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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12079-12085:2024年2月9日(金)

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タイトル一覧

12079. 今朝方の夢

12080. 読書と唯識/社会に根強く残るフラットランド的発想

12081. 唯識思想を通じた自己観察と対話への開かれ

12082. 名づけ

12083. サイケデリクスとエクスタシス及びエンスタシス/唯識と旅行

12084. サイケデリクスと禅仏教・真言密教の態度の違い/禅的な公案の対象としての夢

12085. シロシビン・マッシュルームの新たな栽培キットを購入して

12079. 今朝方の夢      

時刻は午前5時を迎えた。昨日は氷点下の世界が朝から昼ごろまで続いていて寒かったが、今日からはまた穏やかな気温となる。今の気温は2度と低めだが、ここから徐々に気温が上がっていき、日中の最高気温は10度まで達する。ここからしばらくは気温も低くなく、風も強くない日々が続くようなので何よりである。

今朝方は2つほど夢を見ていた。まず覚えているのは、小中学校時代の親友2人(NK & HS)と一緒に旅行に出かける場面である。親友の片方の小学生の長女も一緒に旅行に同行することになり、賑やかな旅になりそうだと思った。待ち合わせの場所はロサンゼルスの空港でそこから飛行機に乗って目的地に行くことになっていた。私はロサンゼルスの空港までは電車で移動することになっており、2人の親友は車で行くことになっていた。諸事情により、親友の長女は私と一緒に電車でロサンゼルスまで行くことになった。彼女と最後に会って話したのはもう随分と前で、彼女はまだ小さかったし、果たして自分のことを覚えていてくれているだろうかと思った。旅立ちの朝は快晴で、今からロサンゼルスの空港に向かうことが妙に楽しく感じられた。そのような場面があった。

もう1つ覚えているのは、見知らぬお坊さんと会話をしている場面である。そのお坊さんはまだ若く、聡明な顔つきをしていて、性格も穏やかで大変好感が求めた。ここからさらに修行を積んだら、きっと立派な僧侶になるだろうと確信させてくれるのに十分であった。しばらく話をした後に、今から修行をするとのことだったので、修行の様子を見学させてもらうことにした。修行の様子を見学することが自分の修行にもつながると思ったし、今の自分の実践に活かせることがきっとあるだろうと思ったのである。そのような夢を見ていた。

おそらくそれら2つ以外にも夢を見ていたように思う。覚えていない夢に関しても、感情面に関してはうっすらと覚えていて、特に感情が揺さぶられるようなものはなく、とても平穏な心を持っている自分がいたように思う。そして平穏な心の中から楽しむという肯定的な感情が常に湧き上がっていたように思う。上記の夢の2つ目のものに関しては、あの見知らぬお坊さんは今の自分の姿を映し出しているのかもしれないと思った。ここから修行に励み、解脱と悟りに少しずつ向かっていくこと。しかも自らの解脱と悟りを成就するだけではなく、他者や社会全体としてそれを実現するように尽力していくこと。そんなことを毎日考えている自分にとって、あのお坊さんは自分の写し鏡のように思えた。フローニンゲン:2024/2/9(金)05:23

12080. 読書と唯識/社会に根強く残るフラットランド的発想   

今日もまた意識哲学の研究に打ち込んでいこうと思う。今日は久しぶりに和書を読んでみようと思う。何を読もうと思っているかというと、井筒俊彦先生の全集を引っ張り出してきて、井筒先生の意識哲学の論考を参照してみようと思ったのである。とりわけ井筒先生が大乗仏教の思想を用いながら意識について解説している論文を中心に読み返していこうと思っている。こうして今、唯識思想に関心を持っている自分の目で改めて井筒先生の論文を読むと、きっと新しい発見があるだろう。読書の楽しみと喜びは、自分の識の世界が変化すれば、得られるものが変わるということである。ただ識のみ。自分は自らの識を通じてこの世界を眺め、そしてその世界の中にいるのである。書物というものもまた自分の識の変化によって、得られるものはなんとでも変わるのである。自分の識の世界を豊かにしていけば、書物から得られるものもきっと豊かになるだろう。

昨日、直接体験をデータにして法則性に至る方法と、多様なデータをもとにして法則性に至る方法に関して、両者は帰納的アプローチを採用しているという点で共通していることについて考えていた。両者は共に演繹的ではなく、帰納的な発想を用いているのだが、世の中の風潮として、統計的帰納法に基づく自然科学的なアプローチばかりに価値を置こうとすることには気をつけなければならないと改めて思った。ケン・ウィルバーが指摘したフラットランド現象がそこにも見える。大量のデータを元にした帰納法的アプローチなら安心で、1人の人間の直接体験を元にした帰納法的なアプローチは量的に不十分であるという思い込みから不安を抱えるような人が社会には多いのではないかという問題意識が自分の中にある。そこではやはり質が蔑ろにされているのである。仮に大量に集められたデータの質が杜撰なものだったらどうだろう。その点について目配りし、データの質を検証しているのだろうか。一方、1人の直接体験から得られたデータの質が非常に高いものだったらどうだろう。統計的帰納法に基づくものだけが科学で信頼に足ると思い込むのは相当に馬鹿げた発想ではないだろうか。その背後には、科学哲学に関しての無知さや社会の科学主義的なパラダイムを客体化できてないという問題や、科学に関する個人的なシャドーがあるのかもしれない。日本において文系と理系は切り分けられており、文系は自然科学的なアプローチに対して負い目があったり、理系は理系で、自然科学的なアプローチを絶対視する盲信があるのかもしれない。いずれにせよ、それらもまた心の影としてのシャドーに他ならず、そうしたシャドーと向き合いながら、正しい知識を得る方法には多様な道があることと、データの量は多ければ多いほど信頼に値すると思いがちな短絡的な思考に陥ることには注意しなければいけない。理想は質の高いデータが多くあることだが、研究の対象によっては量を確保できないものもあり、そうした場合における種々の工夫が学術研究の方法論の中にはしっかりあるのである。やはり社会にはまだまだフラットランド的な発想を知らず知らずのうちに行っている人が多いようだ。これもまた無明であり、苦しみを生み出す元かと思うので、この問題についても自分なりに取り組んでいきたい。フローニンゲン:2024/2/9(金)05:41

12081. 唯識思想を通じた自己観察と対話への開かれ       

先ほど、先日の第53回の「インテグラル・サイケデリックラジオ」の放送に対して寄せられたコメントに基づいて、ひとり考えていたことを単独でラジオ収録した。ラジオの場を借りて世界の様々な場所に住むリスナーの皆さんと交流ができることは自分にとっても非常に嬉しく、テクノロジーの恩恵を感じる。自分は常に自らの識の世界に生きており、末那識による何かへの執着が絶えずあり、阿頼耶識による影響を多分に受けていることに自覚的になることの大切さを改めて思った。「自覚」という言葉もまた仏教用語であり、「自分」という言葉も仏教用語なのだそうだ。「自ずから分ける」という意味での自分という言葉はまさにそうである。自我は自己と他者を分離させる形で自らの存在を成り立たせる。これに無自覚な時、私たちは常に自他との区別の中で生きることになり、それが種々の苦しみを生むことになる。自ずから分ける性質を持つ自我の性質に自覚的になるとき、少しずつ主客身分の自己認識・世界認識が実現されていくであろう。それは苦しみからの解放につながっていき、悟りへの歩みとなる。

今は寝ても覚めても唯識の研究に没頭しているわけだが、そのおかげで唯識思想の枠組みを通じて自分の内面世界を見ることができるようになってきている。というよりも、自然とそのような実践に取り組んでいる自分がいる。物理的な世界においても外を眺めたときに何が見えるかは、その人の識によるものなのだ。人によって同じ物を見ていてもその見え方が変わるというのはそのためなのだ。物質的な物だけではなく、物質性を持たない概念や考えについてもまた同じである。それらもまた私たちは自らの識の中で意味解釈をするのである。そこには意味の解釈に加えて、何かしらの感情が生じることもあるだろう。それもまた私たちの識が生み出すものなのだ。

自分の識の世界をつぶさに観察していくということ。この「観察」という言葉もまた仏教用語なのだが、そうした観察をするために唯識思想について深く学んでいき、同時に他者との対話に開かれていく形でもそれを実現させていきたい。唯識思想を学ぶことを通じて観察の道具が揃っていき、その道具を使った観察実践を日常ありとあらゆる場面で行っていく。また、対話は自らの識の世界を如実に映し出す最良の機会でもあるので、日頃の対話を自己観察の場として本当に大切にしたい。そして、対話を単なる自己観察の場として捉えるのではなく、それを超えて、自他の悟りにつなげていく実践であると位置付けたいものだ。フローニンゲン:2024/2/9(金)08:31

12082. 名づけ

私たちは言葉を通じてある対象を名付けることによって客体化し、名付けによってその対象存在を明らかにすることによって安心感を得る。ところが仮に対象が未だ名前を持たず、名付けを超えたものだった場合、そんな対象と私たちが出会った場合には大きな実存的恐怖が伴ったり、はたまた神聖な畏怖の念が自然と芽生える。神秘体験と括られるものには往々にしてそうした性質があるのではないかと思う。

明後日に迫った第26回のシロシビン・セッションに向けての準備は着実に整いつつある。前回のセッションの中では、名付けを超えた無数かつ巨大な存在者たちとの対面に驚いてしまい、恐怖を感じる自分がいた。まさに未だ名づけられてないない無数の存在者が眠る空的阿頼耶識世界に触れた体験であったと言える。サルトルの『嘔吐』で記述される体験もまた、名付けを超えた存在対象との出会いが引き起こしたものだったのだろう。前回のセッションにおける体験と学びがあったことによって、仮に第26回でも同種の知覚体験が現れたとしても恐怖を感じることはもうさほどないのではないかと思う。なぜなら、今こうして文章を書くことによって体験そのものには名付けが完了したからである。当然ながら、体験の中で湧き上がってくる存在対象は依然として名付けを超えたものが無数にあり、それらを全て名付けることは最初から不可能なのだが、そうであったとしても、とりあえず前回自分に巨大な実存的恐怖を引き起こした体験が何だったのかについてはこうして名付けをすることができたように思う。サイケデリクスを意識哲学の研究に活用していくためには、こうした名付けを逐一していかなければならない。そもそも哲学の営みの根幹及び本義は名付けなのである。まだ名づけられていない事象に対して名前を付与すること、さらには既存の名づけに不備があればそれを正していくことが哲学的な営みなのである。それを踏まえると、これからも引き続き自分は名付けを自らの実践に課したいと思う。そうした名付けを助けてくれるのが学問をするということであり、先人が残してくれた言葉を足がかりにしていくことなのだ。すでに名づけられた存在を足がかりにして、未だ名前の付けられていない存在者に名付けをしていくこと。それをとりわけサイケデリクスと日々の瞑想実践を道具立てとして意識哲学の分野で行い続けていきたいものである。フローニンゲン:2024/2/9(金)09:28

12083. サイケデリクスとエクスタシス及びエンスタシス/唯識と旅行

シャーマニズムがエクスタシスを通じた、すなわち自己脱却を通じて世界そのものと同一化する道ならば、ヨーガはエンスタシスを通じた、すなわち自己没入を通じて世界そのものと同一化する道だと言えるかもしれない。そしてサイケデリクスはいずれの道を歩むことも可能にする手段なのだという考えが芽生えた。前者の道は脱魂的なのであって、後者の道は入魂的なのである。毎回のサイケデリック実践では事前には読めないことが多々起こるので、明後日のセッションにおいてそれが脱魂的に働くのか、入魂的に働くのかは分からず、今後はこの辺りのコントロールができるように技術的習熟をしたいものである。脱魂と入魂を自由自在に行えるようになることを当面のサイケデリック・セッションの技術的目標に置いてみよう。

なるほど、自分がもはや物理的世界の旅行に対してさほど関心を抱かなくなったのは、唯識の言葉を借りれば、自分の心の世界を眺めていけば世界が知れると分かったからなのだと思う。もちろんこれからも時折旅に出かけていくことはあると思うが、その頻度は落ちるだろう。事実、これまでは毎月か少なくとも2ヶ月に1度は欧州のどこかの国や町に出かけていたところから、今はもう旅行に出かけることなく自宅で学術研究に没頭している自分がいる。その背後には、常に自分は自らの心を見つめるという旅をしているという感覚が色濃くなったからなのだという理由がありそうである。心を見つめることそのものが「旅としての行」、すなわち「旅行」なのである。そして内面世界にひとたび意識を向けてみると、そこには華厳の教えにあるように、無限の世界が展開されていくのである。しかもそれは刻一刻と表情を変えるものでもあり、内面世界の旅行は無限に豊かなものである。それに比べて、物理的世界を彷徨する旅は有限なものだと思う。当然ながら、物理的な世界を旅しながら内面に生起する事柄に意識を向ければ、それは無限に豊かな旅となるが、そこでも結局鍵なのは内面世界の存在なのであり、それを見つめることなのだ。唯識の教えに従えば、私たちの目に映る世界は識の投影に過ぎない。ゆえに物理的世界に旅に出かけ行ったとしても、そこで目に映るものは結局自分の内面世界の投影に過ぎないのである。であれば、わざわざ外に出かけていく必要はさほどなく、平素より自らの心を見つめることが即無限に広がりを持つ旅行となるのではないかと思う。なるほど自分は唯識を通じて、物理世界の国や町のほうぼうを巡ることをやめ、内面世界に展開される無限に広く深い世界を旅することを1つの行としたのだと思った。そのような気づきがやって来た。フローニンゲン:2024/2/9(金)10:27

12084. サイケデリクスと禅仏教・真言密教の態度の違い/
禅的な公案の対象としての夢

時刻は午後3時を迎えた。早朝より降っていた小雨が止み、穏やかな雰囲気の午後の世界が広がっている。もう少し読書をしたら、散歩がてら書籍の受け取りに出かけてこようと思う。先日注文した唯識関係の書籍が続々と所定の保管場所に到着したようなので、それらを受け取って明日から唯識関係の専門書を読めることが今から楽しみでならない。まさに唯識三昧である。

先ほど、サイケデリク体験と仏教各学派の考え方について考えていた。仏教には様々な学派があり、それらを網羅的に扱うことはしないが、大きく分けたらサイケデリクス体験に対して否定的な考え方を持つ学派と、サイケデリクス体験で立ち現れる知覚現象を積極的に活用していこうとする学派に二分されるように思えた。前者に関しては、まさに無を徹底的に説く禅仏教を挙げることができるだろう。鈴木大拙氏のサイケデリクスに対する態度については過去たびたび言及して来たように、基本的には禅仏教は最も厳しく有的な存在を扱い、無に対して厳格であろうとするので、サイケデリック体験を魔境とみなして戒める傾向がある。一方、サイケデリック体験を含め、意識の深みから生起するイメージや言葉を大切にする態度を持っているのは真言密教だろう。真言密教はまさにシャーマニズム的でもあり、サイケデリック的でもある。なるほど、“Secret Drugs of Buddhism”という書籍や“Psychedelic Buddhism”という書籍の中で言及されていたように、真言密教であればサイケデリクスの使用について肯定的な意味を見出す思想的な下地があるなと改めて思った次第である。日本では真言密教よりも禅仏教の方が馴染みが深いかと思うが、日本における真言密教の開祖である空海その人と思想への関心も依然として日本には存在しているため、真言密教とのつながりの観点からサイケデリクスを取り上げていくこともできるだろう。

そのようなことを考えた後に、毎日見る夢を分析や解釈の対象として見るのではなく、それを禅的な公案の対象として見てみるようにしてみようということについて考えていた。分析や解釈では逆に夢が開示するものに蓋をして抑圧してしまう可能性があるので、そうするのではなく、夢が持つ無限に豊穣な意味を羽ばたかせるように公案対象として接してみる。そうすると一体どのような変化が自分の内面世界の中に見られるかを観察してみたい。夢は自分の8織を深く知る本当に大事な存在であるとつくづく思う。フローニンゲン:2024/2/9(金)15:19

12085. シロシビン・マッシュルームの新たな栽培キットを購入して

自分の内側にある我欲としての探究欲。それはそれそのものとして善でも悪でもなく、その探究欲をもとにして自他の幸福を実現するという大欲に転化すれば善なる欲になるのではないだろうか。そのようなことを考えながら、探究欲を満たして自身を喜ばせてくれる大量の学術書を先ほど受け取って来た。書籍の受け取りをしたのは2箇所であり、その2箇所を訪れる前に行きつけのスマートショップに足を運んで、そこで新しいシロシビン・マッシュルームの栽培キットを購入した。前回購入したものは今5周目の収穫を終えようとしていて、冷蔵庫に保存しているマッシュルームは来週日本から来られる来客の方々へのセッションのために活用しようと思っている。そうしたことから、今週末のセルフセッションと来週のグループセッションを終えたら全てのマッシュルームを使い切ることになるので、ここから新しく栽培をすることにしたのである。先ほど自宅に帰って来て早速栽培キットを開封し、下準備をした。ここから10日から2週間後には最初の収穫ができるのではないかと思うので、次々回のセルフセッションにはなんとか間に合うかと思う。

今回購入したのは前回と異なる品種である。毎回新しい学びをしたいので、前回とは違う品種を試してみることにした次第だ。前回の栽培キットは“Golden Teacher”と呼ばれる商品名の“Psilocybe Azurescens”という品種であり、今回のものは“McKennaii”と呼ばれる商品名の栽培キットだが、品種は不明である。効力として“Psilocybe Azurescens”に匹敵するものを店員のサーシャに求めたところ、3つほど候補を教えてもらい、その中から今回のものを選んだ。その名前から分かるように、この商品はサイケデリクス研究の火付け役でもあったテレンス・マッケナにちなんで名付けられたものである。どうやら実験室で人工的に品種改良したものらしく、収穫量と効力が最大になるように開発されたものらしい。実際に摂取してみて“Psilocybe Azurescens”との体験の違いを知ることが今から楽しみである。

栽培キットを購入して嬉しい気分になりながら、街を歩きながら目にする世界は自分の心の姿を投影した世界なのだと自覚しながら唯識的観察者として書籍の受け取り場所に向かった。そこでは唯識に関する専門書をかなり大量に受け取り、持参したリュックサックには収まらず、トートバックにも書籍を入れて自宅に戻って来た。受け取った書籍の梱包をこれから解いていき、明日から没頭的に読書ができるような下準備をこちらに対しても行なっていきたいと思う。本当に毎日が幸せである。フローニンゲン:2024/2/9(金)16:54

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