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映画の朝ごはん、という映画のこと


 2023年1月の午前5時、yojikとwanda(とコントラバスプレイヤーの服部将典氏)は新宿郵便局の街角に立って真冬の気温に震えていました。
 「映画の朝ごはん」という、志子田勇監督のドキュメンタリー映画に出演するためです。あのときはまだ、どんなものを撮っているのか、どんな作品ができるのか、よくわかってはいませんでした。
 わかっていたのは、この日の撮影がもろもろの事情により、一発どりなのでやり直しができないということで、そんなん素人にやらせますか、、ていうかこれドキュメンタリーじゃなかったっけ、、。あれ、考えたらドキュメンタリーってぜんぶ役者じゃなくて素人を撮る一発どりだよな?? でも、やることを指定されてやるものだっけ? ドキュメンタリーってそもそもなんなんだ?? (そのあたりの解説は一応ネタバレといわれるものに当たるかと思うので控えておきます)
 ともかくひとつだけ安心していたのは、撮影に特に演技は必要でないということでした。
 そうして無事に撮影を終えて、太陽の光がわずかながら新宿を温め始めるなか、おにぎりが二つとからあげ(またはゆで卵)、たくあんの入った透明パックをいただき、yojikとwanda(と服部氏)はそこで初めて「ポパイ」の味というものを知ったのでした。

 この作品は、映画やドラマなどの制作現場でファンの多い「ポパイ」のいわゆる「おにぎり弁当」といわれるロケ弁がどのように作られているか、を縦軸に、映画制作に関わる人々の悲喜こもごもが横軸となって描かれていきます。それこそ裏の裏までさらしてもいるので、もしかするとエンターテイメントに対する夢をぶち壊す部分もあるかもしれません。普段表には出てこない場所で働く人々、その動き、表情、発言、そして人生が、これでもかとたたみかけてきます。

「あ、あれは……」。どこかで見た表情、どこかで聞いたやりとり、いたたまれない感情、何気なくかわした吹き出しちゃうような会話。これ知っている。見たことがある。見ているうち次第に、竹山君に、守田さんに、鈴木社長に、二ツ矢さん親子に、長髪の加藤さんに、プロデューサーの福田さんに、自分や自分の身内や友人の姿を重ね合わせてしまうのです。いつか見た景色であり、これから自分が見るかもしれない景色です。
 私は編集でどんどん変わっていく試写をなんども見せていただいていたせいか、この映画の登場人物への思い入れがちょっと深くなりすぎているかもしれません(監督ほどではないはず…)。

 私たち yojikとwandaは、今回のこの映画の音楽と、主題歌、エンディング曲を担当しました。
 監督からの最初のオーダーは、yojikとwandaの「I Love You」という楽曲を使いたいという相談でした。それは監督の中で、すでに発表済みの曲を、映画のここにこのように使いたい、というのがはっきりと決まっていたからでした。このようなことは珍しいのかもしれません。しかも、劇映画ではなく、ドキュメンタリーにです。
 当初、ドキュメンタリー作品にこの曲が使えるのか、どんな作用を及ぼすのか、少しの戸惑いがありました。劇映画の主題歌みたいなものならイメージできるのですが、ドキュメンタリーに主題歌が必要な場面とはなんなのか、イメージできていなかったからです。
 が、監督からその意図をうかがい、イメージを共有してもらい、その試みが非常に新鮮で面白いということを理解し、この曲が何かの映画に使われるならこれがベストなのではないか、とも思えるまでに至りました。

 そして、自分たちの曲がそのようなイメージで使われるのなら、この映画全体の音に関しても直接的にかかわりたい、ということを最初の打ち合わせでお願いしました。まあ映像作品での音楽制作が初めてだというのによく言うものだと自分でも思いますが、なぜかこれは必ずできるという妙な確信がありました。ありがたいことに監督とプロデューサー両氏にご快諾いただき、そこから「映画の朝ごはん」という作品への音楽づくりがスタートしていったのでした。

 最初のラッシュ(撮影したものの荒い編集)は3時間を超えていたと思います。何がしたいのかはなんとなくわかっていますが、それはまだ膨大な情報が混ざり合う状態でした。つないでは試写、という繰り返しのなかで驚いたのは、そのたびにダイナミックに作品が変動していったことでした。
 自分も小さな規模ではありますが、人を取材して記事を書く仕事をすることがあるので、ノンフィクションが劇作品と違って、無駄になるかもしれない多くの素材を集めることが必要なことを知っています。荒くつながれた3時間の後ろにさらに山のような素材が眠っているのだろうなあと思い、監督のここからの作業を思うとクラクラとしました。何を残すか、というより何を捨てるか、に身を切られる思いだろうなあ、と。
 が、その編集こそが、ドキュメンタリー作品が作家の眼というフィルターを通すキモの作業なわけで、それなしに作品は成立しないのですから、音楽担当の我々は編集が終わるのをひたすら待つだけでした。これが劇映画であれば、どんなに途中で変更があるといっても、脚本というよすがが厳然とあります。待つあいだにも、脚本を読み込んでイメージの試行錯誤ができますが、ドキュメンタリーは、編集段階でその方向性さえひっくり返すことが理屈としては可能で、編集のたびに脚本は常に書き換えられている、と思うとけっこう気が気ではありませんでした。

 結果的に、自分はその作品の編集による変化をとても楽しめました。みるたびに、薄い鉛筆の下書きだった人物が、だんだんとしっかりとした線を描かれ、色がつけられていきました。でも、どんなに編集がソリッドになっていっても、ときには登場人物が、パッとまた鉛筆描きのたよりない線に戻ってしまうことがある。それは、いかに監督が編集をほどこしてもこぼれ落ちる、生々しい人間の一貫性のない心の動きをうつしていたように思います。カメラを向けられて自分そのままでいられる人なんていないと思うし、その人の本当や嘘が混ざり合って画面に現れることが、ドキュメンタリーの本当にワクワクするところなのかも……そんなことを感じました。

 もうひとつ、このバックヤードの地味な営みをとらえた作品がなぜこんなに面白いんだろうと考えたとき、あ、これは「仕事」という得体の知れないものの工場見学なんじゃないか? と気づきました。工場見学って、どこに行ってもものすごく楽しい(くないですか?)。それって「へええ!」がつまっているからですよね。お弁当制作も映画制作も、完成品に至るまでに誰がどのように関わっているかを知ることは、知らない世界をのぞきたい野次馬根性とはいえ、大きく見れば社会と自分のつながりどころをつかむ、社会科的工場見学体験でもあるのかなと思ったのです。
 あらゆる仕事にある、9割の見えない部分。この映画を制作する側にもその9割があり、製作、撮影、録音、整音などなど、仕事の裏側をのぞくスタッフの皆さんの、そのまた裏側を見る不思議な感覚がありました。
 みんな一生懸命ならすべてOKなんて思えるほど簡単ではないし、実際すべての現場は汚くも美しくもありですが、どちらにせよそれを第三者が目の前の事実だけで裁くことなんてできるのだろうか、という複雑な思いを持ち続けたまま、ドライとウエットのあいだを漂いながら、愛すべき人々に寄り添う音楽をwandaと模索していった感じです。

 あ、結局映画の感想になってしまいました。他に覚書で残したいことがあればまた続きを書きます。
 これから全国での上映も始まると思います。たくさんの方に、おにぎりが食べたくなる魔法がかかって、日本中のおにぎりやさんの売上にも貢献するといいなあ。
 最後まで読んでくださってありがとうございます。

2023,12,4 yojik記

「映画の朝ごはん」公式サイト

 





 





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