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たとえば歩くことも言語的なんじゃないか

普通、言葉といえば、日本語や英語など自然言語のことだ。
自然とつくからには自然ではない言語があり、プログラミング言語や機械言語がそれにあたる。
我々が普段、意思疎通や感情表現のために使う言語ではなく、ある特定の情報を正確に伝えるために作られた。
プログラミング言語は、機械に指令を出すためにある。
スペースがひとつ抜けただけでもエラーが出るし、コマンドを一文字打ち間違えただけで違う意味になったりする。
それだけ厳密に正確に作られているので融通は利かないが、指令を誤って理解することもない。

反対に、表情や視線といった非言語コミュニケーションは、意味があいまいで人によって解釈がちがってしまったりする。
しかし時には、豊富なニュアンスを一瞬で伝えられる。
おおよそ情報伝達において、正確性と速度・量は相反し、こちらを立てればあちらが立たない。
表情、視線、あるいは声音なども含む非言語コミュニケーションは、原始的であるが故に直感的で、正確性に劣るが状況や感情を瞬時に送ったり受けとったりできる。

広げて考えてみれば、人の言動はすべて情報として他者に伝わるのだから、すべて言語と考えられなくもない。
あるいは言語的に解釈できると言うべきか。
待ち合わせにひんぱんに遅れてくれば、自分が蔑ろにされている可能性を考えるし、会うたびにプレゼントをくれれば好意を持たれていると思うだろう。
あらやる行動が、結果的にしろ情報伝達の意味があるのならば、普段の行動は非言語的情報伝達だ。
さらにいえば、目的をもって人工的に作られたわけではないから、自然言語的だ。
一方、プログラミング言語のように正確性に優れ用途が限定されている非言語的言語はゲームだろう。
スポーツもそうだし格闘技もそうだし将棋や囲碁など頭脳ゲームも、情報を伝え合うことが目的ではないにしても結果的に、ゲームを通して相手の人柄や性格がわかるし、対戦中に相手の意図を読み取ることは当たり前のように行われている。

人は生まれた時から表情などの非言語コミュニケーションについては訓練され続けるので相当程度細かい情報を受けとれる。
それと同じように、特定のスポーツやゲームに習熟している人ほど、それらを通して相手の心の機微といったところまで想像することができる。

移植や授乳などを除き、人同士が交換できるのは情報だけだ。
人は視覚をつかい聴覚を使い外部から情報を仕入れる。
その過程でより効率よく情報交換ができるように、たくさんの細かいルールや記号を作り出したのが言語で、文字や音声を使って精密なコミュニケーションを行う。
それでも自然言語はあいまいだから、より正確でしかしやや使い勝手の悪い数学やプログラミング言語をも生み出した。

数学はまだ記述できる論理的世界を広げ続けている。
囲碁や将棋のルールによって形作られる表現世界は、まだ発見されていない手で満たされている。
現在、爆発的なスピードで情報が増加しているが、重複する情報を除いてしまえば、記号の組み合わせによって生み出しうるすべての量に比べたらそんなに大した量ではないのかもしれない。

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