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数学の黎明

 ぼくが高瀬正仁さんを知り、数学史について研究していくと、共感すると同時に「一体今まで何を教わってきたのだろう」と言う感情が湧いた。数学史というものに、中学や高校では触れない。数学史に精通している先生など普通は居ないからだ。そもそも、学校で教わる数学は名ばかりで、どれも計算ドリルの延長に過ぎない。あれでは数学とは何たるかが解るはずがない。かと言って、大学で数学を専攻しても、数学史に触れる機会は皆無である。なぜならば、現場の教員が数学を研究する上で数学史の必要性など皆無だから。現在の数学は集合の概念をベースに、公理と論理を巧みに組み合わせて構築されており、そこでは歴史や文化が全くと言っていいほど切り離されている。大学や教員がそうだから、普通に大学で数学を専攻しても、数学史に触れる機会は全然ないのが現実だ。ところが、今だから言えることだが、数学の実体は数学史に宿っているのである。そこにこそ、数学を勉強する醍醐味もまた詰まっているのだけれど、ともかく触れる機会が皆無であるから、これでは数学に苦手意識を持つ人が多く居ても不思議ではない。つまり、数学の教え方やカリキュラムに問題があるのではない。「数学史に触れる機会がない」という「教育の内容」に問題がある、ということをぼくは指摘したい。数学を教える立場にある人は特に、ほとんどの人は数学の醍醐味を全く知らないという事実を謙虚に受け止めて、新しく数学史を勉強して頂くことが必要であるとぼくは思っている。
 ただ、数学史なら何でもよいかと言うと、もちろんそんな事はない。肝心なのは、古典を読む時に現代の立場を脇に置くことができるかどうかに掛かっている。世間に出ている数学史の書物も、現代の立場に癒着して数学史を語っているものがまことに多い。数学史の場合、この癒着を剥がさなければならん。つまり、古の人々の心情に、ただ素直に耳を傾けること。それが、数学史を勉強する上で最上かつ唯一、必要なことである。本当にそれを実行している人は、指を数えるくらいしかぼくは知らない。高瀬正仁さんはその一人である。
 ここで、具体例を挙げよう。現代の数学に癒着した数学史として、よく語られるのが数学者「エヴァリスト・ガロア(1811-1832)」である。5次以上の代数方程式が解の公式を持たないと云う所謂「不可能の証明」を述べる際に必ず出てくる『ガロア理論』の、あのガロアである。数学史として、ガロアという人物は非常に面白い人間であり、ガロアの数学史を語ることそれ自体には問題がない。しかし、通常の(=現代の数学に癒着した)数学史がガロアを過大評価するあまり、現代の数学に関係のない部分の数学史を恣意的に削ぎ落として語る傾向があるのは否めない。大学の数学科で『ガロア理論』を勉強する際には、ガロアが生きた時代の歴史や文化に触れる事は一切なく、ただ抽象的な理論のみを教わる。歴史や文化は人文的な要素で数学には関係ない事だと思っているのだろうか。そうだとしたら、それは大きな間違いである。人文的要素を離れた数学は、もはや数学ではない。では、ガロアを取り巻く歴史と文化に誰が居たのかと言うと、その人物こそ数学の帝王たる「フリードリヒ・ガウス(1777-1855)」に他ならない。ここでは詳しく述べる余裕がないが、ガロアの着想(”群の概念”への着目)を支えた根源には、「代数方程式の代数的可解性は根の相互関係で定まる」という”ガウスの認識”がある。通常の書物を見ると、ガロア理論はガロアによって唐突に生み出されたかのような印象があり、その要因はと言うと、ガロアの天賦の才に帰着されられることが大半である。これで果たして、正しい数学史と言えるかどうか。だいぶ現代の数学の恣意性が反映された書き方だと言われても仕方がないと思う。そして、このように教えられる『ガロア理論』は、論理的に理解はできても、面白さは微塵も感じられないのである。この抽象性が、大学の数学は哲学であると言われる所以だと思う。
 それに、極め付けは「ニールス・アーベル(1802-1829)」の評価が通常、低いことが挙げられる。ぼくも高瀬正仁さんを通して数学史を勉強するまでは、アーベルの偉大さをほとんど知らなかった。ぼくの中で衝撃を受けたうちの屈指のトピックが、このアーベルの数学史である。数学史上、ガウスを理解した人物はガロアともう一人居て、それがアーベルである(そしてこの二人のみ)。もともと、「不可能の証明」は「アーベルの定理」と呼ばれており、この定理を最初に証明したのはガロアではなくアーベルである。にも関わらず、アーベルの証明方法が取り上げられる事は皆無である。やはりここでも、大きな恣意性が感じられる。その気になる証明方法は、高瀬正仁さんの著書に書かれているので気になる方はチェックされるとよいと思う。この証明方法には具象性がある。つまり、アーベル固有の企画(ビジョン)があり、それを引き継いだ数学者として「レオポルト・クロネッカー(1823-1891)」が居る。ところが、肝心のクロネッカーの数学史は研究があまり進んでおらず、未だに神秘のベールに包まれている。それも、従来の歪んだ数学史の後遺症である。今後、正しい数学史が形成され、研究が進んでいけばアーベルやクロネッカーの数学史についても詳しい研究が為されると期待する。
 つまり、現代に於いては数学の醍醐味(面白さ)は失われたも同然である。このまま行くと、数学は人情を失くし滅んでしまう。いきなりこんなことを言われても、ほとんどの人は信じないか、もしくは理解が出来ないだろうと思う。しかし、ぼくは本気で危惧している。これは、数学だけの問題では決してない。数学というたった一つの小さな歴史・文化かもしれないけれども、そこから《人情が失くなる》という事件が起ころうとしている。これがこのまま仮に本当に起こったとしたら、どうなるだろうか。小さなマッチの火は、薪へ燃え移ることで次第に大きな火へと変容する。ぼくが懸念しているのはそういう事態である。今後、あらゆる歴史・文化が数学と同様の事件に陥る危険性がある。そうならない為にも、ぼくたちは数学から人情を取り戻すように数学史へ懸命に取り組み、古の人々の心情に、ただ素直に耳を傾けることが求められる。計算が早いとか遅いとか、そんなどうでもいいことを言っている場合ではない。これは緊急事態なのだ。決して、人情を忘れてはいけない。日本以外は、もう既に数学から人情を捨て始めている。日本は”最後の砦”なのだ。「高木貞治(1875-1960)」や「岡潔(1901-1978)」が提示した抽象化の問題は、微かな一途の望みである。小さなマッチの火は、やがて大きな火になりかねない。その意味を、一人ひとりがよくよく、考えて欲しいと願う。

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