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あいだのもの

ティム・インゴルド著『ライフ・オブ・ラインズ ー線の生態人類学』を読了。


最近、なぜか人類学の本にときめくことが多く、そこになにかダンスの根源的なものを感じるのだが、この本にも同様の印象を持った。自由奔放な事物の結びつけと躍動感溢れる展開がとてもおもしろく、「そうそう!この感覚、わかるな〜」と、作品制作中や踊っているときにグルグル渦巻く思考や感覚が言語化されているような感じだったので、とても親しみを感じた。

この本は、「結び目を作ること」から始まり、「天候にさらされること」に続き、「人間になること」という三部構成からなっている。

第一部 『結び目を作ること』


ここでは、さまざまな事物の領域において、ライン的/ブロブ的といった二つの形態的な概念が持ち出され、事物の組み合わさり方が「結び目」と対置される。

私たちは結ぶという動詞から始めて、結ぶことを「結び目」が現れる活動として考えるべきである。このように考えると、結ぶこととは、物理的な力動の場の中において、いかに新しい形を生成するか、「物を定着」させるか、ということであり、結ぶためには形や物質よりも力や物質について考えられる必要があるとされる。そして、結ぶことは思考や実践のさまざまな領域に現れ、物質の流れ、動きや身振り、感覚的な知覚、人間の感情といった、異なる領域が存在論的に同等のものであると捉えられる。(p47)

結び目には、人間の生の諸相が立ち現れる。結び目は、アナロジーとして複数の領域が絡み合い、人間の生を表す。「結ぶ」ことによって生まれるエネルギー、その領域に発生する思考や実践、またそこに含まれる流動や身体、感覚や感情が、互いに包括的に結びつけられている領域を構成する。
インゴルドは、地面を人間の感覚や知覚が交差する結び目と捉え、第二部ではその地面と天候が結び付けられる。

第二部 『天候にさらされること』

自然環境と呼吸などの生命活動を結びつけたり、大気と雰囲気といった異なる領域間での結びつきを考察し、「天候−世界」を感覚・知覚する経験について問いかけている。
11章の「つむじ風」では、気象学の基本項として「呼吸、時間、気分、音、記憶、色、空」と、よくダンス作品でもテーマとして取り上げるようなことを取り上げ、その共通分母が「大気」であるとした。そこから、美学者の「雰囲気」に発見される感情的なものを気象学と結びつけ、「大気=雰囲気」という概念へと話を進めていく。トリンギト族の人々が氷河を聞くことができる話は、感覚的、現象的な身体の輪郭が浮かび上がってくる感じがして、ワクワクした。

生物、つまり呼吸する存在は、大気=雰囲気への浸漬が急増していくラインに沿ったメッシュワークの触覚的な拡大に変形させられる場所なのである。天候が農家の作った畝間に変わり、風が帆船の航跡に変わり、太陽の光は植物の茎や根に変わる。変身こそが、間違いなく、すべての生命の根本をなすものなのである。(p173)

昨年から「境界」ということをテーマにENIGMAという作品を再構築していくことをプロジェクト化し、考察や実験を行っている。今年の2月には、境界→界隈→穴ということに着目した実験パフォーマンスを行った。そのとき、穴=異界への媒介と解釈したのだが、パフォーマンス後、「穴」について再考をしていくなかで、自己と環境、自己と他者、時間と空間など、二つのものが出会う界隈の「間(あいだ )」を伴うことによって、人は世界と繋がっていると考えるようになった。

環境や他者といったものとの境界に身体は存在しているが、私たちが身体感覚というとき、それは自分の内部で起こっているように感じてしまうが、それを感じている自分という内部があるかぎり、身体は外の存在だ。
「あいだ」というのは、「あふ(会う)(合う)」の同根の言葉だそうだ。環境や他者という外部との境界に身体は存在する。身体という「媒介=間」を通して、人は外の世界と繋がるとすると、変身こそが生命の根本をなすとしたインゴルドの言葉にも繋がる。人間にとって変身とは、身体を媒介に何かと一体化し、溶け合うことなのではないだろうか。

子供を対象としたダンスのワークショップのことを思い出す。スタート直後に見受けられた恥じらいや抵抗は、年齢が若いほど、あっという間になくなり、子供たちは動物になり、風になり、石になり、光になりと、人間ではないものと自分が一体化すること、自分とそれらの間の境界が薄らぐことを、当たり前のように楽しそうに受け入れていて、なんとも言えない輝きを放っていた。身体の輪郭への意識化があまりない子供にとって、身体は媒介ではなく、「内」でもあり「外」でもあり、世界と溶け合いながら世界と繋がっているのだ。内と外がともにあるような「運動の持続感」がダンスだ。子供の放つキラキラ、これがインゴルドのいうところの変身、生命の根本なのかな・・・。

第三部 『人間になること』

わたしというのは人称代名詞ではなくて一つの動詞なのだと思う。動詞とは、あること、行うこと、苦しむことを意味する何かだ。わたしというのは、これら三つ全てを意味する。」(p222)

ここでは、人間になる道筋が描かれてる。人間とは自己製作者であるとし、生成変化とは事物の状態の移行であり、人間は事物を作ることで生成変化を引き起こす。

25章の「迷宮と迷路」は興味深い。迷宮(Labyrinth)と迷路(Maze)の関係とは、前者は出入口が一つしかないのに対して、後者は複数の出入口がある。  迷宮は子どもの道草を例に出し、子どもから大人になる成長の中でその無目的な行為がいつしか点から点への移動を目的とする行動原理へと変化すること、つまり人間の生の過程において迷宮から迷路へと変わることを指摘している。これは、生の過程の中で教育によって、個人の社会的な規範化が進んでいくからだとし、それに対して、インゴルドは、迷路を再び迷宮に戻し、再び自己製作者となることを教育として掲げている。人間の生の過程の本質は、学び続けることで、その過程そのものを考えることの重要性を説いている。
学ぶことは、問い続けることだという。「問う」という古語は「とふ」で、漢字が伝来したときに、「問ふ」「訪ふ」「弔ふ」という漢字があてられたそうだ。この漢字が語っているように、「とふ」は、身体的な営みであり、脳内だけで完結する行為ではない。
子供は、なぜなぜ星からやってきた宇宙人のように、あらゆるモノやコトに「なぜ?」を注ぐ。人間が誕生したときの一番最初の問いは、自分の身体に向けられているのではないかと思う。重力という対象を捉え、環境と溶け合いながら全身知覚体になって「なぜ?」に向き合っていたのに、成長と共にインゴルドのいう個人の社会的な規範化が進み、意識が身体から離れ、「内」が肥大化、硬直化していく。迷路を再び迷宮に戻し、再び自己製作者になるには、問い続けるには、どうしたらいいのだろう。

あいだ (between)と、あいだのもの(in-between)のあいだには違いがある。(p289)
あいだには二つの終点があり、あいだのものに終点はない。あいだの運動はすべて、行うことの枠にはめ込まれた経験することや、作ることの枠にはめ込まれた成長することと同様に、ここからそこへ、つまり初期状態から最終状態への運動にすぎない。しかしながら、あいだのものにおいては、運動は最も重要なものであり、進展しつつある条件である。(p290)

古代の日本人の感覚では、身体は身体と魂との統一体だったそうで、「身体」ではなく「身(み)」という一文字で表していたそうだ。身籠る、身の程、身の丈、と直感や実感としての身を表す表現を考えると合点がいく。「からだ」の「から」は「殻」であり「空」で、心や魂といったものを容れるための容器が「からだ」、つまり現在の「身体」として捉えられるようになったということを、能楽師の安田登さんの本で知った。
「身」と「からだ」が共鳴したり、ズレたり、ともに運動体でいることをインゴルドのいう「あいだのもの」とするなら、「あいだのもの」を活性化することで、離れてしまった意識と身体が交差する結び目がつくられ、そこに新たな調和が生まれると考えることができる。学ぶということは、世界を構築しているあらゆるものの「あいだのもの」が、問いかけることに耳を澄まし、その時、内と外とともに運動体でいることなのかもしれない。

なにかを意識しながら、身体や他者や環境やものと押し引きをするような、意識が身体のうちに開かれ、外の世界へと開かれていくような、
迷路を迷宮に変えるために、まずはフラフラと道草を楽しんでみる。
私と世界の「あいだのもの」の活性化だ!

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