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結婚とは個の死だ

、と思っている。
どれだけ考えても今の私の中での答えはこれ。後ろ向きというわけではなくただ事実という感じ。
相手が誰であろうが変わらない。1人の時にしか主体的でいられない私みたいなのは尚更。

そもそも結婚に華やかなイメージを押し付けること自体が狂ってるよなと最近よく思う。
夢を見ている人には水を差すようで悪いが、結婚っていちばん現実的に考えないといけないことだと私は思っているし、同じ現実を生きられる人かどうかを互いに見極める必要がある。

1人の方が気楽で、自由で、快適で、自分のタイミングで切り替えができて、何にも怒らずに過ごせる。そんなことは考えなくても分かる。
それでも私は「1番に互いが思い浮かぶ揺るがない相手」のいる生活がいいと思った。

5年ほど借りた部屋を離れて、何となく察している人もいるかもしれないけど、1人の暮らしではなくなった。
やっと荷解きが落ち着き始めたものの、キッチンのレイアウトがなかなか決まらなかったり毎日帰りが遅かったりでほとんど自炊ができないこの頃。
むしろ同居人の方が家のことをしてくれているので、帰ってご飯を作れない自分を必要以上に責めてしまって嫌になったりもする。

最近1人になるとこんなことばっかり考える。
妻は家のことをするのが当然で、何もしないと「だらしない」「気が利かない」みたいな評価になるけど、旦那はたまにやるだけでも「いい人」「なかなかそんな人いない」と褒めちぎられる。よくある話。
私は女で良かったと思っているし、男には男の大変なことが山ほどあるので女の不利だけをわあわあ主張するつもりはないが、ただどうしても、生活に関する何もかもがマイナススタートになるのが嫌で仕様がない。

自転車にベビー椅子を付けてスーツ姿で走り抜ける男性を見て、私は「いい旦那さんだな」と思ってしまった。
自転車にベビー椅子を付けて走る女性を見たって、それがたとえ毎日仕事しながら家事育児をこなしている人であったとしても「いい奥さんだな」なんて発想は初見で出てこない。
世論だけではない。自分の中にさえも、こんなに偏った見方が植え付けられてしまっている。いやだ〜

兄弟に挟まれて男同然に育った私は、都合の良い時だけ「女の子なんだから」と家庭力を求められることに戸惑った。
仕事と家庭と、どちらも責任を持ち続けなければならない状況が幸せだなんてとても想像できない。
子どものことを考えるとして、「仕事ができなくなる」「収入が減る」「体調が変動する」「環境を変えざるを得ない」この怖さを、なぜ片方だけが背負わないといけないんだろう。それが当然と思われるのが本当にいやだ。せめてパートナーは同じレベルでその危機感について配慮するのが普通だと思う。

私の母は典型的な「家庭のために生きる」タイプで、すすんで主体性を捨てて家庭に尽くす、献身の権化みたいな人だ。
生活力の無さから来る不安でぐちゃぐちゃになっていた時に「私は母みたいにはなれない」と泣きながら電話したことがある。なれないというか、なりたくない。あんなに自分を追いやって20年も30年も生きるなんてぜったいに無理。でもそういう生き方を見て育ったんだから、そう簡単に先入観は変えられない。
「自己を確立しながら家庭を回している人は沢山いる」と言いたい人もいるだろうけど、そんな話がしたいのではない。少なくとも私にとっては、共同生活で自分の内向的な部分を大事にするのは大変難しく感じられるのです。
結婚や育児に対して、個を殺されるような不安感を抱いている人はどのくらいいるんだろうか。

結局私は年齢と性別の圧に押されて、戦いもしないで一度死ぬ。
そうぼやいた時に、
「社会的な同調圧力や世間一般との比較で貴女の魅力が奪われかけている。そんなものに負けないで。」と返してきた人がいる。
私の魅力ってなんだ?社会に適応しようともがいたら死んでしまうようなものなのか??
同居人はいつも私に「もっと尖ったままでいて」と言うけど、尖ったまま現実の世界を生きることがどれほど困難なのかをもっと慮ってくれと口酸っぱく頼んでいる。

起きたまま夢を見られないのと同じくらい、結婚と自己表現が結びつかない。
死んだ後思い通りに再生できる保証はない。
でもこの死を良い方に作用させられる気もしているし、何なら今が死に時かもなという直感もある。だから聞こえはすごく物騒なんだけど、それほど悲観的でもないんです。

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そういえば先日
「男性は孤独に強い」というような記事を見かけて少し憤慨した。
相手の年齢や時間を思い遣ることをせず、自分より立場の弱い人間を選んで寂しさを埋めようとするような者は、一生独りでラーメンを食べているといいと思いました。
ラーメンに罪はありません。

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