取り出さずにはいられない

うまい比喩でも適切な表現でもない。
もっとよい例えがあったら変えるつもりで、仮に思いついたことを書いてみる。

村上春樹がエッセイの中で、小説家希望の人が書いたものについて触れていた。
一点でもよい部分があればよい小説にできる可能性はあるが、なければ無理だ、というようなことを書いている。
また、小説を書かなくてもすむのなら、その方がいいとも。

業やコンプレックスや後ろぐらい感情のように、楽しく生きていくためのさまたげになりそうなものを多かれ少なかれ持っていて、だましだましそれらと付きあいながら生きている人がいるとして。

そういうものを一人では抱えきれなくなった時に、いちど形のあるものに吐き出してみると、幾分か気持ちが軽くなる。
吐き出した形のあるものが、他人の共感を呼んだり、反対に不快な気持ちにさせたり、なんらかの感情を揺さぶるものであったとき、それらは芸術として価値をもつ。
さらには商業的に展開して、収入を得るすべにすることすら場合によってはできる。
純文学に限ってもよいが、プロの小説家はそういうものだというイメージがある。

あたかも体の中の腫瘍を外科的に切除するがのごとく取りだしてみせる。
うまく取りだせれば本人の体も健康になるし、ことによっては周囲の人間が、自分の中にある、うまく言語化できない感情とはこういうものであったのかと気がついたり、共感したりして、気持ちが軽くなる。

村上春樹のエッセイにあった、小説にできるよい部分というのはきっと、書いた人が自分の中から取りだしたものなのだと思う。
それも、やむにやまれず取りだしたもの。

体から取りださずにはいられないものがあるのならば、そこからよい小説を書くことができる。
けれど、そもそもそんなものがないのなら、それは結構なことじゃないか。
そう言いたかったのだと思っている。

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