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技術点と芸術点

何かを身につけるに際して「型」があったほうがいいかどうかでいえば、あったほうがいいと思う。

科学研究にも型があるのだけれど、研究に携わるすべての人が学んでいるわけではない。
学校の勉強は型の集まりみたいなものだから、ひょっとすると、研究者は当然、型を身につけていると思われるかもしれない。
しかし、勉強と研究は根本的にちがうものだ。
研究の能力は技能なので、スポーツ選手や料理人、あるいは他のあらゆる仕事のスキルと似たものだ。
勉強はあくまでも技能の土台になる知識なので、その辺りも他の職業となんら変わりはない。

型の問題がややこしくなるのは、仕事の評価に技術点と芸術点があるからだと思う。
調べたいことに既存の方法でアプローチして、正確なデータを出し、筋道の通った結論が導かれていたら、その研究は技術点が高いと評価される。
料理でいえば、ごく一般的なレシピで、カレーやら煮物やらを美味しく作ったとしたら、その人は料理の技術が高いといえる。
それと同じだ。
念のために書いておくと、研究において、データから結論を導く論理的思考能力も技術点のうちだと思う。

別の視点として、研究は新しいことを見つけなければならないから、この世には芸術点の高い研究も存在する。
今までになかったアイデアやコンセプト、実験方法で新しい現象を見出すのに長けた研究者もいて、ノーベル賞受賞者はその最たるものだ。
だから、どうしても傍目には芸術点の高い研究者がすごいと思ってしまう。

楽器に例えてもいいかもしれない。
いわゆるスタジオミュージシャンのように、技術の高いプロがいるのとは別に、あまりうまくはないけれど人を惹きつける魅力を持ったアーティストもいる。
音楽は、当たり前だけれど、芸術点の占める割合が大きいのでより目立つのかもしれない。

しかし一方で、技術力の低い料理人が持て囃されることはあまりないと思う。
独創的な料理を作れたとして、少し話題にはなるだろうけれど、基本的には美味しくないものは受けない。
仕事やジャンルによって技術点と芸術点の配分がちがうのだ。
技術点の高さを評価される分野では職人が有利だろうし、芸術点が大切な仕事ではアーティストタイプが強いかもしれない。

生命科学の分野にかぎっていえば、かなり技術点の大きい業界だけれど、芸術点が低いと突き抜けられない、といった具合だと思う。
スター研究者の多くは、体力があって論理的で情熱的である上に、独創的だ。
学会などで、発表を聞くと、その情熱と独創性が全面に出てくるから、どうしても憧れてしまう。
しかし、技術点をとるための型をおざなりにするとデータは出ない。

有名ラボでは、この型をまったく教えないところもある。
ボス曰く、型を教えると自分のアイデアのミニチュア版しか出てこなくなるからだそうだ。
だからとにかく自由にやらせてみて、面白そうな結果が出てから、論文にまとめるための型を指導する。
研究で新しいことを見つける、つまり、ゼロからイチにするもっとも楽しくて苦しいプロセスは、大学院生自身がすべて自分で突破しなければならない。
もちろん、周りに質問したりアドバイスをもらったりすることはできる。
ただ、体系的に教えてくれない。
そのラボは、才能のある学生が毎年たくさん入ってくるようなところなので、その中から独創的な研究をできる人間が何%か出てくればいいという方針らしい。しかし、一般論として考えれば、最初からきちんと技術点をとれるように指導したほうが、平均的な研究の質は上がるはずだ。
いずれにしろ技術点がとれなければ生き残っていけないのだし。

最新の科学ニュースを紹介するとき、技術点の高い論文は紹介しにくい。
良さを端的に伝えられないからだ。
一方、アイデアが面白いものは、細かいデータや実験方法を説明しなくても良さを伝えられてキャッチーだ。
だからどうしても芸術点の高い研究を選んでしまう。
新しい分野を作るのは芸術点の高い研究だけれど、支えるのは技術点の高いそれで、だから個人的には技術点の高い研究も好きだ。
大体、日本人には技術点の高い研究者のほうが多い。
大量の実験を精密にこなして、筋道を立てて何かを証明するのに長けた人はたくさんいるのだ。
しかしいかんせん、分かってもらうのに時間がかかる。
サッカーを見ない人に遠藤のすごさを分かってもらうのはなかなか骨の折れる仕事なのとおおよそ同じだと思ってもらえばいいと思う。

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