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会社に身を捧げた先には

最近はネットで無料漫画が読めるので、暇つぶしにことかきません。

漫画で描かれるキャラクターは、現実を反映したステレオタイプであり、どこにもいない理想像であり。読者の共感と驚嘆を同時に得るため、「分かりやすさ」と「ありえなさ」のバランスの中に作られています。今の時代の、共通概念としての「人」を理解するには、とてもよいものです。
ま、単純に漫画は面白いですし。

さて、この間読んでいた漫画で、冴えない中年のおじさんが異世界でひどい目にあい、こう叫びました。

「会社に身を捧げてきたのに、こんな目にあうなんて!!」

ほほう。
同じセリフを、何度も漫画や小説やドラマで見ましたが、令和元年の今も健在のようで。

「あんなに会社のために尽くしてきたのに」
「家庭を犠牲にしてここまでやってきたのに」
「会社で生き残るために自分を殺してきたのに」

このようなセリフの裏には、作り手のこんな意図があるのでしょう。

「組織に身を捧げても報われない」
「解き放たれて本当にやりたいことをやれ」
「本当に大切なもののために生きよ」

そして大抵、新たな世界へ踏み出したり、盛大に道を踏み外したりします。前述の漫画では、冴えないおじさんが殺人モンスターに生まれ変わり、大いに物語を盛り上げます。

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このセリフが長らく使われているのは、人の共感と驚嘆を引き出し続けているからです。つまり、ひとつのファンタジーなのです。現実は、なかなか。

昨年秋、とあるスピード出世した役員と話していました。講演の準備なので、何が一番の理由か話していたら、ぽろりとこう言いました。

「これは言えないけどさあ、結構家庭を犠牲にしてきたよ。それも評価されたと思う」

確かに、入社とほぼ同時に単身赴任。そして10年以上の別居。会社の厳しい命令にも、どこかに楽しみを見つけて乗り切ってきた、と。

それを聞いていた私の上司は、「さすがですね!」と。

さて、これが現実。

会社で上に上がりたい、認められたいのであれば、「身を捧げる」ことは必須の通過儀礼。上に上がるほど、踏み絵は増えていき、踏みにくくなっていき。それをやり通せば報われる。葛藤と共に、腹を決めて、踏み絵を踏み続けたものには、明るい未来が待って…

いるとは限りません。残念ながら。
そこにはやはり、実力と運が関係してきます。それでも、期待して、夢を見て、踏み絵を踏んで。
もしからしたらそれは、もはや踏み手を試してもいないのかもしれません。惰性で出されているだけで、意味すらないのかもしれません。偉い人との会食とか、無茶なダメ出しとか、やりきれない量の仕事とか、急な転勤とか。

偉くなる人は、みんなこれをやっている

これをやったら、みんな偉くなる

全くイコールではないのですが、
どんどん後戻りができなくなってしまいます。

そして、身を捧げたら、見返りを求めるのは当然の心理です。その怨念が、フィクションの中で叫ぶのです。

「会社に身を捧げてきたのに、こんな目にあうなんて!」

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その時代をサバイブしてきた緒先輩がたに、本当にお疲れさまでした、と言ってあげたいです。

本質的には、何かを得るには何かを捧げる。これは、変わらないのではと思います。なので、これまで自己犠牲を求めてきたことは、あながち間違いでもないと思います。

しかし、これからは、みんなに踏み絵を踏ませなくてもいいのではないでしょうか?だって、見返りが渡せる保証もないし、求められても困るのでは?

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自己と会社が近づきすぎて、もはや自己犠牲がなんだか分からなくなった役員たちに、働き方改革の話が通じない理由はこんなところなのかも。

どうしたもんかと悩みながら、今日もさりげなく置かれた踏み絵をさらりと無視して、ささやかな抵抗を試みるのでした。

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