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寺山修司の詩「五月の詩」―きらめく季節に

昔、川崎洋編の『あなたにおくる世界の名詩3 四季のうた』で、寺山修司の「五月の詩」を知った。わからないところだらけだったが、くらくらっとなるほどに惹かれた。

いつかいろんな本の解説を読んで、ちゃんと詩全体を理解したいものだ、と思った。

でもこの詩を解説した本が見つからない。しかたがないので、強引に解釈してみることにした。

■寺山修司「五月のうた

 きらめく季節に
 たれがあの帆を歌ったか
 つかのまの僕に
 過ぎてゆく時よ

夏休みよ さようなら
僕の少年よ さようなら
ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
雲雀ひばりの血のにじんだそれらの歳月たち
萌ゆる雑木ぞうきは僕のなかにむせんだ
僕は知る 風のひかりのなかで
僕はもう花ばなを歌わないだろう
僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう
春の水を祖国とよんで 旅立った友らのことを
そうして僕が知らない僕の新しい血について
僕は林で考えるだろう
木苺きいちごよ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
さようなら

 きらめく季節に
 たれがあの帆を歌ったか
 つかのまの僕に
 過ぎてゆく時よ

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した

(『われに五月を』日本図書センター)

■語句

題名:五月の詩――「詩」は「し」と読むのか、あるいは「うた」と読むのか。仮名は振られてないものが多いが、川崎洋編『あなたにおくる世界の名詩3』だけは「うた」と振っている。「し」はあまりにも短い音で聞き取りにくいし、意味も通りにくい。「うた」がいいと思う。

むせんだ――「むせぶ、むせる」より。息苦しくなって咳込む。

二十才――「にじゅっさい」と読むのか、「はたち」と読むのか。川崎洋編『あなたにおくる世界の名詩3』にも振り仮名はない。

雑木――「ぞうき」と読むのか、あるいは「ぞうぼく」「ざつぼく」か。川崎洋編『あなたにおくる世界の名詩3』では「ぞうき」と振られている。寺山の歌に、「むせぶごとく萌ゆる雑木の林にて友よ多喜二の詩を口ずさめ」がある(★1)が、ここでは「ぞうき」と読むのだろう。「もゆるぞうきの」で七音だからだ。だから「五月の詩」の「雑木」も、「ぞうき」と読むのがいいと思う。

■解釈

この詩は独立した詩として書かれたものではなく、寺山修司の第一作品集『われに五月を』の巻頭に「序詞じょし」として置かれている詩だ。いわば作品集の「まえがき」となっている。収録された作品と関連づけないとわからないところが多い。

以下、少しずつ引用しながら、詳しく見ていこう。

◆第1連

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ

きらめく季節――新緑の季節、五月のこと。

たれがあの帆を歌ったか――帆は大海原へと出ていく船・ヨットを表わす。「たれが(だれが)~か」で反語となっている。全体で、「大海原へと出ていく船のことを歌った詩人はいるだろうか、いや誰もいない」の意。まだ誰も踏み入ったことのない未知の世界を自分はこれから開拓していくのだという、自負心あふれる強い思いが反語で表現されている。

つかのまの僕に――自分という存在は、確固とした不動のものではなく、「つかのまの」存在であるという自覚。

過ぎてゆく時よ――「つかのまの僕」は、時の全体的な流れの中では自分という存在は一瞬のものであることを表現するものだったが、ここでは逆に、自分の側から見た時の流れの速さを表現している。

「つかのまの僕に」と「過ぎてゆく時よ」は、ネフローゼで生死の境をさまよった寺山修司の思いを反映しているだろう。

全体として、「きらめく季節五月に、大海原に出立していくヨットのことを歌った詩人はいるだろうか。まだ見ぬ世界を切り開いていった詩人はいるだろうか。いや、誰もいない。自分こそがこれからそれを歌うのだ。人生は一瞬だ。時はどんどん過ぎてゆく。でも僕は未知の世界に向かって進んでいくのだ」となるか。

◆第2連

夏休みよ さようなら
僕の少年よ さようなら

「夏休み」や「少年」は寺山修司の歌でしばしば使われた語。

「夏休み」という語自体は『われに五月を』にそんなに多いわけではないが、「麦藁帽子」や昆虫採集などのモチーフもそこには含まれるだろう。

「少年」という語は寺山修司の歌には頻出する。それは自分を仮託したものだ。だが今、「僕」は「少年」に別れを告げ、大人になろうとする。「さようなら」が繰り返される。

ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ

「ひとりの空」は孤独を思わせる。「ひとつの季節だけ」は変わることのない世界か。冬をイメージさせる。少年時には、孤独ではあるが純粋な世界を守ることが大事だった。しかし純粋な世界は、いつも同じ世界、単調な世界でもある。

重たい本 すこし

『われに五月を』には、ラディゲ、アラゴン、ジャン・コクトー、ロマン・ロランなどのフランスの作家や詩人の名前、またツルゲーネフやチェーホフなどのロシアの作家の名前、さらにドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの名前などが出てくる。長編小説もあって、それらは「重たい本」だ。そして本の世界は純粋ではあるが、実生活ではない。

雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち

「雲雀」もまた寺山の歌のお気に入りのモチーフ。『われに五月を』には、「落ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓よりのぞく」などがある。また「雲雀の血」は、『われに五月』を出版したのと同じ月に『短歌』誌上に発表した「雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌」に使われた表現。「血のにじんだ」は少年時代の苦しみを象徴しているだろう。

萌ゆる雑木ぞうきは僕のなかにむせんだ

「萌ゆる雑木」は五月と関連。春がめざめ、木々が萌える季節になって、もはや「少年」の純粋さの中には生きられないことを「むせぶ」と表現している。『空には本』の「チエホフ祭」の短歌「むせぶごとく萌ゆる雑木の林にて友よ多喜二の詩を口ずさめ」も同じモチーフを使っている。

僕は知る 風のひかりのなかで
僕はもう花ばなを歌わないだろう
僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう

「風のひかり」は五月と関連。

「花ばな」「小鳥」「ランプ」は、寺山がこれまで歌った歌のモチーフ。『われに五月を』に出てくる。なかでも「小鳥」は頻出する。

もうそのようなモチーフを使った歌は詠むことはないと宣言する。

春の水を祖国とよんで 旅立った友らのことを

『われに五月を』の「祖国喪失」の章では、アラゴンの「五月に死んだ友だちのため/これからはただ彼らのために」というアラゴンの言葉がエピグラムとして引いてある。(本当にアラゴンの言葉かどうかは知らない。)

「祖国喪失」の最初の歌は、寺山のもっとも有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」だ。

「祖国」のために死んでいった友達――想像上の友達か――の歌を歌うことももはやないと「僕」は宣言する。

そうして僕が知らない僕の新しい血について
僕は林で考えるだろう

「僕が知らない僕の新しい血」とは、新しい血を持った自分、未知の自分のこと。自分がこれからの人生で何をするのか。自分は何を実現していく人間なのかを、「林」の中で、つまり新緑の樹々の中を歩きながら考えるだろう。「林」は「萌ゆる雑木」と関連。

木苺(きいちご)よ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
さようなら

「木苺」もまたこれまでの寺山の創作のモチーフなのだろう。『われに五月を』では、「木苺や遠く日あたる故郷人」という句に使われていた。他にもあるかもしれない。

「寮」はよくわからない。「寄宿舎に少女を訪わむポケットに汗ばむ甲虫にぎりしめ」という歌の「寄宿舎」のことだろうか。あるいは、寺山が腎臓病で入院する前、日曜日ごとに息子を訪れた母親の暮らす寮――当時母親は立川市の米軍キャンプで働いていた――を指しているのだろうか。

「傷をもたない僕の青春よ」――寺山の初期歌篇は「無傷の青春」と呼ばれた。「傷」のない青春とは、戦争の傷を負っていないということだ。塚本邦雄によれば、「お仕着せの、安易なキャッチ・フレーズを、彼(=寺山修司)は苦々しげに舌打ちしつつ、しかも甘受していた」(★2)ようだ。

これらすべてのものに、つまり、自分がこれまで歌ってきた歌と、それに表現された少年の日々に、「さようなら」と別れを告げる。

◆第3連

第1連の繰り返し。

◆第4連

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した

う~む。この第4連がすばらしい!

「二十才」は「にじゅっさい」と読むのか、「はたち」と読むのか。「はたち」より「にじゅっさい」の方がきりっとしている。決意を述べるのにふさわしい。「にじゅっさい」と読んでおくことにする。

「僕は五月に誕生した」とあるが、寺山修司は12月生まれ。ここはこの詩を書いている架空の詩人「僕」が5月生まれということだ。

「僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる」――「の葉」は、樹木の下に落ちている古い木の葉。つまり、過去。「若い樹木たち」は今、緑の若葉を出している新しい世界。

「いまこそ時」――何の「時」か。本当の自分を表現していく「時」、本当の自分のするべき仕事をしていく「時」だ。(★3)

「僕は僕の季節の入口で」――「僕」にとってこれまでは「ひとつの季節」しかなかった。それは灰色のモノトーンの季節だった。だが、今僕に新しい世界が開けようとしている。僕はその「入口」に立っている。

「はにかみながら」――新しい世界に加わるときの「はにかみ」だ。う~む、寺山修司の表情を彷彿とさせるなあ。

「鳥たちへ/手をあげてみる」――新しい世界の存在に向かって、ささやかな挨拶を送るのだ。あれ? 第2連で「小鳥」はもう歌わないと言っていたのに、また「鳥」が出てきたぞ。ここでは「小鳥」ではなく、もっと大きな鳥ということ? 成鳥のこと? まあ、あまり追及しないでおこう。

二十才 僕は五月に誕生した

最後にもう一度繰り返すことで、自分の新生をあらためて確認している。もう後戻りすることはないという決意を自分自身に示している。

■当時の寺山修司

「五月の詩」を「序詞」とする第一作品集『われに五月を』は、短歌、俳句、詩、散文詩、日記風散文などを収めたものだ。

当時、寺山はネフローゼで入院し、命の危険にさらされていた。雑誌『短歌』の編集長だった中井英夫は、「これほどの稀有の才能を、一冊の本も残さずに死なせてたまるかという気持」(★4)から、出版社を経営する友人に頼んで『われに五月を』を刊行してもらったという。

奥付をみると、1957年1月1日発行となっている。寺山の誕生日は12月10日なので、21歳になったばかりだ。

『われに五月を』の末尾には「あとがき」に当たる「僕のノート」がある。「十二月一日」という日付けがある。「僕のノート」よりも前に「序詞」を書いただろうから、「五月の詩」は寺山が20歳のときに書いた可能性が高い。

ただし、五月ではないだろう。本の出版が決まり、何を収めるかを決めた後で、総まとめとして「序詞」を書いたと思われる。

おそらく「僕のノート」を書くほんの少し前のことだろう。「序詞」と「僕のノート」の内容に重なる部分があるからだ。たとえば次の部分。

この作品集に収められた作品たちは全て僕の内に棲む僕の青年の所産である。言葉をえて言えばこの作品集を発行すると同時に僕の内で死んだ一人の青年の葬いの花束とも言っていいだろう。しかし青年は死んだがその意識は僕の内に保たれる。「大人になった僕」を想像することは僕の日日にとってはなるほど最も許しがたく思われたものだ。/だが今ではもう僕はそれを許そうと思う。いや、許すというよりもロムヌーボー「新しい大人」の典型になろうと思うのだ。美しかった日日にこれからの僕の日日を復讐されるような誤ちを犯すまい。(109頁)

ここで言われている「青年」は、未成年、あるいは少年と言い換えてもいい。寺山はかつては「大人」になることを拒絶していた。だた、今は「新しい大人」の典型になろうとしている。

「美しかった日日にこれからの僕の日日を復讐されるような誤ちを犯すまい」というのはちょっとわかりにくい表現だ。今後、大人として悔いるような生き方だけはするまい、「許しがたい」大人にはけっしてなるまい、振り捨てていく「美しかった日々」から非難されるような生き方だけはするまいということだ。そう自分に言い聞かせている。

そしていま僕の年齢は充分である。この作品集をそうした『生活を知覚できずに感傷していた』僕への別れとするとともにこれからの僕の出発への勇気としよう。僕は書を捨てて町へ出るだろう。ここに入つているのは全部が、僕の十代の作品である。(109頁)

これを読むと、寺山がやはりこの作品集を、十代の自分への別れであると捉えていることがわかる。寺山は「書を捨てて町へ」出ようとする。生を感傷的に傍観するのではなく、「生活」へと踏み出そうとしている。

■おわりに

寺山修司が生まれたのは12月だが、死んだのは5月4日だ。まさに「きらめく季節」だ。

寺山が死んだとき、谷川俊太郎は『われに五月を』を思い出し、次のように書いている。

おそらく健康な人間には思いもつかない烈しさで、彼(=ネフローゼで入院していた二十歳の寺山)は生きたかっただろうと思う。「五月の詩」と題された序詞には、〈二十歳 僕は五月に誕生した〉という行が、二度くり返されている。

そこには(=『われに五月を』には)死の影はおろか、病いの影すらおちていないのは、おどろくべきことだ。当時の彼にとってもっともさし迫った病と死に、寺山はまったく背を向けている。(★5)

「五月の詩」はさわやかな新生への決意を述べる詩だ。透明感あふれる美しい詩となっている。だが谷川が言うように、この詩の背後には、もっと生きたいという寺山の強い願望が潜んでいたのだろう。

そういえば、「五月の詩」を収めた本の題は『われに五月を』だ。つまり、「われに五月を与えよ」ということだ。この本がまとめられたのは、12月頃の暗い冬の時期。寺山は「五月」を夢想し、そこでの自身の再生を願っていたのではないか。

■注

★1:『空には本』の「チエホフ祭」の歌。

★2:塚本邦雄「満月の帆」『寺山修司の<歌>と<うた>』42頁。塚本は「無傷の青春」について、「まこと、何が「無傷」であろう。(……)彼の歌は、句は、一見純撲・清新・柔軟・鮮麗で、その表面に何の暗さも苦みも止めていないようではある。だが、その向日性の感性の皮膚の、一枚下を流れる血は、苦汁にがりと酸を存分に含み、作者はそれに耐えて、何事もなかったように、常に明日に向いて生きようと、強いてつとめていたのだ」(42頁)と述べている。また、春日井健「帆はかがやきて過ぐ」『寺山修司の<歌>と<うた>』44頁、葉名尻竜一『コレクション日本歌人選040 寺山修司』3頁と8頁も参照のこと。

★3:「いまこそ時」は、ルイ・アラゴンの詩句「時こそ今は」を変奏させたもの。小川太郎によれば、「時こそ今は、青春は」は、寺山が好きだったフレーズ。アラゴンでは「時こそ今は、青春は」には、「見知らぬ雲を捨ててゆく」が続く。(小川太郎221-222頁)

★4:中井英夫:『寺山修司の<歌>と<うた>』34頁。

★5:谷川俊太郎「寺山修司――五月の死」、『ことばを中心に』162頁。『現代詩手帖』1983年6月号に掲載された文章。

■補足:テキストの異同

本記事では、テキストは日本図書センターの『われに五月を』に拠った。本によってテキストが少し異なっている。

★『続・寺山修司詩集』1992
題は、「五月の詩・序詞」。

「重たい本 すこし」は「ひとりの空では」の行に続く。
「僕は小鳥やランプを歌わないだろう」――「もう」がない。
「そうして僕が知らない僕の新しい血について」――「そして」ではない。

★『あなたにおくる世界の名詩3』1997
題は、「五月のうた序詞じょし」。振り仮名がついている。出典は『続寺山修司詩集』思潮社となっている。

「重たい本 すこし」は「一人の空では」の行に続く。
「僕は小鳥やランプを歌わないだろう」――「もう」がない。
「そして僕が知らない僕の新しい血について」――「そうして」ではない。

★『寺山修司詩集』2003
題は、「五月の詩」。

「重たい本 すこし」は「ひとりの空では」の行に続く。
「僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう」――「もう」がある。
「そうして僕が知らない僕の新しい血について」――「そうして」となっている。

★『われに五月を』2004
題は「五月の詩 ・序詞・」で、「・序詞・」は小活字。『寺山修司詩集』と同じ。

「重たい本 すこし」は「ひとりの空では」の行に続く。
「僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう」――「もう」がある。
「そうして僕が知らない僕の新しい血」――「そうして」となっている。

★『寺山修司・遊戯の人』2006
『われに五月を』と同じものが引用されている。

★『寺山修司著作集1』2009
題は、「五月の詩・序詞」。

連の分け方が他の本と大きく異なる。他のテキストでは全4連だったが、ここでは全体が7連になっている。『われに五月を』のテキストの第2連が三つの連に、第4連が二つの連に分けられている。

その他の異同は以下の通り。

「ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ」と「重たい本 すこし」が2行に分けられている。
「僕は小鳥やランプを歌わないだろう」――「もう」がない。
「そうして僕が知らない僕の新しい血について」――「そうして」となっている。

■参考文献

★テキスト
『続・寺山修司詩集』思潮社、1992

『あなたにおくる世界の名詩3 四季のうた』川崎洋編、岩崎書店、1997

『寺山修司詩集』ハルキ文庫、2003

『われに五月を』日本図書センター、2004

『寺山修司著作集1』山口晶男・白石征監修、クインテッセンス出版、2009

★文献
小川太郎『寺山修司 その知られざる青春』中公文庫、1997

栗坪良樹編集・評伝『新潮日本文学アルバム56 寺山修司』新潮社、1993

齋藤愼爾・白石征・渡辺久雄編『寺山修司の<歌>と<うた>』春陽堂書店、2021

杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』河出文庫、2006

高取英『寺山修司 過激なる疾走』平凡社新書、2006

田澤拓也『虚人 寺山修司伝』文春文庫、1996

谷川俊太郎『ことばを中心に』草思社、1985

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』講談社文庫、1997

葉名尻竜一『コレクション日本歌人選040 寺山修司』笠間書院、2012

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