論理的な科学が、経験派の機械を生み出す

技量の言語化について最近考えが変わってきた。
ここでは、スポーツや、料理、外国語、ゲームなど、練習してうまくなるタイプの能力を漠然と技量と呼ぶ。

加えて、言語化という言葉は色々な意味に取れる。
言葉にするという単純な定義もあれば、理屈立てて説明することも指す。
ロゴスが、言葉という意味以外に、論理(ロジック)を表す単語であるように。

今までは、言語化とは何らかのセオリーを説明するものだと考えていた。
野球を例に挙げれば、ボールを速く正確に投げるための理論は確かに存在する。
理論に則って練習したほうが効率良くうまくなれるのも確かだ。
しかし、一流のプレイヤーが本人の技量の全てを論理化しているとはかぎらない。
むしろ、レベルが高くなればなるほど、細かいところまで理屈で説明するのは無理だと思う。
ある程度のところまではすでに言語化されている理屈にしたがって練習して、そこから先は経験と感覚を研ぎ澄ませていくのかもしれない。

どうしてこんなことを書いているのかというと、最近流行りのAI(機械学習)は理屈を使っていないことに驚いたからだ。
知ってからもう二、三年たっているが、ずっと驚いている。
AIは徹底的な経験主義者で、大量のデータに含まれるパターンを覚えて、パターンの違いを区別できるようにする。
とくに、主流となっている機械学習法であるニューラルネットワークは、正しい答えを出しても、その理由は教えてくれない。
研究者の中でもそれは一つの課題になっているらしく、AIがどのような特徴に注目して答えを導き出しているのか調べる研究もあるらしい。ニューラルネットワークは、質問したことには、こうしたら良いよ、とかこれが答えだよ、と教えてくれるが、理由を聞いても押し黙ったままでいる無口の職人のようなものだ。
理由は知らないが、正解を知っている。

各分野で優れた技量を持った人たちの中で、いわゆる感覚派と呼ばれるタイプは、どうやったら的確にボールを投げられるか、どうやったら美味しい料理を作れるかを知っているが、それをセオリーにして相手に説明することができない。
そもそも、一般化して理屈立てるという作業をやっていないのだから、当然だ。

ここで言いたいのは、必ずしも理論化しなくても優れた技量を持つことができるということであって、理論化することに意味がないわけではない。
AIはコンピュータの持つ演算スピードを活かして大量のデータ(経験)を処理することができるが、人間はそうではない。
だから、最終的には練習を通じて多くの経験を得なければ上手くはなれないにしても、別の人の経験を抽象化して理論化したものを摂取する方が手っ取り早いと思う。
一般化されたセオリーは、(がんばれば)他人にも理解可能だからだ。
内的に蓄積されていく経験や感覚を他人に伝えるのは難しい。
体の中を通るエネルギーの流れを止めないようにとか、グッと力を入れるとか、塩を少々とか、感覚的な言葉で表現せざるを得ない。
たまたま感覚が似ている人にはもしかしたら時間をかけずに伝わってむしろ効率的かもしれないが、より広く、多くの人に伝えるには向いていないし、大体、後世に残らない。

科学には、過去から未来へと知見を積み上げていくために、他人にも理解できる明瞭な言葉、つまり論理の形で残していくことが、必須の作法として含まれている。
論文はその最もフォーマルな形式で、可読性をかなりの程度犠牲にしてまで、正確さと客観性を優先させている。
科学的な手続きを刷り込まれた身としては、だから、感覚的な説明は許容しづらい。
だからこそ、機械学習という、情報科学や統計学から生まれた技術が、論理的な説明を抜きに答えを与えてくれる事実は個人的に衝撃的だった。
説明されれば当たり前の話として受け止められるのだけれど、最初に知った時はずいぶんと皮肉なことをしてくれるものだと思った。

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