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言葉の宝箱 1033【ひとが存在するはかなさの本質をとらえた一言半句を持たない作品はあっけなく風化する】

山行記

『山行記』南木佳士(山と渓谷社2011/4/3)

芥川賞受賞の翌年に心身を病んだ作家は50歳になり山歩きを始めた。
樹木の香りで精神が安定し、
歩くことで身体本来の働きに目覚めた作家は蓼科山、浅間山から、ついには槍ヶ岳、白峰三山といった南北アルプスの高峰を若者に混じり踏破する。
人生を重ねた者が己の身体と心で書いた異色の紀行文集。

・心身の病はそれまでの生活習慣の修正をうながす、からだからの、
つまりは内なる自然からの重大なメッセージであると痛感させられた。
身の周辺のすべての事象はじぶんでコントロールできると思いあがった脳がいったん強制的に初期化された感じで、
病んでいた期間の記憶はほとんどない。
ゆえに、まっさらになった脳は五感のセンサーから入力される
情報を素直に出力に変換してからだの各部に指令を送るという、
原初の働きにもどって活動を再開せざるをえなかったのだ。
そういう生きのびるうえでの最重大事を体験し終えたとき、(略)
休日登山を始めた。
晴れた日の午前の針葉樹林の香りが、
それまで服用したあまたの精神安定剤よりもはるかに深く
心身をリラックスさせてくれる作用があるのを知ったのも、
山にのめりこんだ大きな理由だった。
岩をつかんで登るとき、
手指とはキーボードをたたくために備わっているのではなく、
本来こういう用い方をするものだったのだと悟り、
下り路で石車に乗らないように足もとを注視していると、
これまでまったく使われなかった
脳の一部がフルに活動しているのがリアルに体感できた P10

・花畑、濃すぎる青空、灰白色の岩稜、雷鳥……。
ふだん暮らしているのとはまったく異質な環境にさらされたからだが、
歩くにしたがって、
本来あるべき場所を見つけたかのように外に向かって開いてゆく。
風が身の内を吹きぬけてゆく。
ゼロになるからだ、というアニメ映画のテーマソングの詞があったけれど、こんな感じなのかなあ、と表現の巧みさに感心する。
歌でも小説でも、永遠の相の下にひとが存在するはかなさの本質をとらえた一言半句を持たない作品はあっけなく風化するのだ P38

・パニック障害やうつ病にとりつかれる前の夫もはしゃぎ好きで傲慢なところがあった。
元気になるとひとはまたこんなふうに態度が大きくなってしまうのか。
喉もと過ぎて熱さを忘れたやつは、
もう一度さらに大きなやけどを負わないと懲りないものか。
ばかは死ななきゃ治らないとは、つまるところそういう意味だったのか。
ばかやろー、だれのおかげで元気になれたんだ。生きのびれたんだ。
大声で罵声をあびせられたら
どんなにすっきりするだろうと思ったりもするが、
それをしたら夫婦のあいだはあっけなく終わってしまいそうだ。
どんな夫婦も板子一枚下は地獄。
言葉は船底の薄い板を音もなく割る鋭い刃の斧。
齢を重ねるとはこういう大事を
いつのまにか寂しく知りつくすことなのだと諒解できる歳になった。
更年期のせいなのか、最近、気持ちがふさぐ。
夕方になると急にわけもなく涙が出る P70

・夫の憂鬱を受け止めていたときは平気だったのに、
彼が元気になったらこちらが憂鬱になる P73

・妻が、
じぶんがここにいることそのものがたまらなく不安だ、と言い始めたとき、おなじセリフを十年以上前から
数えきれないくらい口にしてきたのをありありと想起した。
そんなとき、彼女は理屈を言わず、ただ黙って聴いてくれた。
いま、聴く身になってみると、おなじ屋根の下で、
身近な他者の心身の不調の訴えに
静かに耳を傾けるという行為がいかに大変な作業かよくわかる。
この身が存在していること自体が不安なとき、
その愁いを言葉の舟に乗せて押し流してやると、
不安感はほんのわずかだけれど身をはなれてくれる。
だから、相手にはただそっとそちら側に
舟を留め置くように聴いて欲しいだけなのであり、
安易なうなずきやありきたりの意見は求めない。
不安だと訴える
「わたし」の言葉を真贄に受け止めてくれるひとがいるとき、
「わたし」はかろうじて
訴える者としての存在を許されるきがするのだ P74

・意識しないようにと意識してしまうのは自意識過剰な者の常であり、
過剰な自意識をもてあまさず、
平穏無事に暮らせる作家なんているはずない P114

・後悔する身体が歩いている。
種田山頭火の句に、
どうしようもないわたしが歩いてゐる、というのがあった P130

・どんなに遠くへ旅したところで、そこはあなたの内部の辺縁にすぎない。こんな殺し文句が出てきたのは桐野夏生の小説だったか P160

・ハードな山行では、歩いているうちに、
ふだんの生活ではある程度確実に把握できていたはずの
「わたし」の輪郭が次第におぼろげになってくる。
息を荒くし、汗をしたたらせているこのからだこそが「わたし」であり、
それは休憩時に小さなおにぎりを口にしただけで
にわかに元気をとりもどす、
きわめて単純な存在なのだと気づかされたときのうれしさは忘れないが、
それ以上に酷使されたからだは次第に山の気のなかに溶け出してゆく。
この、山に向かって開かれた「わたし」が実在感を失い、
かぎりなく無になってゆく感覚が「悟りの境地」に似るゆえ、
山は古くから修行の場でもあったのだろう。
ただ、下界に還らねばならぬ身には傾斜してばかりではいられない。
溶けたからだを寄せ集め、濃縮、再生し、
俗世仕様にもどさねばならない P176

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