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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12114-12119:2024年2月13日(火)

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タイトル一覧

12114. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けて

12115. 中道的生き物としての人間/今朝方の夢

12116. 仏教の倫理思想への関心の芽生え

12117. ハーバード神学大学院と日本へのささやかな貢献としての留学記

12118. ハーバード神学大学院のオンライン面接の準備の大半を終えて

12119. 前回と前々回のシロシビン・セッションで体験した事象を唯識思想を通じて解釈して

12114. ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けて       

時刻は午前3時半を迎えた。今の気温は4度でここから午前8時にかけて1度下がり、そこから緩やかに気温が上昇し、日中は8度まで気温が上がる。そのくらいの気温であれば全く寒くなく、ちょうど今日は午後に日本からの来客の方々とお会いする予定なので有り難い。来客の方々にはフローニンゲン大学のメインキャンパスを案内したり、街の中心部のカフェで午後5時を目処にゆっくりと話をする予定である。

昨日の朝から数時間にわたって明後日のハーバード神学大学院(HDS)のオンライン面接に向けた準備をしていた。そのおかげで準備の大半が終わり、今日と明日でさらに細部を詰めていければと思う。昨日と同様に、またいくつか想定質問を昨夜思いついたので、それについて自分の回答を文章に書き出し、それを音読するということを行う。こうしたプロセスの一部始終を今日もまた動画に残しておき、ゼミの皆さんに共有しておきたいと思う。ゼミの皆さんに共有するという意識で文章を書き出して音読をしてみると、それが鏡を見て言葉を発しているかのような感覚となり、面接に向けての最良の準備になるように思う。いくつか思いついた想定質問の中でも、HDSでの学位の取得がプロフェッショナルとしてのゴールにどのように役に立つか、個人としての人生におけるゴールとどのように役に立つかという問いや、ライティングサンプルで言及した研究アイデアについてさらに詳しく教えて欲しいという問いに対する回答を準備しておこうと思う。前者に関しては、博士課程への進学の準備としてHDSの修士課程での学びは重要になり、とりわけ仏教やインド思想などの多様な宗教思想を比較宗教学的に学び、それらの思想をサイケデリック研究に応用するというサイケデリック学者としてのキャリアにつながり、さらには仏教の中でも唯識思想を含めた意識哲学に注目することによって、意識哲学者としてのキャリアを切り開いていくことにHDSの学位は役に立つことを伝えたい。個人としての人生におけるゴールに関しては、学者としてのプロフェッショナルなゴールと重なっており、意識とサイケデリクス について研究し、その知見を広く世の中に共有することによって、少しでも人々が心穏やかな生活を送ることができ、自分自身を知ることを通じて心の成長を実現し、より良い社会の実現に向けてそれぞれの人が自らの可能性を発揮できるように支援することを挙げることができるだろう。

提出したライティングサンプルについてはアップデートがある。書類選考の際に提出した際には、サイケデリック体験に関する質的調査を仏教と神道の観点から行っていくことについて書いていた。それと大枠は同じであるが、仏教の観点で唯識思想の枠組みを活用するという点はアップデートされた情報である。唯識思想はとりわけ無意識に関する詳細な分析を行っているため、他の宗教思想にはない体験解釈を可能にする点が魅力であることを伝えたい。西洋の心理学を超えた形での詳細精密な無意識に関する分析は驚くべきもので、サイケデリック体験においては無意識から噴き上がってくる現象に圧倒されてしまうことがあるため、無意識についての理解を唯識を通じて深めることを目的にした研究はサイケデリックユーザーにとっても役に立つはずである。そのようなことを趣旨とした説明をしたいと思う。フローニンゲン:2024/2/13(火)03:49

12115. 中道的生き物としての人間/今朝方の夢      

兎にも角にも今日と明日は、ハーバード神学大学院(HDS)のオンライン面接に向けての準備を最優先にする。とはいえ昨日も面接に向けた準備がある程度終わった段階で読書を始めたので、今日も面接の準備がひと段落ついたら唯識思想に関する研究を進めていこう。「インテグラル・サイケデリックラジオ」とゼミの方でも唯識思想について扱う予定で、前者に関しては洋書を、後者に関しては和書を取り上げて唯識について学んでいければと思う。HDSの面接準備ばかりをしていても逆に疲れてしまうから、息抜きとして唯識思想について学ぶことで良いバランスが取れている。ここでもまた中道が大事だということだろうか。人間は面白い生き物で、同じことを過度にずっとやることができない生き物のようだ。短期的にそれができたとしても、長い目でみれば心身を崩してしまうことに繋がりかねないということを鑑みると、人間は本来中道的生き物だと言えるかもしれない。そうした人間の特性を忘れずに、何事も偏らずに中道を歩みながら学習と実践を前に進めていきたいものである。自分の場合は特に、常に何かに良い意味でも偏っているのだから、尚更中道を意識していこう。

今朝方は夢から覚める直前にいつものように夢を見ていた。それらは断片的なものだが、それらについて振り返ることもまた阿頼耶識について知ることに繋がり、阿頼耶識の浄化に向けた実践になるだろう。

夢の中で私は、父と一緒に見慣れない海で釣りをしていた。父は釣りの達人と述べていいほどに釣りが上手く、釣りの道具も色々と自分で作ってしまうほどに器用であった。父と一緒に釣っていたのはタコであり、そこはタコが多く集まる場所だった。釣ったタコについても父が調理し、父は料理の腕前も見事なため、本当になんでも器用にこなす人だなと改めて敬意を評していた。タコを釣っている最中に、父がお勧めのワームを貸してくれることになり、それを糸で結ぼうとしていると、その結び方がよく分からなくなってしまい、父にそれをお願いして任せた。その瞬間に夢の場面が変わった。

もう1つ覚えている夢としては、見慣れない大学教室で、その大学が学生たちに提供している英語のカリキュラムについて助言をしていた。特に英語の試験問題に関して自分は意見を提供していた。これまでの試験では学生の英語力をしっかり測定することができないという問題を抱えており、その点を指摘した上で、それではどのような試験問題が最適かを述べた。これまでの穴埋め式問題に改良を加える形で記述式にしたり、穴埋め式の問題を残す場合であってもそれに工夫を加えることについてアイデアを共有した。試験問題を作成する担当者の方たちは私の意見に真剣に耳を傾けていたので、彼らであれば学生の英語力をきちんと測定し、彼らの英語力を伸ばす試験問題を作成できるだろうと思って嬉しくなった。そのような夢を見ていた。

前者の夢についてはタコが海中をすーっと泳いでいる姿を眺めていたことが印象に残っている。堤防から見えるタコはなかなか釣りづらいと父が述べていて、目の前を泳いでいったタコはきっと釣ることはできないのだなと思いながら、優雅に泳ぐタコの姿をしばらくじっと見ていたのを思い出す。フローニンゲン:2024/2/13(火)04:07

12116. 仏教の倫理思想への関心の芽生え 

時刻は午前5時を迎えた。辺りはまだ闇に包まれているが、ここ最近は日の出が少し早くなり、午前8時を迎えた頃にはうっすらと明るくなってきている。着実に春に向けて季節が進行していることがわかる。ここでも仏教の教えにあるように、この世界には永遠不変のものはなく――その真理だけが永遠不変と言えようか――、季節もまたその例外ではないのである。季節もまた固定したものではなく、それは絶えず変化をしていて、着実にまた違う変化に表情を変えるのだ。

早朝のアニマルフローの実践中に、懺悔道と感謝道を真摯に歩むためには、仏教の倫理思想を深く学ぶ必要があるという閃きが突如降ってきた。唯識思想の研究に没頭した後にはどこかのタイミングで仏教の倫理思想を学びたい。やはり何かの導きなのだろうか、昨年か一昨年の段階ですでに倫理思想に関する関心が芽生えており、その時は西洋の倫理思想を一時期集中的に学んでいた。その時には西洋の倫理思想の精緻さに驚かされたのだが、仏教の倫理思想もきっと西洋のそれに匹敵する精緻さを持っている可能性があり、少なくとも奥深さを持っていることはもう間違いないように思う。今自分が仏教に対して魅力を感じているのが、兎にも角にも釈迦が仏教を開いた目的にある。人々を苦から解放し、幸福を実現するという実践的な側面がとにかく色濃いいのが仏教の特徴で、自分はそこに魅力を感じている。もちろん苦からの解放と幸福の実現に向けて釈迦が共有した教えと実践を学問的に研究していった弟子たちが多数いて、彼らの功績もあって仏教が1つの学問体系になっているのは間違いない。しかし誤解してはいけないのは、仏教は兎にも角にも解放と幸福の実現に向けた実践的な宗教であるという点である。解放と幸福の実現を支えるものとして倫理的な思想とその在り方がある。仏教の倫理思想は生命倫理の文脈やテクノロジーの文脈でも語られるようになってきている。ここから生命技術を含めたテクノロジーがますます発展していくことに伴い、仏教の倫理思想が見直され、それが大きく貢献する日がやってくるのではないかと思う。それを見越した形で、仏教の倫理思想についても絶えずアンテナを張って研究を密やかに進めておきたい。そうなってくると、もう唯識思想だけに限定して仏教を学ぶことは得策ではなく、仏教全体を学ぶ気持ちを持って、その中で倫理思想の探究も進めていければと思う。やはりこうした関心はすでに自分の中にあったようで、仏教の倫理思想とテクノロジー哲学を絡めた学術書、仏教の倫理思想と生命技術を絡めた学術書が何冊かすでにある。それらを読み返しながら、唯識思想とサイケデリクスを絡めた研究にとどまるのではなく、より社会に貢献していくために、仏教の倫理思想の研究も様々な具体的な分野と絡めて進めていこうと思った次第である。フローニンゲン:2024/2/13(火)05:13

12117. ハーバード神学大学院と日本へのささやかな貢献としての留学記  

さてモーニングコーヒーを淹れたことだし、時刻も午前6時に向かいつつあるので、そろそろ明後日に控えているハーバード神学大学院(HDS)のオンライン面接に向けた準備をしていこうと思う。この面接に向けた準備もまた学びに他ならず、海外大学院への留学を志す方々がゼミの中にいることを考えた時に、準備の過程を今日もまた動画として撮影し、共有したいと思う。

HDSのオンライン面接での想定質問の1つとして、「なぜHDSはあなたを受け入れる必要があるのか?」というのは問われそうな問いである。それについてはすでに昨日考えを書き出しているのだが、昨日書き出したことに加えて、ふとアドミッションのシニアディレクターのマーガレットさんが11月に直接お会いした時に述べていた言葉を思い出し、その言葉に自分がHDSに貢献できるヒントがありそうに思えた。マーガレットさん曰く、日本人がHDSに出願することはあまりなく、いたとしても毎年1人か、2、3年に1人ぐらいで、合格するのも2、3年に1人ぐらいとのことである。現代では宗教研究よりも実利的な学問を修めることに多くの人の関心が向かっているという潮流があるだろうし、宗教に関するプロフェッショナルスクールを卒業した後に職を見つけることも困難な状況にある。そうした状況の中で、HDSのような宗教における世界のトップスクールであったとしてもわざわざ出願しようとする人が少ないのは理解できる。HDSが要求する英語力や学力を考慮すると、日本人が出願することが稀なのは理解できる。しかし、そもそもHDSの魅力がうまく日本に伝わっていない可能性があると思ったのである。自分自身、確かに以前からHDSの存在は知っていたが、そこで提供されているコースがどのようなもので、スクールカラーはどのようなもので、どのような雰囲気を持っている大学院なのかはわからなった。もちろんHDSは別に個別の国を対象にして、日本に焦点を当ててリクルーティングに励むことはないと思うが、日本が持つ宗教多様性とその豊かさを思う時、日本からもっと出願者がいてもいいと思うのである。日本人にもっとHDSについて知ってもらい、HDSの魅力を伝えるためにも、自分にできることとして、仮にHDSに受けれてもらうことができたら、「留学記」という形でHDSでの生活の様子を伝えていきたいと思う。とにかく情報が共有されていないと、HDSは日本人にとって未知な大学院であり続けるだろう。当然英語で情報を求めればHDSに関する動画やウェブ記事は無数にあるのだが、言語的な壁があることも確かなので、HDSと日本への両方への貢献として、留学記を日本語で執筆していくことは自分ができる小さな貢献かと思う。仮に上記の質問を尋ねられたら、この点についても言及しておきたいと思う。フローニンゲン:2024/2/13(火)06:01

12118. ハーバード神学大学院のオンライン面接の準備の大半を終えて

時刻は午前10時を迎えた。つい先ほどまでハーバード神学大学院(HDS)のオンライン面接に向けた準備をしていた。今日もまた一連の準備の過程を全て動画に収め、それをゼミのシステム上にアップロードし、ゼミの受講生に共有した。そこで共有した情報がどれだけ役に立つのかはわからないが、受け取るよりも与える人生を歩みたいという自分のささやかな実践的行為だと思う。

今日は具体的にどのような面接準備をしていたかというと、昨日の段階ですでに主要な想定質問に対しての自分なりの回答を書き出していたのだが、改めて眺めてみると、付け加えておくべきことがあるように思えたので、まずはそれを紹介していくことから始めた。そしてそれがひと段落すると、昨夜閃いたその他の想定質問に対して同じように自分なりに回答していき、それもまた文章として書き出していた。そこからはHDSに提出した書類を振り返っておきたいと思ったので、それぞれの書類について言及していった。まず最初に学歴についての書類を紹介する際に、自分がこれまで卒業した一橋大学、ジョン・エフ・ケネディ大学、フローニンゲン大学の全ての成績書を共有し、当時自分がどのような授業を履修し、どのような成績であったかを共有した。これは自分にとっても思わぬ発見があった。特に学部時代の授業については随分と忘れているものがあり、4年間で単位を取得した授業を1つ1つ見ていくことによって当時の思い出が蘇ってきたのである。同様のことがJFK大学とフローニンゲン大学で履修した授業に対して起こった。これは個人的に良い振り返りの機会となった。そこからは出願に際しての最重要項目である志望動機書を取り上げた。3ヶ月前に提出した志望動機書を改めて読むと、我ながら首尾一貫した良いストーリーが構築されていると思い、そこで書かれている内容や表現のいくつかは面接の際の受け答えで活用できると思った。そして志望動機書の次に大事だと言ってもいいであろうライティングサンプルについては、それは志望動機書の内容と絡めたものだったので、ここでも一貫したストーリーが展開されており、自分がHDSで行いたい研究の背景や意義、そして研究仮説と研究手法についておさらいする上でそれを振り返ることはとても有意義だった。これにてオンライン面接の準備の大半を終えたことになる。明日と明後日は、とりわけ想定質問をもとに、15分間のオンライン面接の入室のところからイメージし、冒頭の面接官との挨拶から最後にお礼の言葉を伝えるところまでの全てをできる限り繰り返しシミレーションしておきたい。もちろん当日に完全に同じような状況や内容で進行するとは限らないが、できるだけ緻密なシミレーションを何度も繰り返しておくことは、面接に向けた自信の醸成になるだろうし、面接に関して何も後悔しないという状況を作れるだろう。何よりも、わざわざ自分のために時間を割いてくださる面接官へ誠意を尽くすためにも、そうした徹底的な準備は意味のあることかと思う。できる限りの準備をすれば、当日の面接は楽しんで行えるに違いない。すでに3人の面接官候補とは昨年の11月に直接お会いしているので、緊張などすることなく、絶えず感謝と誠意の思いを持って楽しみながら会話ができたらと思う。フローニンゲン:2024/2/13(火)10:30

12119. 前回と前々回のシロシビン・セッションで体験した事象を
唯識思想を通じて解釈して

現在、ハーバード神学大学院のオンライン面接に向けた準備に並行して、先日届けられた唯識思想に関する書籍を読み進めている。その中の記述として、前回と前々回のシロシビン・セッションで味わった実存的恐怖について唯識的な解説が施せることに気づいた。あの時に感じていた実存的恐怖は、言葉で自己を定義する末那識の機能中断に原因があったのである。より正確には、末那識が言葉で自己を規定する機能が宙吊りにされた状態で視覚や聴覚などの知覚機能が残っているゆえに、例えば目を開けてトイレに行こうとした時に、今何が起こっていて、そこにいるのが誰か言葉で定義できないのだが、その生き物がトイレに向かって動いているのがわかるという恐怖があったのだ。これは体験のピークではなく、それが少し過ぎてトイレに行こうとした時にここ最近よく起こる現象である。次回のセッションで似たような現象に遭遇したら、そこで慌てることや取り乱すことなく、世親が述べるように、その現象を喜ぼうと思う。それは末那識を手放すことなのだ。末那識に縛られない形でこの世界に存在するとはどういうことなのかを体験させてくれる良い機会なのである。そのような意味付けがなされると、次回に同種の体験に直面した時に面食らうことはなくなるだろう。少なくともその衝撃度合いは緩和されるはずである。

ここで重要なことは、末那識を悪者として切り捨てないことである。唯識思想のもとになっている倶舎論にあるように、まずは末那識の特性を正確に分析し、よく知ることが重要になる。末那識の役割をよく理解した上で今度は、八正道の実践をしていく。つまり、末那識に対して正しく見ることであったり、正しく接することを行っていくのである。この原理はどこか、アメリカの思想家のケン・ウィルバーが提唱したインテグラルライフプラクティスの中にあるシャドワークの進め方と似ている。つまり、最初にシャドーに気づくことが重要で、それを切り離すことをせずにシャドーの思いを汲み、そして再びシャドーを再所有するというプロセスである。このプロセスと同一のものを仏教の実践が持っていることに驚く。やはり仏教は心理学の側面を多分に持っており、サイコセラピーの側面を多分に持っているのである。末那識に対してもそれを邪険にせず、末那識の存在意義を認め、末那識がどのような形でその瞬間に現れているのかを中立的に観察してみることから始める。そして末那識の観察を終えたら、自己認識を司る末那識に感謝の念を捧げ、末那識と良好な関係を築くように努めていけば、私たちは末那識に囚われることがどんどんと減っていくであろう。これからできるだけ四六時中末那識を観察し、末那識と正しく付き合うことを心がけていきたい。フローニンゲン:2024/2/13(火)13:25

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