見出し画像

【サイケデリック学・意識哲学探究記】12027-12035:2024年2月2日(金)

⭐️成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスを扱っている「インテグラル·サイケデリックラジオ」の配信をしています。
⭐️サイケデリクスと意識について多角的に学びを深める「オンライン加藤ゼミナール」を毎週土曜日に開講しております。

*記事のSNSでの共有・引用はご自由に行っていただけると幸いです。

タイトル一覧

12027. 今朝方の夢

12028. 今朝方の夢の続き

12029. 今朝方の夢のさらなる続き

12030. 書物の精読フェーズを迎えて/社会的な意義を感じる取り組みへの従事

12031. インド思想の福音/他我問題の解決に向けての閃き

12032. サンスクリット語の習得に向けた強い思い

12033. 唯識思想を用いての汎心論の考察

12034. 意識の創発主義を超えて/朝の瞑想を終えて

12035. 言霊を発する場/中道的な精神での発言と経典読解

12027. 今朝方の夢 

時刻はゆっくりと午前5時を迎えようとしている。昨日のジムでのトレーニングが充実していたこともあり、ぐっすり眠ることができた。そして、身体を動かして血流を良くしたこともあり、今日の調子はとても良い。最近は自宅ではずっと立って学術研究に打ち込んでいることもあり、脹脛の筋肉量が増し、第二の心臓が以前よりも機能を向上させているように思う。それが読書中や考察時における集中力を高めているし、健康度合いもさらに増したように思う。こうしたメリットづくしの立つことについては、昨日パーソナルトレーナーのエリーザにも伝えた。役に立つことを伝えていくこと。それは日頃の何気ない会話の中でも行っていきたいし、毎週行っているラジオとゼミの中でも行いたい。かつて釈迦が悟りを開いて以降、滅するまで何十年もインド中を旅して自分の知見を共有していったように。

今朝方の夢をいつものように振り返っている。今日の夢からどのようなことを自分は学んだだろうか。

夢の中で私は、小中高時代の友人(SS)の父が経営する個人塾の教室にいた。その塾には同じ学年の10数人ぐらいの男女の友人たちが通っていて、週に2回切磋琢磨して勉強していた。その日はいつもと違う形で塾が行われ、先生が事前にホワイトボードに書いた数学のグラフ問題に取り掛かることになった。自分は関数問題が大好きだったので、その問題も簡単に解けるだろうと思った。ところが、意図的に情報量を減らしたグラフがそこに描かれていたこともあり、なかなか厄介な問題であった。しばらく各自で考える時間が与えられ、一人一人XとYのどちらを正解とするかを述べさせられた。その問題の正解は二択のうちのどちらかで、確率的には50%なのだが、理由と共に解答するのは非常に難しかった。先生はまずは理由までは生徒に述べさせず、二択のうちのどちらかを解答に選んだのかをみんなに尋ねていった。私はYを選び、その後、その塾の中で数学が最も得意な友人もYを選んだのでホッとした。しかし、彼と同じ選択肢を選んだからといってそれが正解であるとは限らず、正解を教えてもらうまでは油断ができなかった。結果的に、彼と私が選んだ方が正解だった。正解をした人の中から、先生が最近どこかの組織から依頼された課題解決の案件にインターンとして加わることができるとのことで、興味がある人を募り始めた。私はどうしようかなと考えたが、自分の好きな勉強に時間を割きたいと思ったのでインターンを行うことはやめにした。

すると突然、先生が依頼された問題解決の現場に数人の生徒と一緒にいた。そこはどうやら立体駐車場のようで、左側は自転車や車が乱雑に止められたゴチャゴチャした駐車場で、右側は誰も使っておらず、埃をかぶっているような駐車場だった。先生が依頼されたのは、左側の駐車場に関しては乱雑さを解消すること、そして右側の駐車場に関しては利用者を増やすことだった。この問題の解決に関数を活用するために先生は先ほど関数の応用問題を私たちに出したのだとその時になって初めて気づいた。さて、与えられた2つの問題を解決するために、どのような変数を設定してグラフを描きながら問題を解こうかと考えた。私はインターンをする気などなかったのだが、現場に来てみると、もう問題解決に向けて気分が高まっており、やる気に満ちていた。先生が右側の閑散とした駐車場に足を踏み入れた時、そこが防音加工になっているようで、その場にいた数人の生徒を手招きして、その効果を体験させた。驚いたことに、外から内側の声が聞こえないだけではなく、内側の話し声も一気にかき消されるような加工が施されており、私たちはそれを面白がって大声で叫びながら、それらの声がことごとくかき消されることを楽しんでいた。そのような夢を見ていた。

中高において自分が数学の中でも関数の分野が好きだったこと、フローニンゲン大学では関数を活用して知性の発達研究をしていたことを思い出させるような夢だった。また外に声が聞こえないながらも叫び続けることを楽しむ自分の姿は、何か今の誰も見ていないところでひたすらに自らの声を発信していることを思い起こさせる。フローニンゲン:2024/2/2(金)05:11

12028. 今朝方の夢の続き    

つい今し方今朝方の夢について振り返っていたのだが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。

そう言えば、夢の中で睡眠を取っている自分がいたのを覚えている。私はその時自分が寝ているということに自覚的であり、気づきの意識が維持されていた。そして、自分はもう目覚めなければならないと思って目を開けようとしたところ、目が全く開かずに焦った。それは目が塞がれていたというよりも、目覚めようとする意思が目の周りの筋肉に全く伝達せず、目の開閉機能が反応しなかったのである。まぶたがとても重たく感じられ、まるで鉄の門が降りているような感じであった。その鉄の門をこじ開けるかのように意識を集中させて目を開けようとするも、目は全く反応しなかった。これはどうしたものかと目を閉じながらずっと考えていて、気がつけば目だけではなく身体全体が硬直状態であることに気づいたのである。さて、意識は目覚めているが身体全体が全く動かず機能不全になっている状態で、どうやって目を含めた身体全体を目覚めさせるかについて少し冷静になって考えてみることにした。しかしすぐには良い案が思いつかず、それであればまだ眠ったままでいいかとも思った。すなわち、こうして目覚めている意識もまた眠りの意識に戻し、もうしばらく夢の世界に入っていようと思ったのである。そう思った矢先、それではいけないような気がした。自分はやはり今すぐに目覚めなければならないような気がしたのである。それは自分の内側から芽生えた使命感のようなものであり、誰かが自分の目覚めを待っているような気がしたのだ。自分の使命感と誰かからの期待に応えるために、もう一度目を開けるための努力をしてみようと思った。すると、うっすらと重たいまぶたが開き始め、少し開かれそうになっては閉じをしばらく繰り返した後に、ようやく完全にまぶたが開いた。そして目の前には見たことのない立派な城が聳え立っていた。時刻はほぼ昼と言ってもよい時間帯で、辺りはとても明るく、太陽の光が地上に降り注いでいた。その城は今は美術館として公開されているようで、たくさんの観光客がそこに押し寄せていた。そのような場面があった。

この夢はとても印象的である。夢の世界の中でさらに深い夢を見ていたところからそれに目覚め、目覚めながらにしてまぶたが開かない状態に苦戦していた自分がいた。自分の意識は目覚めているが肉体はまだ目覚めていないことが示唆することは奥深いように思える。別の表現で言えば、肉体はやはり意識の仮の入れ物なのであり、意識は肉体を離れても存在することを示唆しているようにも思える。自分の意識は一時的に自分の身体に宿っている。今、あえて「自分の身体」という表現を使ったが、純粋な自分は自らの意識のみであり、身体は自分ではない。自分の身体であってもそれは自分ではないのだ。身体はあくまでも純粋意識としての自己の入れ物に過ぎないということ。それを強く実感させる夢だった。その他にも、最終的には目覚めを促したことが自他への思いだったことも注目に値する。自らの使命感と他者が自分を必要としているという思いから、自分は眠り続けることをやめて目覚めの道を選んだこと。それは物理的現実世界における自己の在り方と多分に重なるところがある。フローニンゲン:2024/2/2(金)05:24

12029. 今朝方の夢のさらなる続き

夢の世界。やはりそれはサイケデリクスが開示する世界と同様に大変興味深い。阿頼耶識に蓄えられた種子の発露としての夢。夢をそのように捉えることもきっとできるだろう。阿頼耶識に蓄えられた種子が映像や感覚を伴って現れる夢の世界の探究を通じて意識そのものを探究していくということ。それをこれからも1つの実践として自らに課し続けていきたい。夢の内容について書き留め、その夢が示唆することは何かを書き留めておくことは、阿頼耶識という蔵を清浄なものにしていくことにつながるはずであり、それが良い業となって物理的現実世界に形となって姿をあらわすだろう。夢を振り返ることにはそうした意味と価値がある。

先ほど書き留めていた夢の続きとしては、なんとかまぶたを開こうと思って目覚めた後に目の前に広がっていた城のような美術館の中を散策している場面もあった。外観からすると、中世ではなく、古代に建てられた城のようで、古代ギリシャの神殿を彷彿させるような作りをしていた。その巨大な城は今は美術館、あるいは博物館として開放されており、中にはたくさんの旅行客がいた。しばらく城の中を散策していると、そこに所蔵されている彫刻や壁に埋め込まれたオブジェの立派さに心を打たれ、しばし所蔵作品の鑑賞に耽っていた。すると、自分はこの城にやって来たのは作品鑑賞のためではなく、城が抱える問題の解決のためだったと思った。城から依頼された大事な仕事があることを思い出し、城を出て、城の門に続く段差のある長い道を歩いていくことにした。ふと後ろを振り返って城の方を見ると、やはりその城の立派な佇まいには何度見ても息を呑んでしまい、改めてその荘厳さに敬意を評していた。

すると突然、段差のある道にリンゴが転がってきた。それはとても大きなリンゴで、最初見た時にはリンゴだと認識することができなかった。色は赤ではなく、緑色をしていた。緑色をしていたからと言って熟していないわけではなく、それはグリーンアップルのようだった。大きさはサッカーボールぐらいのものが一番小さく、大きなもので言えば、バランスボールぐらいの大きさのものもあった。転がってきたボールを私は拾い上げたが、そのような大きさでもあったので、拾い上げるには限界があった。できる限りのことをして、転がってきたリンゴを集めて上の方にいた外国人男性に渡した。その男性は今からリンゴを売りに行くところだったとのことで、商品のリンゴを拾った私を命の恩人のように思った感謝の言葉を述べた。私は大したことはしておらず、当たり前のことをしたまでだと思った。そもそも体が自然と動いて転がってきたリンゴを止めたのであった。その男性には商売の祈願をし、お互いに笑顔で別れた。そのような夢を見ていた。

傾斜のある道を自分は下り、後ろを振り返って立派な城をもう一度眺めて感動していたこと。そこに見たこともないような大きさのリンゴが転がってきて、それを反射的に拾って持ち主に返したこと。その一連の主題の流れにも今の自分の在り方やこれまでの人生とここからの人生の姿が詰まっているように思える。フローニンゲン:2024/2/2(金)05:41

12030. 書物の精読フェーズを迎えて/社会的な意義を感じる取り組みへの従事

時刻は午前6時半を迎えた。朝の呼吸法とアニマルフロー、そして創作活動を終えたので、ここから正午まで学術研究に励もうと思う。昨日の段階で、インド哲学や日本思想に関する一連の書籍の初読を全て終えたので、昨日からゆっくりと重要文献を精読していくことにした。まずはエディンバラ大学出版から出版されているインド哲学の概要書を最初から丁寧に読んでいくことにした。今週末と今月のどこかの週末にまた書籍の一括注文をしようと思っており、そこで購入した書籍はいずれも重要な文献だが、初読の際には全体を把握するような読みをし、そこから自分の研究テーマについて特に重要だと思う文献を精読していく。この時に、最初から最後まで精読していく書籍と、書籍の中のある章だけ精読していくものに分けていく必要がある。精読フェーズではとにかく自分が研究を深めていきたい意識哲学に関することだけに当面は絞って読書を進めていくことが重要である。その目的を見失わなければ実りある読書をしていくことができるだろう。逆に読書の目的を明確にしておかない限り、焦点が定まらずふらふらとした読書に陥ってしまうであろう。それを防ぐためにも、当面は意識哲学を探究するという明確な目的を持って書物と向き合いたい。

今日からは隔週で、ある知人の方が立ち上げようとしているメディアのプロジェクトに参画することになった。そこではサイケデリクスに関する情報を発信することが自分の役割となり、サイケデリクスと意識研究を絡めた話の場を与えてもらえたことに大変感謝している。毎週水曜日のラジオの収録もそうだが、こうして世の中に何かを発信していくことの社会的な意義を感じる。現在のまだまだ未熟な自分がどれだけ社会に貢献できるかは確かではないが、未熟であることを理由に情報を発信しないというのはとても馬鹿げたことであるという認識のもと、自分にできる限りのことをしていきたいと思う。ラジオは毎週収録することが既に板についており、そこではお相手の早田航さんと一緒に意識哲学の探究ができているので、この調子で継続してラジオの場を借りて意識に関する探究を進めていきたい。そして今日からのメディアでの収録においても、その場を借りてサイケデリクスと意識研究をまた違った形で進められていければと思う。どちらにおいても共通しているのは、素晴らしい対話相手がいるということである。インド哲学や仏教の発展過程を辿っていると、そこに登場する偉大な思想家たちはみな、家に籠もって書物を読んでいたわけでは決してなく、外に出かけていき、積極果敢に他の思想家たちと対話をしていたのである。そうした対話が彼らの思想をあれだけ高度に磨き上げていったのだ。また、専門家同士の対話だけではなく、高められた思想を民衆にも伝えるという役割を積極的に担っていたことは尊敬に値する。彼らは自他的に、民衆に自らの知恵を伝えることを通じてさらに知恵を深め、そして民衆が少しでも解放に向かっていく手助けをしていたのだ。インドの思想家と仏教の思想家に習って、自分もまた様々な人と対話をしていくことを継続し、現代のテクノロジーを借りて、多くの人に自分の学びを届けられたらと思う。そうした自分なりに社会的な意義を感じられる取り組みに従事できていることに感謝をしたいし、これからはその感謝の念をより強めながら一層の精進を持ってこの取り組みを継続したい。フローニンゲン:2024/2/2(金)06:46

12031. インド思想の福音/他我問題の解決に向けての閃き

モーニングコーヒーの良い香りが書斎に漂っている。その充満する良いアロマに包まれながら、自分が最も喜びを感じ、楽しみを感じるインド哲学の探究にこれから本格的に取り掛かる。インド哲学には様々な学派があり、そこで語られていることも多岐に渡るが、とにかく自分が注目しているのは意識哲学である。インド哲学の意識哲学は学問的にも高度であり、実践的にも多大な価値をもたらす。そもそもなぜインドの思想家が意識を研究したのかを考えてみればいい。彼らは解脱と悟りを目的にして意識を研究していたのである。個人も社会も幸福を実現する上では、意識について知らなければならない。意識について深く知り、意識がどのようにして苦や悩みを含めた各種の問題を生み出しているのかを知る必要がある。それを知れば、個人や社会の問題は少しずつ解決されていくであろう。しかもその問題解決は決して表層的なものではなく、本質的なものとして実現されるだろう。とにかく意識について知ること。意識の何が私たちを苦しめているのかのメカニズムを詳細に知ること。それができれば逆に苦からの解放の方法が見えてくるはずであるし、事実それらについてはインド哲学や仏教の中で明示的に説かれているのである。これほどまでに実践的な思想体系を自分は他に知らない。

先日、意識哲学における他我問題の解決に向けて少し道が開かれた閃きが降りてきた。他者が自分と同じような心を持っていることをどのように証明するのかという他我問題について、その問題の解決に阿頼耶識の理解が鍵を握ると思ったのである。そもそも阿頼耶識はまず、各人に固有のものとして存在している。私たちそれぞれの心の奥底にある阿頼耶識が他の7織を生み出し、それが私たちに世界を認識させる。端的には、私たちは阿頼耶識が生み出した世界を絶えず認識する形で日々を過ごしているのである。ここで注目するべきことは、阿頼耶識は単に個人それぞれに存在しているだけではなく、深層部分においては集合意識としての共通基盤を形成しているということである。この共通基盤を足掛かりにすれば、他者が自分と同じような心を持っていることの証明を導き出せるのではないだろうかと考えていた。その具体的な証明手順はこれから詰めていけばいい。まずはこの直感的な閃きを大切にしたい。さらに重要な概念として、「倶有の種子(くゆうのしゅうじ)」というものがある。これは、他者の阿頼耶識の中に自分と共通の種子が存在するという概念である。これがあるおかげで、私たちは他者と共通の客観的世界があると感じることができるのだ。実際には各人がそれぞれ主観的世界を生きているのだが、共通の種子を通じて世界を共有する感覚を持てるということ。この感覚とそれを生み出す倶有の種子の考え方を採用することもまた他我問題の解決の証明に活用できると思った次第である。フローニンゲン:2024/2/2(金)07:15

12032. サンスクリット語の習得に向けた強い思い    

竜樹への深い敬意。彼が提唱した中観思想への傾倒。それは確かに今も強くある。そしてこれからも竜樹の中観思想を含めた全思想を全身全霊で学んでいきたいという思いがある。同様の思い、あるいはそれを凌ぐ思いを持っているのが、弥勒(マイトレーヤ)を開祖にする唯識思想である。寝ても覚めても唯識思想ばかりを考えている。直近の夢の中でも唯識思想について考えていた。そこでは唯識思想の深淵さに感極まって喜びの涙を流している自分がいた。弥勒の唯識思想をさらに発展させていった無着(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)兄弟の唯識思想をどこまでも深く学んでいくことに情熱が溢れ返っている。仏教を含めたインド哲学の注目するべき点は、釈迦の教えをまとめた経典は1つではなく複数あることであり、そしてそれぞれの経典に対して弟子たちが無数の注釈集を作り上げていったことだ。それを通じてインド思想はあれほどまでに広く深い思想を形成することになったのである。まるで自己組織化する生命体のようにその思想はどこまでも成長発展していき、そして今でもなおその命の脈動が感じられ、時代に即して発展している点に感銘を受ける。繰り返しになるが、インド哲学が扱う主題は多岐に渡り、自分は宗教家ではなくあくまでも哲学者としての仕事をしたいと思っているので、インド哲学が扱う分野の中でもまずは意識哲学に絞りたい。意識について学んでいる過程の中で、必然的にリアリティについて扱うことになり、そこから派生して宇宙について学ぶことになるだろう。まずは内面精神宇宙の探究をとことんまで深めていき、そこから派生する形で宇宙物理学者とは違った観点と方法論で外面物理宇宙について探究をしていきたいと思う。こうした思いから、三蔵法師こと玄奘が大切にしたように、翻訳書ではなく原典を読むことをとにかく大切にしたい。そのための努力は惜しまない。中観思想と唯識思想の原典はサンスクリット語で書かれており、それを自由自在に体感を伴いながら読み解ける日を夢見ながらサンスクリット語の勉強をしていきたい。まずは良い師を見つけること。良い師に師事しながらサンスクリット語を体系的に学んでいくことをしていきたい。原典には翻訳書にはない言葉が生き続けている。翻訳のプロセスにおいては、訳者は意識的・無意識的に何を訳すのか訳さないのかの選択を迫られる。どれだけ忠実に翻訳をしようとしても、必ず翻訳者の認識バイアスが作動するのである。そのバイアスを完全に取り除くことはできず、むしろそのバイアスが良い方向に働き、原典以上に読みやすいものが出来上がることは往々にしてある。しかし自分は、兎にも角にも時代を超えて今なおそこに生き続ける原典の声が聞きたいのである。今から遥か昔に生きていた竜樹、弥勒、無着、世親の肉声が蘇ってくるかのように原典から響き渡ってくる彼らの教えに直接触れたいのだ。そのためにはなんとしてもサンスクリット語を習得する必要がある。これを独学で行うのは難しく、本当に良い師を探さなければない。きっと良い師と巡り合えるのではないかという思いを抱きながら、今は英語に翻訳された彼らの書物を読んでいくことに全力を尽くしたい。フローニンゲン:2024/2/2(金)07:31

12033. 唯識思想を用いての汎心論の考察

先ほど意識哲学の他我問題について考えていたときに、唯識思想における第6番目の識である自己意識と第7番目の識である末那識を用いることは汎心論を議論する際の鍵になるのではないかと思った。全ての存在に心のようなものを認めるのが汎心論であり、強い汎心論者は無生物の物や物質にも心のようなものを認める。その際に、私たちの主観性を司る6番目の識の存在の有無と、7番目の識の有無を議論することは重要なのではないかと思った。その観点で言えば、やはり今の自分は物質に人間のような主観性があるとは考えられにくく、また物質が人間が自我に固執するような末那識のようなものを持っているとは考えにくいために、その点において物質には人間と同様の心のようなものは存在していないという立場を取る。もちろんこの立場表明もまた仮のもので空的なものであり、今後自らの考察が深まって新しい気づきや発見があった場合や、その立場を覆す科学的な発見があった場合には立場を柔軟に修正したいと思う。自らの思想体系は仮なる空的なものとして、絶えず様々な可能性に開かれながら発展していくのだから。

再度自分の考えをまとめておくと、この世界に存在する遍く存在に人間と同じような心の存在を認めないという点で自分は強い汎心論者ではない。しかし、生きとし生ける存在には人間と同じような心の存在を認める。ただし、動植物が自我に固執する末那識のようなものを持っているかは定かではなく、また6番目の自意識についても自己を客体化するようなメタ意識的なものとしてそれを保持しているわけではないと考えている。彼らが持っているのは6番目の識を仮に上位と下位に分け、上位をメタ意識として捉えた場合、下位の自己意識を持っていると捉えたら良いのではないかと考えている。もちろん特に動物の種類によって、メタ意識のようなものに近いレベルの自己意識を持っている動物も存在しているので一概に区別はできないが、少なくとも自己と他者を分別する機能が伴う自己意識は動植物全般が有しているのではないかと思う。ただし、植物と菌類についてはもう少し検討を加えたいところである。彼らは根や菌糸を通じて他の植物や菌とコミニケーションを図っていて、そこに人間と類似する知性を見出せる。借りにそれを知性と呼ぶのであれば、果たして原子や素粒子にもそうした特性が存在しないのかについてはより調査と考察を進めたい。動物と植物が持つであろう意識は共通する性質もありながら、同時に異なる性質もあるであろうから、特にその違いに注目して引き続き意識哲学の研究を進めたい。少なくとも植物においても自分ではない何かや外界現象を知覚し、そこからアクションを起こすという性質があり、それを下位の知性に置くことは可能だろうし、原子自身が他の原子と分別を通して外界現象を知覚するかというと、原子にはそうした知覚作用は見出せないような気がしており、原子が行えるのは外部からの刺激を受け取るという受動的な性質のみで、外界現象を能動的に自ら認識するという力はないように思える。少なくともそうした知覚作用のあるなしは、まずは生命と非生命の心の存在を議論する際に重要だろうし、動物と植物の心の存在を議論する際にも重要だろう。フローニンゲン:2024/2/2(金)07:57

12034. 意識の創発主義を超えて/朝の瞑想を終えて       

意識は物質の複雑な相互作用によって生じるのではなく、物質の複雑な相互作用によって初めて受け取れる状態になるという発想。そうした発想を自分は持っており、それはベルグソン・ハクスリー理論の根幹にある発想とつながっているように思える。脳内のシナプスの複雑な相互作用が意識を生むという創発主義的な発想ではなく、そうした複雑な相互作用を確かに認めながらも、それが意識を生む原因になっているのではなく、あくまでもそれは意識を受容するための下準備に他ならないという考えを自分は持っている。サイケデリック体験を通じてその発想を下支えする直接体験を何度も積みながら、唯識思想を含め、物質主義的な意識の創出理論をことごとく覆す思想に触れていると、上述の発想の確からしさが自分の中で高まってくる。

つい今し方、朝の瞑想実践を終えた。その時の瞑想では『般若心経』の音楽をかけることはなく、それは次回のシロシビン・セッションでかけていこうと思ったし、夜に入浴しているときに繰り返し聴くことにした。朝と夕方の瞑想実践においては言葉が入らない自然音を聴きながら瞑想するのが良いと判断した。雑念が湧き上がる状態が徐々に静かになっていき、雑念がポツポツと湧いてもそれは少数であり、同時にそれらに囚われなくなってくる。そうした状態を続けていると、さらに意識は深くなっていき、恍惚感を伴うような穏やかな気持ちになる。内観として瞑想実践を行ってもいいし、至福さを感じることを純粋に味わうために瞑想実践をしてもいい。また特に事前に目的など定めずに、ただ座ることもまた推奨される。いずれの形態を採用しようが、それらは全て意識の涵養と意識の探究につながっていく。また定期的に行っているシロシビン・セッションの大きなサポートになることも絶えず心に留めておきたい。

朝の読書は順調に進んでいる。瞑想をしてまた脳がフレッシュな状態になったので、ここから高い集中力を持って今取り掛かっているインド哲学の全体像を記述した書籍を一気に読み進めていこう。精読を採用しているが、順調に読解が進んでおり、ひょっとしたら今日中に精読の1回目が終わるかもしれない。どのタイミングでそれが完了するかわからないが、完了次第、次の書籍の精読を行っていく。インド哲学関係の書籍は本当に読みたいものが山のようにある。インド哲学そのものがまさにエベレストのような高い山なのであり、その山をゆっくりと歩きながら登っていく楽しさを噛み締めて、一歩一歩意識の本質に近づいていきたいと思う。フローニンゲン:2024/2/2(金)09:13 

12035. 言霊を発する場/中道的な精神での発言と経典読解      

つい先ほど知人の方が立ち上げ予定のメディアの動画コンテンツの収録を終え、心を落ち着かせて再び夕食準備まで読書をするために瞑想実践を行った。今こうして先ほどの動画コンテンツの収録を振り返ってみると、自分がこれまで学んできたことや得てきた知見を共有する場を持たせていただいていることにとても感謝するという現象が起きた。言霊を発する場としてそのメディアがあることに感謝の念が湧いたのである。自分が社会に対してできることは非常に少ないかもしれない。自分にできることは学術研究を続け、そして自分の関心テーマに関する種々の実践を行い、研究と実践を通じて得られことを社会に共有することなのだ。釈迦を最も尊敬するべき対象として崇め、釈迦が命の火を消す瞬間まで広く多くの人に学びを共有した在り方を自分も踏襲していきたい。

そのようなことを考えた後に、今日の午前中の研究過程の中で考えていたことも書き留めておきたい。先ほどのメディアでの話もそうなのだが、自分がその瞬間に語ったことは常に仮のもので空的なものなのだ。それは絶対的なものではなく、絶えず変化する可能性を内包した中道的なものであることを忘れないようにしたい。また発言の際には中道の精神を大切にしたいと思う。それと同様に、どんな神聖なテキストも完全無比ではあり得ず、そこに絶対的な真理がどれほど開示されていたとしても、テキストの存在そのものが本来仮の空的な存在なのだから、一生涯そのテキストそのものとそれ以外のテキストを参照して勉強し続けていくことが重要なのだということを考えていた。完全に悟りの境地に至った阿羅漢はもはや学ぶことが何もなく、無学の境地に到達したと言われるが、今の自分はそのような境地には到達していないのだから、1冊のテキストをどこまでも深く学びながら、同時にそのテキストに関連する注釈書としての派生的なテキストを旺盛に学んでいく必要がある。それが有を通じた無への道、無学への道なのだろう。 

インド哲学において関心を持っている六派学派の区別も仮の設定として置き、それらの学派の経典の内容も絶えず仮の存在として中道を絶えず歩みながら読み進めていく。中道の精神を学問の文献読解に実践的適用するとそのような実践的な読みができるだろう。それは経典で書かれていることを鵜呑みにせず、それでいてそこで書かれていることを大切にするという2つの精神を包摂させてくれる読み方かと思う。今から夕食までの読書またそうした中道的な読解を心掛けていきたいと思う。それが本当の意味での習慣になるまで、絶えずそうした読み方を意識していきたい。フローニンゲン:2024/2/2(金)16:19


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?