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命がけで海外に渡った人たち⑨ 天正遣欧少年使節 430年前の戦国時代に欧州を学んだ4人の少年

調べれば調べるほど、興味がわきます。

いまから400年以上も前に、10代の少年がヨーロッパにいって、現地で指導者たちと面会する。日本の歴史も、そんな勇気と好奇心にあふれた若者たちがいたのですね。

歴史の教科書にも出てくる天正遣欧少年使節は、1582年に九州のキリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠によって派遣された使節団です。

ヨーロッパに公式に派遣され、文化交流の記録を残した日本初の試みでした。4人の少年がそのメンバーとして選ばれました。

「伊東マンショ」「千々石ミゲル」「原マルティノ」「中浦ジュリアン」。出発時点で10代前半の若さでした。

彼らを送ったとされる1人が、大村宗麟(おおむらそうりん)です。(大村宗麟は知らなかったという説もあるようです)

戦国時代から江戸時代初期の武士であり、キリシタンでもありました。

豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の北九州6か国の守護を兼ね、大友氏を北九州最大の勢力に成長させました。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/singen2.htm

大村宗麟はキリスト教に入信し、洗礼名はフランシスコといいます。彼はキリシタン大名として知られていますが、受洗は隠居後に行われました。

宗麟がキリシタンに入信した理由は、はっきり分かりませんが、いくつか考えられます。

まずは南蛮貿易です。外国からの軍需品や技術を取り入れて富国強兵を目指すことです。
キリスト教を信仰することで、南蛮貿易を円滑に進めることができました。

キリスト教を信仰することで、外国との友好関係をはかり、技術や文化を取り入れることを狙ったのかも知れません。

たぶんに実利的な理由もあったのでしょう。宗麟はキリスト教の布教を許可し、キリスト教の宣教師を保護しました。

宗麟の子孫は、細川家や島津家などに繋がっています。

少し脱線してしまいましたが、天正遣欧少年使節はどんな旅をしたのでしょうか?

天正10年(1582)に天正少年遣欧使節団として長崎を出港しました。船酔いと転覆の恐ろしさ、船中が40度にもなり、食物が腐ったこと、水葬した遺体の浮上など、長く苦しい航海でありました。到着したマカオでは、9ヶ月滞在した間に見聞を広め、語学や音楽を集中して学習しました。
  天正11年(1583)1月、マラッカに到着し、赤痢と熱病が船内にはびこり始め、マンショが倒れました。瀕死の重体をヴァリニャーノが必死に看病し回復しました。このような苦難を乗り越えてインドに着いたのは長崎を発って2年半後、イタリアには3年後に到着。4年後に帰路に着き、長崎に帰り着いたのは8年の年月を経過しており、マンショは、21歳の若者になっていました。

https://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/unit/hito_24/page2.html

天正遣欧少年使節 大村からイタリアまで3年
現在、長崎ーローマ間 乗り換え込みで約16時間


少年の1人、千々石ミゲルは、「天正年間遣欧使節見聞対話録」(東洋文庫)の中で、こう振り返っています。

「船暈は重苦しく、頭を抑え胃を虐み、そのため、この時には何よりも食事ほど嫌なものはなくなってくる。いやそればかりではない、胃や内臓のいろいろのところから液汁が出てきて、悩みの特にひどい時には、液汁ばかりか、五臓六腑も吐き出されるのではないかと思われた」


天正年間遣欧使節見聞対話録


http://old.omura.itours.travel/02history/history01-02.html

1582年に派遣された4名の少年は、以下の目的を持っていました。

まずはローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に、日本の宣教の支援を依頼すること。
日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光や偉大さを語らせ、布教に役立てることです。

簡単に言えば東洋の国にも、信者がいるよ、気にかけてくださいね、と伝えることですね。

実際に、ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられました。さらにシクストゥス5世の戴冠式に出席し、ローマの文化や宗教を体験しています。

ポルトガル、スペイン、トスカーナ大公国などを訪れ、王宮や舞踏会に参加しました。インドのゴアでは感謝の演説を行い、西洋人たちを驚かせました。

使節団が持ち帰ったものの中には、グーテンベルク印刷機もありました。

日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれました。日本の文化発展に大きな貢献をしました。

1590年に長崎に帰港し、日本での布教活動を続けました。全国各地で自分たちの体験も伝えました。

4人の少年たちは、それぞれ異なる運命をたどりました。伊東マンショは布教に身を捧げ、千々石ミゲルは棄教し、中浦ジュリアンは壮絶な殉教を遂げ、原マルティノは語学を生かして活動しました。

信仰を放棄した千々石ミゲル(ちぢわ みげる、Miguel、永禄12年〈1569年〉? - 寛永9年12月14日〈1633年1月23日〉?)が気になります。4人の中で唯一棄教し、キリスト教を弾圧する側に回ったからです。

ミゲルは洗礼名で、本名は千々石紀員(ちぢわ のりかず)でした。棄教後は千々石清左衛門(ちぢわ せいざえもん)と名乗りました。

棄教の理由ははっきりしませんが、イエズス会の宣教方法に疑問を抱いていたとも言われます。

最近の発掘調査で、ミゲルの墓の特定に向けた調査が行われ、ミゲルや妻とみられる骨が発見されました。すごい!!

これにより、ミゲルが本当に棄教したのかが明らかになることが期待されています。4人の旅は、訪問先のヨーロッパにはたくさん残っていますが、肝心の日本にはあまりありません。

最新科学の力で、何か新たな発見があるかもしれません。
下のサイトに、たっぷり情報が詰まっています。


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