寺山修司の詩「懐かしのわが家」―ぼくは不完全な死体として生まれ
寺山修司の詩「懐かしのわが家」を取り上げる。これは、1982年9月1日付の「朝日新聞」に掲載されたものだ。寺山が亡くなったのは翌1983年の5月4日だから、死の8か月前ということになる。
詩が発表された数日後、谷川俊太郎は佐々木幹郎に次のように語っている。
杉山正樹もこの詩を高く評価している。
もっとも、もっとも谷川も杉山もちょっと違ったニュアンスのコメントも残している。それについては以下の「さまざまなコメント」参照のこと。
■語句
昭和十年十二月十日――実際の寺山修司の生年月日。西暦では1935年。
青森市浦町字橋本――寺山が5歳から9歳まで暮らしたところ。寺山一家は八戸市にいたが、父親が出征したため、母子は青森市の橋本に転居した。寺山は当地の幼稚園に通った後、橋本小学校に入学する。しかし、1945年の青森大空襲に遭遇する。寺山が9歳のときだ。焼け出された母子は、父親の兄が営む古間木(現三沢市)駅前の寺山食堂に間借りする。寺山は古間木小学校に転校。しばらくして、母はつは、三沢市の米軍基地で働くようになる。
■解釈
◆題:サローヤンの『人間喜劇』の影響?
「懐かしのわが家」という題が気になる。なんだかカントリーミュージック風の題で、寺山らしからぬ題のように思える。パロディなのだろうか。
この題は、サローヤンの『人間喜劇』の第1章「ユリシーズ」と関連しているのではないか。そう思うのは、後で見るように、寺山が最晩年のエッセイでしばしばサローヤンを引用しているからだ。
『人間喜劇』の冒頭には、ユリシーズ・マコーレイという名前の小さな男の子が、汽車に乗っている黒人に手を振ると、黒人が手を振り返してくれるというシーンがある。
黒人は歌をうたっている。
これは、フォスターが作詞・作曲した、有名な「ケンタッキーの我が家」の一節だ。原題は"My Old Kentucky Home"だから、直訳すれば「懐かしのケンタッキーの我が家」となる。
黒人は男の子に向かって叫ぶ。
原文では、"Going home, boy - going back where I belong!"だ。
◆題:"Home Again Blues"の影響?
もう一つ、ブルースの「ホーム・アゲイン・ブルース(Home Again Blues)」の影響もあるかと思う。いや、むしろこちらが本命か。クラッシックの歌曲「ケンタッキーの我が家」よりはブルースの方が、明らかに寺山にはふさわしい。
寺山は死の直前、『週刊読売』に「ジャズが聴こえる」という題のエッセイを連載していた。その中の一つに、「少年のための『Home Again Blues』入門」がある。
このエッセイには、リトル・ブラザー・モンゴメリー(Little Brother Montgomery)が歌う"Home Again Blues"の名前が出てくる。
モンゴメリーの歌はYouTubeでも聞くことができる(★1)。
歌を作ったのはアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)とハリー・アクスト(Harry Akst)で、1921年のこと。フランク・クルミット(Frank Crumit)が歌った。
歌の内容は、長年にわたって「転がる石(a rolling stone)」のようにあちらこちらをさすらってきた男が郷愁にとらわれ、故郷の家に帰ろうとするというものだ。
歌詞には次のような一節がある。
下から2行目、ここにも"where I belong"という表現がある。
ちょっと意訳気味に訳してみよう。
「俺」の頭の中で鳴り響いている歌が、つまり"Home Again Blues"(「郷愁のブルース」)だ。故郷の家に帰りたいというせつない思いを表現するもので、この歌自体のことでもある。音楽のブルース(blues)はもともとblue(憂鬱な)から来ている。
寺山の詩の「懐かしのわが家」という題なんて、最初はパロディだろうと思ったが、こうしていろいろ調べてみると、必ずしもそうではなさそうだ。寺山が故郷の家を懐かしがっているのは確かだろう。
◆「不完全な死体として生まれ(……)完全な死体となる」とは?
詩「懐かしのわが家」は次のように始まる。
生まれ、生き、そして死ぬことを、「不完全な死体として生まれ/何十年かかゝって/完全な死体となる」と捉えている。
生まれてから死ぬまで、人は本質的には「死体」であるというのだ。生があり、その終わりに死があるのではなく、最初から最後まで死が根底にあると考える。「不完全さ」から「完全さ」への移行があるだけだ。
このような考えに至ったのは、寺山が常に死を意識しつつ生きてこざるを得なかったからだろう。
ただ、これは寺山独自の思想ではなく、サローヤンの影響を受けたものだと思う。
先ほど挙げた寺山の最後の連載「ジャズが聴こえる」に、「墓場まで何マイル?」というエッセイがある。寺山の葬儀の日(1983年5月9日)に発売された『週刊読売』に掲載されたものだ(★2)。
このエッセイは、次のようなサローヤンの言葉で終わっている。
寺山のことだから、本当にサローヤンの言葉なのかとちょっと疑わないでもない。でもサローヤンの言葉だと何度も繰り返しているから、きっとそうなのだろう。
エッセイ「少年のための『Home Again Blues』入門」にもサローヤンの引用がある。
このエッセイは、普通のエッセイとは異なり、小説の一場面のように書かれている。
エッセイの中で「サローヤンの小説」と言われているのは『ロック・ワグラム』のことであり(★3)、ロックはこの小説の主人公だ。寺山はサローヤンの小説の主人公の名を借りて、サローヤンの小説世界を模したシーンを創作している。ややこしい。
ここに出てくる「あらゆる男は、命をもらった死」や「男はみな不安である。(……)男の一生は、顔や眼や口や、からだや手足をもらった死なのだ」は、『ロック・ワグラム』からの引用だ。
「あらゆる男は、命をもらった死である」――寺山はこのフレーズが気に入っていたのだ。それが、「不完全な死体として生まれ(……)完全な死体となるのである」という詩句に形を変えている。
◆「育ちすぎた桜の木」とは?
寺山の詩に戻ろう。
「そのとき」とは自分が「完全な死体となる」とき、つまり、自分の現実の死のときのことだ。
実際に死が訪れるとき、何に「思いあたる」のか。「内部から成長をはじめるときが来たこと」に、だ。
「青森市浦町字橋本」は寺山が小学4年まで(5歳から9歳まで)暮らした家だ。その家の庭に桜の木が植わっている(実際に桜の木があったかどうかは知らない)。それは「育ちすぎた桜の木」だ。
寺山は自分を桜の木に喩えている。自分は故郷の家を離れ、さまざまな活動をしてきた。東京に行き、さらには海外を駆けめぐった。だが、それらはすべて幻想だった。自分は「桜の木」として、依然として故郷の「陽あたりのいい家の庭」にいる。
桜の木が見た夢、それがこれまでの人生だ。
現実の死によってそのような幻想が終わる。そして「内部から成長をはじめるとき」が来る。本当の生が始まるのだ。
◆なぜ「青森市浦町字橋本」なのか
ところで、なぜ「青森市浦町字橋本」なのだろうか。
「青森市浦町字橋本」は、寺山が無垢な少年として、母親と幸せに暮らしていたときに住んでいた場所だ。寺山にとって、母子一体のもっとも平和なときだ。その後、母親が三沢の米軍基地で働くようになってから、寺山の苦しみが始まる。
そのことは、エッセイ「少年のための『Home Again Blues』入門」でも示されている。
ロックは言う、「どうせ、アパートに帰ったって(……)おふくろが、黒人のポリ公といちゃついているんだ」と。ロックの苦しみは、寺山自身の苦しみだ。(これについては、note記事「寺山修司のトラウマ」を参照のこと)
ロックと同じく寺山も、「命のはじまったところ」「死のはじまったところ」へ帰りたくなる。つまり、自分の誕生のときへと。ここには、生まれてこなければよかったと思うほどの深い絶望がある。
生きている自分を「不完全な死体」とみなし、その最終目的を「完全な死体」になることであると思わざるをえないほどの深い絶望だ。
◆第二連は?
第二連は第一連とどう関係しているのか。
子供の頃、汽車の口真似が上手だったことを、「ぼく」は思い出す。なぜ子供の「ぼく」はあんなに一生懸命、口真似をしていたのか。今、それがわかる。「世界の涯て」が自分自身の幻想の中にしかないということを、子供心に知っていたからだ。
子供のときに口真似によって汽車を現出させたように、「ぼく」は想像力とその言語化(=口真似)によって幻想世界を作り出してきた。それが僕の人生だ。自分は汽車に乗って現実世界の果てをめざしていると思っていたが、結局すべては自分自身の「夢」の中にあるものにすぎなかった。
「自分自身の夢のなかにしかない」の「しかない」は、諦念を含んだ認識だ。そう、結局、これまでの自分の人生は幻想だった。自分が見た「夢」だった。本当の自分は桜の木として青森市浦町字橋本に植わっている。立ったまま眠って夢を見ていたのだ。
こうして第二連は第一連につながっていく。
「世界の涯て」をめざした「ぼく」は、自身の現実の死を前にして、「懐かしのわが家」を、つまり、自分が幸せだった時を振り返る。そしてその時点に戻って、もう一度最初から生き直そうとするのだ。
◆第二連は第一連の撤回?
と、ここまで書いてみて、もう一度、詩を読み直す。
第二連は第一連の「内部から成長をはじめる」という自身の再生を根拠づけるために持ち出されたものだったはず。これまでの人生は幻想だった、子供のころから僕は幻想を生み出すのが得意だったんだから、として。でも第二連がどうも気にかかる。
詩は第一連だけで独立させたほうがいいのではないかという気さえする。第一連と第二連がちぐはぐなのだ。第一連は力強い印象を与えるのに、第二連は逆にさびしい感じがする。こんな詩の終わり方でいいのか?
まるで、自分の人生が結局は夢にすぎなかった、と言おうとしているようではないか。「内部から成長をはじめる」という第一連の力強い宣言は消されてしまっている。つまり、第一連を根拠づけるはずの第二連は、第一連を裏切っているのだ。
でも、このちぐはぐさはそのままでいいのかもしれない。第一連の気取った寺山と、第二連のさびしそうな寺山、その両方が合わさって「寺山修司」だからだ。
■さまざまなコメント
◆谷川俊太郎:1982-1993
1982年9月から、1983年3月の初めまで、谷川俊太郎と寺山修司はビデオ・レターを交わした。「懐かしのわが家」については次のようなやりとりが交わされている。(以下、強調は筆者)
寺山の死後は、谷川は次のように述べている。
◆佐々木幹郎:1987
◆飯田龍太:1987
◆杉山正樹:2000
杉山正樹は「懐かしのわが家」の別バージョンに言及している。寺山の死後三年の命日に刊行された『寺山修司全詩歌句』の口絵にあるものだ。
この本は、寺山が「生前に作成した企画書」に基づいて出版された。だから寺山の意図に従っている。寺山の写真の下に、無題で次のような詩が書かれている。
杉山によれば、「寺山修司をよく識る人びとは、ほとんど皆」、詩「懐かしのわが家」を読んで「目がしらを熱くした」。杉山も、「これは寺山の遺言ではないか、と胸に迫るもの」を感じた。
ところが『寺山修司全詩歌句』の詩を見た杉山は「わが眼を疑」う。
杉山の結論はこうだ。
そうだろうか。
朝日新聞に掲載された「懐かしのわが家」は、杉山も認めるように、人の心を打つ。それに対して別バージョンの方は、詩としてはかなり出来が悪い。
寺山は、「ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかけて/完全な死体になるのである」という最初の三行の重さを、「そのときには/できるだけ新しい靴下をはいていることにしよう」以降の詩句によってできるだけ軽いものにしようとしているが、両者はうまく融合していない。
寺山が『寺山修司全詩歌句』で別バージョンをあえて冒頭に持ってきたのは、「懐かしのわが家」で思わず自分の心情をもらしてしまったことへの、寺山の照れではないか。
人を感動させて人生を終えるよりも、アッカンベーと舌を出して去っていく方が自分らしい、そう思い直したのではないか。
◆城戸朱理:2001
◆白石征:2003-2009
■おわりに
確かに谷川俊太郎の言うように、カッコつけてる、と思う。
「ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかゝって/完全な死体となるのである」と相変わらずの気取り。
「ぼくは/世界の涯てが/自分自身の夢のなかにしかないことを/知っていたのだ」と相変わらずの自負。
でも、『われに五月を』の序詞「五月の詩」では「僕は五月に誕生した」と書いていたのに、「懐かしのわが家」では、「昭和十年十二月十日」と本当の自分の誕生日を記している。また、「青森市浦町字橋本」と実際に自分が暮らした地名を挙げている。
寺山はここでは、虚構の「われ」を放擲し、「寺山修司」を職業とすることをやめている。素の「寺山修司」になろうとしている。
第一連では、「完全な死体となるのである」と断定しつつも、そのときこそ「内部から成長をはじめるとき」が来るのだと、まだ生への強い意欲に満ちている。
だが第二連は、新たな生も含めたすべてが幻想であることを認めたような詩句となっている。素直な寺山が姿を見せつつある。
寺山のささやかな自慢に静かに耳を傾けてみると、諦念だけでなく、言葉と想像力を駆使して生きた自分の人生に対する満足感もあるように思われてくる。
■注
★1:リトル・ブラザー・モンゴメリーは少しアレンジして歌っている。(英語がよく聞き取れない!)
★2:杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』278頁。
★3:新潮文庫版『ロック・ワグラム』の訳者内藤誠は、「解説」で次のようなエピソードを紹介している。
■参考文献
◆テクスト
『寺山修司全詩歌句』思潮社、1986
『続・寺山修司詩集』現代詩文庫105、思潮社、1992
『墓場まで何マイル?』角川春樹事務所、2000
『寺山修司詩集』ハルキ文庫、2003
『寺山修司著作集1』クインテッセンス出版、2009
◆文献
齋藤愼爾・白石征・渡辺久雄編『寺山修司の<歌>と<うた>』春陽堂書店、2021
白石征『墓場まで何マイル?』角川春樹事務所、2000
白石征『望郷のソネット』深夜叢書社、2015
城戸朱理 → 野村喜和夫・城戸朱理編『戦後名詩選Ⅱ』現代詩文庫特集版2、思潮社、2001
杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』河出文庫、2006
風馬の会編『寺山修司の世界』情況出版、1993
ウィリアム・サローヤン『人間喜劇』小島信夫訳、晶文社、1977、15頁
ウィリアム・サローヤン『ロック・ワグラム』内藤誠訳、新潮文庫、1990
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