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箸が欲しければ箸が欲しいと言えばいい。

「そんなの常識だろう?」と口に出したくなるのをぐっと抑える。
研究室の後輩と一緒に実験をしている時に多い。
以前はSNSを見たりニュースを読んだり世間話をしたりする時にもそう思っていたが、最近はどうでもよくなってきた。
色々な考えが混沌と頭に渦巻いて、結論を口に出す前に疲れてしまうようになった。

後輩を前にして口から出そうな言葉をぐっと飲み込み、あとで常識とは何かを考える。
人生の30パーセントぐらいは役に立たないことを考えて過ごしてきたので、さがとしか言いようがない。
とりあえずふたつに分類してみた。

ひとつ目は、確固たる事実。
広く人々に知られているのは、例えば世界で一番高い山がエベレストであるとか、今のアメリカ大統領がトランプであるとかそのあたりだろうか。
範囲を狭めて考えてみると、理系の学問を修めた人にとってアボガドロ数がおおよそ6.02x10^23であることは基本的事実だ。
あるいは生物研究者が、「ゲノムDNAからRNAが転写され、RNAからタンパク質が翻訳される」ことを知らなければ、余りのことに周囲は口をつぐんでしまうに違いない。
それは日本文学研究者が夏目漱石の作品名を言えないのと同じくらい考えにくいことだからだ。

これらは広く人々が知っているはずのこと、あるいはある特定の職業の人間が当然、知っているべきことだ。
特に職業的常識は知らなければ批判されても仕方のないことだと思う。
職能上、必要だからだ。
かといって冒頭の台詞を常に後輩に投げかけて良いかと問われると、相当、逡巡する。
何年、研究に従事していれば、知っていて当然なのか判断に迷うからだ。
例えば、私は神経科学について詳しく知らない。
いきなり論文を読めと言われたらかなり苦労する。
脳の中にニューロンとグリアがあることや、信号が電気的に伝達されることぐらいは知っているけれど、それ以上のことは知識がモザイク模様に点在している。
すっぽり抜け落ちてしまっている部分について聞かれたら、しどろもどろになってしまうと思う。
神経科学を選考する大学院生に求められる「常識的」な水準に到達していない。
だからといって今更わたしに「そんなことも知らないのか」と彼らは言わない。
分野が違うのだからお互い様だ。
けれど、まだ研究を始めて1、2年くらいしか経たない大学院生の専門的な知識の欠如に対して、「常識がない」と口にする教員は確実にいる。
自分の当たり前を相手に当てはめているからだ。
私はそういうケースに出会うと、私を含めここにいる人たちは夏目漱石の作品名を一体いくつ挙げられるだろうか。
戦国大名の名前を何人挙げられるだろうか。
あるいはひとりでも一般相対性理論を解説できる人がいるだろうか、と疑問に思う。

ふたつ目は、思想や習慣。
リベラリストにとって個人が主体的な選択権を有していることは「常識」だろうけれど、民主主義国家の国民であろうとも信じていない人は一定数いる。
またある人々にとっては、神がいることは常識以前の前提だと思う。

そんな概念的な例を出さなくても、常識はわたしたちの生活習慣を隅から隅まで覆っている。
わたしの姉は昔、営業職だったので、外食時にテーブルの端に固められている箸や皿を他人に回すのは「常識」だし、隣の人のビールをつぐのも自明の行動だと思っている。
それができないわたしは、「人としてなっていない」と姉によく怒られた。
わたしは誰に頼まれたわけでもなくこんな文章を書いているくらいなので、「常識って何?」と正面から質問してしばしば喧嘩になった。
若い頃のわたしから見ても姉は長女的優等生としての気質を持ち、それが本人を縛っているように見えた。
同時にそれは自分を写す鏡でもあり、わたしも世間の常識に従う優等生的言動によって自分の首を絞めていた。
もちろんそれは性格の全てではなくて、ふたりとも部屋はあまり綺麗ではないし、姉の恋愛観も褒められたものではない。
わたしは何かあるとすぐに物事をサボりたくなるし、何が優等生かと自分でも思うが、それでも人生の色々な局面において自分の意志に従った振る舞いをできないことに不満を抱いていた。
そういう経緯もあってしばしば私は「常識って言うなよ」と姉に食ってかかっていたのだと思う。
「じゃあ人としてじゃなくて、社会人として当たり前のこと」
わたしに何回も同じことを聞かれ、姉は常識の適応範囲を狭めてきた。
「俺はずっと大学にいるから社会人じゃない。だから箸が欲しかったら欲しいって言えばいい」

小さい頃からあらゆることを理由にふたりで喧嘩をしてきたが、十年ほど前から姉はわたしに向かって「当たり前」とか「常識」とか「人として」などと言わなくなった。
多分、呆れているのだと思う。
長期戦の挙げ句、向こうが勝手に撤退しただけだけれど、姉と喧嘩して曲がりなりにも勝ったのは多分、これ一度きりだと思う。

基本的事実の方の常識がないと後輩に対して感じても、それが当然、知っているべきだと言えるほど基本的なことなのか考えているうちによく分からなくなる。
いわんや、考え方や様式に普遍性など存在するわけがない。
「常識」という言葉は有効ではないし、使うのがとても面倒な言葉だと思う。

研究室にいる大学院生に知らないことがあれば、これは覚えておいた方がいいよと言って説明すればいいだけの話だ。
「そんなの常識だろう?」という台詞自体は反射的に頭の中に浮かんでくるが、口にすることが妥当かどうか判断する労力を考えると、もう使わなくていいと思っている。

箸が欲しければ箸が欲しいと言えばいい。

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