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景色のコトダマ Vol.3 ナットウ文学

【4年前の書き置き】

コロナ自粛になって、自炊する機会が増えました。男二人兄弟。「男子厨房の入らず」の昭和の教育で育った私は、料理がほとんどできません。最近になってやっと、簡単な料理は作れるようになった。しかし、茹で卵の正しい茹で方をつい最近知ったほどの料理オンチです。

これは4年前、母が私の家から帰るときに残したメモ。

納豆、ネギ、ヨーグルト。鮭二匹、冷凍。フライパン 中火で焼く。玉子、黒酢もずく。サラダは体脂肪減る。噛んで食べる。小松菜、ゴマ、おかかをかけて食べてください。小松菜、チンでカボチャ、はやく食べる、頂いた品物は戸棚に入っています。ウィンナー、炒めて食べる。サラダにつけて。味噌汁は残ったら捨てる。味噌汁、野菜室の中。余ったらとっておかないで捨ててください。明日、楽しんでくるよ。

「明日、楽しんでくるよ」は、私の友人から頂いた歌舞伎のチケットで、観劇にいくことになっていました。当時は、当たり前のように見えたこのメモに、今は、母の躍動感を感じます。

【母は、リフレインする】

それでも私が、このメモを写真に収めたのには理由があります。当時、手紙の研究をしていて、野口英世の母シカの手紙を読んだあとでした。

「はやくきくたされ   はやくきてくたされ  いしよのたのみてありまする
にしさむいてわ  おかみ ひかしさむいてわおかみ しております   きたさむいてわおかみおります みなみたむいてわおかんておりまする」

字の書けなかった母が、一生懸命ひらがなで綴った手紙。これに心を打たれたすぐあとに母のメモを読んで、なんとなく写真を撮りたくなりました。

「残ったら捨てる」「余ったらとっておかないで捨ててください」

このリフレインが、どこか野口英世の母の手紙のように見えました。

「そうか、母親というものは、大切だと思うことを、何度もリフレインするんだな。だから、うるさく感じられるんだ」

そんなことを感じていたのでした。

【男子厨房に入ればよかった】

すでにシニア向けの施設に入ってしまった母。私は料理を自分ですることになりました。これまで、母が作ってくれたものを冷蔵庫から取り出して、温めたり、レンジに入れることを料理と思っていた私です。まずは包丁の握り方からネットで調べなければいけません。作ると必ず、味が濃い。心の中で「サービスしちゃえ!」と叫ぶ声がいつもあって、なんでもかんでも入れたがる。結果、味が濃すぎて食べられたもんじゃない。50も後半にきてこの始末。「男子厨房に入ればよかった」と嘆いてもあとの祭りです。いくらなんでも炒めすぎた野菜炒めを焼酎で流し、一人で夕食をとっている。人間、これくらい惨めなことはない。しみじみと寂しさがこみ上げてきます。こんな経験を、この歳で知る間抜けさよ。見方を変えれば、この年齢になるまで母の手料理を食べてこられた幸せよ。その双方が、野菜炒めにしみている。コロナ禍を、何よりも恨むのはこの瞬間なのです。

【文学は、あとから効いてくる】

文学の定義を、「心をゆさぶる読み物」とする。野口シカさんの手紙も立派な文学です。母のこの書き置きも、人にはただのメモ書きですが、私にとってはまぎれもない文学作品。「ナットウ文学」です。

チンでカボチャ、はやく食べる。ウィンナー、炒めて食べる。サラダにつけて。味噌汁は残ったら捨てる。味噌汁、野菜室の中。余ったらとっておかないで捨ててください。

という言葉。今になって、とてつもないものを毎日毎日毎日毎日、受け取っていたんだなと思う。当時は、ちっともわからなかった。

いやはや、文学は、あとから効いてくる。納豆、ネギ、ヨーグルトですら与謝野晶子も樋口一葉も凌駕する。そんなことにやっと気づき、明日は黒酢もずくとできあいのカボチャでも買ってくるか、と思うのでした。