、何を信じているのか。

海外では「無宗教」というのは「無神論者」「無宗教主義」のようにとられ相当に非常識で問題とされることの多い考え方だ。これに日本文化圏の方は疑問を持つかもしれないが、こう考えてみてほしい。もしも「私は無宗教主義なので、今いる親が死んだら燃えるゴミの日に指定の袋で出そうと思うんだ。」と告げられたらどう思うだろう。法的な問題は別として彼を宗教上の理由で批判することはできないが、それを自然と受け入れることもできないという人が多くを占めるはずだ。その時点で立派に宗教が思想に入り込んでいる。

◯◯教、◯◯会といったわかりやすい宗教社会学的な「宗教」だけでなく、我々の暮らしには土着で歴史が長く生活に根付いた慣例・儀式・思想などの民俗学的な「宗教」がある。それは再三登場している言葉だが規範となり、そのひとの生き方を決定づける道筋となる。伊集院光さんのラジオでの有名な発言に「自分は無信心で神様も信じてない、だけどお地蔵さんを蹴れるかっていうと無理だし賞味期限切れのおにぎりを踏めるかっていうと無理」という旨のものがあるが、まさにこれが日本人の意識化にある民俗学的宗教の存在を言い当てている。

その意味では、私は日本の文化に溶け込んだ宗教全てを信じているし、海外で自己紹介をするならば仏教または神道と答えるべきであろうか。

もっと飛躍した能動的な言い方をするならば、私が信じたいのは"科学"だ。現在のそれが絶対で最高到達点である保証は全くないものの、あらゆる知見の集合とそこから導き出される「現実的な仮定」を私は信じていたい。そこに価値を感じ、学びたいという欲を感じ、それに従って生きていたいと思わせてくれるものだからだ。

そして閉鎖的で盲目的な信仰を潔く捨て、客観的視点によって保証された事実の列挙とそれに基づく推測を愛する姿勢すら、むしろ熱心な宗教信者だった自分へのカウンターとして確立されたといえるかもしれない。宗教への愛が科学への扉を開いたと言って差し支えない、そんな私の思想史であった。


さて、ここまで長々と書いたが、厳しくシリアスな話だけをしていては辛気臭い。最後はポジティブな気持ちで「創価学会に入ってよかったこと」をリストアップしてこの章を終えたい。あくまで私のケース、ではあることに注意してご覧いただきたい。

  • 少年部員会のあとに貴重なお菓子がもらえた

  • 信心をしているところを見せると親が喜んだ

  • 誕生日プレゼントは「いつも信心を頑張っているから」もらえた

  • イベントなど人前で話すことに抵抗がなくなった

  • 知らない人と話すことがあまり怖くなくなった

  • 会員宅で座談会中、子供は待っている間ゲームをやらせてもらえた

    • 家にはないWiiでスマブラをした(が普段からやっている強い奴が生き残るので面白くなかった)

    • そんな中、他の子供がDS版太鼓の達人を貸してくれた

    • そのまま帰ってきてしまい返すまで一週間ほど遊んでいた

    • そしたらめちゃくちゃハマって勝手におにモードを出すほど成長した

    • そのあとゲームセンターでも太鼓の達人を相当やるようになった

    • おにの高難易度曲をフルコンボするほど極め、ドラムも始めた

    • バンドにのめりこみ編曲やDTMで小銭が稼げるようになった

  • 公明党に票を入れろと親がうるさいため、口ではオッケーと言いながら逆に各政党のことをよく調べて自分の選んだ議員に投票し始めたら選挙や政治が楽しくなった

  • 他の宗教(新宗教やカルトも含む)に偏見や要らぬ恐怖がなくなった

  • むしろ学術的興味が出た

  • 寺社仏閣の知識欲で街歩きが面白くなった

  • 大学で学んだ仏像の知識で東洋美術の楽しみ方に触れることができた

  • フィクション作品でカルト系の描写が出るとテンションが上がる

  • 映画『ミッドサマー』がめちゃくちゃ面白い

  • 映画『来る』がめちゃくちゃカッコいい

  • 映画『ビリーバーズ』も最近よかったですよ

  • 映画『ドラえもん のび太と空の理想郷』実はそういう話でシビれました

  • 漫画『20世紀少年』の雰囲気がたまらない

  • 漫画『◯◯◯ー◯ ◯ー◯ー』の第2部が最高すぎる(カルトが登場すること自体がネタバレになるので伏せます)

  • 伊藤潤二の漫画もそういう話が多くてよいです

  • 「友人葬」と呼ばれる僧侶を呼ばない葬儀を行うため入信し続けたまま死ねば金がかからない

と、このくらいだろうか。



本を読んで学んだこと

続いては冒頭で紹介した文春新書、小川寛大「池田大作と創価学会 カリスマ亡き後の巨大宗教のゆくえ」を読んで学んだおもしろうんちくや、真面目に学会員をやっていると知り得ない「そうだったんだ!?」な事実をいくつか紹介しようと思う。

頭からシッポまで学びに溢れていて創価学会員としても抜群に面白い内容だったのだが、全部を書き連ねていくと膨大な量になってしまうため断腸の思いで抜粋。気になった方はぜひ書籍を手に取っていただければ幸いである。


「反共の防波堤」としての創価学会

学生運動の様子(画像出典:毎日新聞

このnoteの前半でも記した通り、私の祖父母は絵に描いたような地方出身の団塊入信組だ。60〜70年代の高度経済成長期に若い期間を過ごし、激動の日本で暮らしを続けてきた。

本書では新宗教関連の書籍でお馴染みの宗教学者・島田裕巳著『創価学会(新潮新書・2004年)』に登場する記述を紹介している。戦後の新宗教は急増した若者の貧困層を吸収し、都心部のスラム人口を抑制、革命運動などを伴う共産コミュニティの拡大を防いだという評価もあるとの視点だ。

なるほどこれは面白い。結果として新宗教が「反共の防波堤」となり、特に創価学会は保守政治家の一部に、ある程度好意的に見られていた事実があるという。これこそのちの時代に自公連立政権が成立するきっかけともいえそうだ。


平和主義者・戸田という幻想

創価学会第二代会長・戸田城聖(画像出典

今日の創価学会では池田"先生"の存在感が非常に大きく、そんな中で育った私にとって初代・二代目会長ははっきり言って陰が薄い。勤行時に心で読み上げる"御祈念文"に感謝の対象として登場する程度で、彼ら自身の指導内容や言葉が紹介されることは少なく、あくまで創価学会は"池田教"の様相を呈しているといっていい。

そんな中ほとんど唯一、戸田"先生"に関して思い浮かぶことといえば、新聞や指導で平和・戦争関連の話題になると時折登場する『原水爆禁止宣言』だ。1957年9月8日、三ツ沢競技場にて開催された青年部東日本体育大会でのスピーチで「原爆・水爆の禁止」を高らかに宣言したというエピソードは、まるでそれが学会組織内部のみならず日本の歴史観においてターニングポイントとなったのだというくらい学会内では大々的に語り継がれている。

▲公式サイトでもページを作り内容を掲載している

しかし実際のところ、このスピーチがこの時点での戸田氏にとってどのくらいの思想的意味合いを持つものなのかは判断しかねる部分が大きいようだ。もちろん戦争礼賛・軍国主義のような思想を大っぴらに掲揚していたということはないだろうが、学会員が抱く"平和の使者・戸田先生"的価値観はどちらかといえば後世になって作り上げられた部分が大きいらしい。

たとえばもうひとつ、学会内部で戦時中の創価学会を平和主義的に語る際には「牧口・戸田は軍国主義に逆らって投獄され、牧口は獄中死を遂げた」というエピソードが登場する。体制に逆らってでも信心を曲げなかった意思の強さと平和への愛が日蓮時代から続く迫害・攻撃の歴史と折り重なって信者にとっては二人の神格化を強めているのだ。

しかし本書では、当時の戸田氏について数々の記述から「哲学家・牧口のあとを継いだ実業家タイプのひと」と評しており、どちらかといえば体勢にうまく乗りながら組織を生きながらえさせてきたよい"経営者"であったのではないかという視点を加えている。件の投獄についても「大日本帝国の神道推進政策による『伊勢神宮の神札を祀れ』との命令を拒否したのはあくまでも『日蓮正宗』の敬虔な信者であるゆえ」だとし、軍国主義批判・反体制の意図は大きくなかったのだと推測している。

むしろ現在まで続く平和主義的主張は戸田氏亡き後、池田氏の御旗のもと戦後復興時代に信者を獲得していく上でのマーケティングに端を発するようだ。のちには「言論出版妨害事件」を経てさらに思想的制限を食らった池田氏が「対話を武器に世界へ羽ばたく平和の使者」としてのイメージ作りに奔走していくこととなる。現代の創価学会しか知らない私にとって当時の雰囲気を明かしたこれらの内容はとても興味深いものだった。


目も眩むような「財務」のホント

非学会員でも訪れると面白い創価の街・信濃町(画像出典:聖教新聞)

70年代以前まで日蓮正宗および創価学会共通のスローガンだった"国立戒壇"構想の結果として、1972年に大石寺境内へ正本堂が建立される。

「言論出版妨害事件」を経て国教化思想的3つのスローガン「一閻浮提広宣流布・王仏冥合・国立戒壇建立」から距離を置かざるを得ない状況に追い込まれた創価学会ではあったが、池田氏直々に呼びかけた30億円の建立寄付金要請に対し集まったのはなんと300億円。目も眩むような大金である。

それ以前は「貧困層救済」的価値観の強い組織風潮から寄付等を手広く受け付けてはいなかったが(それでも組織が回るだけの潤沢な経済バックボーンもあったということだろう)、学会本部ではこの寄付金要請以降"財務(寄付)"のハードルを下げることによって信者からの献金を受けやすい形に制度変更。現在の超巨大な組織づくりの礎を築くことに成功している。

各地に点々と存在する創価学会会館や信濃町の街並みを眺めれば、一見して資金力の豊かさを想像することができるだろう。宗教が金をたんまり儲けている、と批判的に見ることももちろんできるが、私はここに池田氏の圧倒的戦略性と頭の良さを感じる。目標を華々しく掲げ信者をよく見てじっと待ち、絶好のタイミングで発破を仕掛けのちの繁栄の足がかりとする。やはりどこまでも「できる男」なのだ。


まとめ:カリスマとしての池田大作

世界を渡った池田氏(画像出典

本の学びを書いていくとキリがないので、この辺で本章は打ち止めとする。最後まで読んで強く感じたのは「池田大作はまごうことなきカリスマだ」という思いだ。

いち独立系仏教の下部組織としてスタートした創価教育学会(当時)が第二次大戦を耐え抜き、いよいよ組織を大きくしていくぞというタイミングで戸田氏に出会った池田氏。生まれは一般家庭で身体も病弱ながら、持ち前の忍耐強さと信念深さでグイグイと成績を上げ、第三代会長の座に上り詰めることになる。

ときに強気な発言を交え、ときに柔和な物腰で。そのときどきの社会に求められている「学会像」に合わせて組織をうまくアップデートさせながら今日の巨大宗教を作り上げるに至った手腕そのものは評価して差し支えないだろう。これほどまでに「教祖(厳密には信仰の対象は日蓮であり彼は"先生"である)」としての素質を兼ね備えた人間が戦後日本、ほかにいただろうか。

創価学会3世会員としてやたらに「すごいひとだ」と教え込まれてきた池田氏の存在だが、改めて学び直してみてもなお、今の私にとっても変わらず池田大作は「すごい」と感じる。しかしそれは広宣流布の永遠の師匠としてではなく、叩き上げの新宗教経営者としてだ。彼のカリスマ性に惚れ惚れするとともに、その輝きに心酔し信心に励む学会員がいたのにも素直に納得せざるを得ないのがまた複雑な心境である。



今後、創価学会はどうなっていくのか

世間を驚かせたニュースもだんだんと過去のものになっていく(出典:TBSニュース)

さて、そんなカリスマを称えた"池田教"的創価学会も、その将を惜しくも亡くしてしまった。この先、創価学会はどうなっていくのだろうか?本書(『池田大作と創価学会 カリスマ亡き後の巨大宗教のゆくえ』)でも終章にかけてそのテーマを扱い、問題を投げかけている。

2005年の最終発表時点で創価学会の公表信者数は875万世帯。ただしこれは曼荼羅複写の発行部数を便宜上"世帯"と言い換えているに過ぎず、本書における推察ではおそらく国内に200〜400万人ほどの有効信者数が存在しているものとみている。もちろんこれでもいち新宗教としては特大規模であり、今後の日本においても存在感を誇示し続けることになるのは間違いない。

ただし、その実情はどうにも苦しいものになっていくだろう。昨今の少子高齢化も相まって若い信者数は激減、最盛期の賑わいはどこへやら、組織内部も高齢化が進んでいる。これには積極的な折伏を行わず非活動会員への声掛け程度にとどめているという近年の主要な勧誘スタイルの変化によるところもあるのだろう。

また2〜30年前までは組織運営の主力だった若い専業主婦層が社会の変化と共に共働きへとシフトし、実働部隊を欠いた状態も続いていたようだ。結婚観の多様化も相まって、2021年にはそれまで婚歴によって分けていた女子部と婦人部を統合。新たに女性部を設立し20代までを「池田華陽会」、30代40代を「ヤング白ゆり世代」と名付けた。ここからも組織の華々しい存続にやや暗雲が立ち込め始めていることが読み取れる。

創価学会を含む新宗教は家父長制的な家庭を理想像とし現代まで発展を続けてきた。その証拠に宗教勧誘のイメージといえばドアチャイムを鳴らして現れる二人組の主婦、というものが今でも強いだろう(それをうまくとらえたのがお笑い芸人・阿佐ヶ谷姉妹の細か過ぎて伝わらないモノマネ「玄関を開けたらいる人」だ)。

戦前は思想家たちの自己表現として。戦後〜高度経済成長期は貧困層の若者の拠り所として。バブル期〜平成にかけては興隆する"株式会社"に大黒柱をとられた主婦たちのコミュニティとして。新宗教はうまく形を変えながら「生活」に浸透し生きながらえてきた。ではこれからは?令和の時代をどう生き延びていくのだろうか。

私の個人的な感覚だが、同年代(20代)で宗教を熱心にやっていますという友人をあまり聞かない(少なくとも信仰をオープンにし勧誘をするような宗教活動をしている友人はいない)。それよりも向上心や向学心、幸福の追求に勤しむ若者の関心はオンラインサロンネットビジネス等に吸収されていっているように感じる。それらのシステムに対し「宗教性がある」と指摘するには考察が足りないものの、かつての新宗教と同じように若者が抱える不安や孤独をうまく拾い上げてビジネスに繋げるさまに既視感を感じるのは事実だ。

ひとは「信じる」ことをやめられない。些細なものから壮大なものまで胸の内は祈りに溢れ、欲望に溢れ、相反するように自らを律し高める快感を欲してもいる。そんなニーズを拾い上げる役目を「新宗教」と呼ばれる団体が今後も担い続けられるのか。池田氏を失った創価学会もまた、痛々しくも同じ問いを投げかけられているのではと想像する。

ある程度の排他性を団結力の源にしていた創価学会でも、最近は組織存続のため自治体コミュニティへの融和をはかる地域が出現しているようである。特に地方では高齢化が進み、自治体運営・催事開催を維持していくのが難しい。そこへ創価学会員が手を貸し、サポートの見返りとして地元公明党員への投票を呼びかけるケースもあるようだ。著者・小川寛大は実際に創価学会の助力を得ながら運営を続ける自治体構成員に敢行したインタビューについても述べている。「学会員がいないとウチは催事を続けられない」といった声もあったようで、これはこれで案外組織存続のための致し方ない互助関係が成立しているとみることもできよう。結果的にかつては血の気に溢れ躍進街道を闊歩していた創価学会にも穏便化の波が来ているようだ。

すべての話を総合して、私の見解としては今後創価学会が全盛期ほどの勢いを取り戻すことは難しいように思う。構成員の主力たる年齢層には宗教行為に耽るほどの時間的余裕がなく、また今後を担う若者の拠り所が創価学会であるための理由も乏しい。現に私が今、絶賛非活動会員になっているのがなによりの根拠だ。

これほどの規模を誇った集団が突然消えて無くなることはないにせよ、先細りになって少しずつ社会への干渉から手を引いていくのかもしれない。そのときに残るのは広宣流布の大願でも選挙戦勝利への渇望でもない、敬虔な教義信仰と精神的寄り合いとしての繋がりだけだろうか。その姿はどこか草創期の創価学会を思い起こさせるもので、緩やかな衰退の行く末をそこに見ている事実が何やら興味深いと感じてしまうのである。



おわりに

さて、ここまで15,000字を超える長文にお付き合いいただき誠にありがとうございました。非常に失礼な内容や勉強不足な内容が混じっていたであろうと思いますが、いち素人の駄文として何卒ご了承ください。

学会員の方も非学会員の方も、自分なりの学びを獲得しながら信仰・宗教について考えるきっかけを持っていただければ幸いです。また、その一助として今回のnoteあるいは私の紹介した書籍がお役に立てれば嬉しく思います。

今後私が創価学会に関する発信を積極的に行う予定はありませんが、別の形でも何かしらの媒体でお見かけした際はよろしくお願いいたします(本業および趣味は音楽・映像です)。

では、またいつか。




(2024/4/27追記)著者・小川寛大さんよりX(Twitter)にて本記事をご紹介いただいておりました。とりとめのない若輩の素人文章ゆえ恐縮ながら、大変嬉しく思います。ありがとうございます。


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