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見ること

昨夜、殆ど街灯がない道をひたすら歩いた。経験から目的地までの距離感を分かっていたつもりだったが、すっぽりと闇に包まれた時、空間の奥行きだけが迫ってきて、出口のない穴の中にいるような感じになった。
私たちは闇のない生活に慣れている。なんとなくぼんやり見えるガードレールや目の端を流れ去る木々や草の僅かな陰影、足元から感じる砂利やアスファルトの凸凹だけが、私が確実に目的地に向かっていることへの拠所になっていた。視覚や触覚が闇に慣れるのはわりと早い。慣れるのが遅いのは、おそらく時間感覚だろう。私たちは時間を視覚的に捉えることに慣れている。だいぶ歩いたので、時間もそれなりに経っているだろうと携帯を取り出して確認すると、予想の半分しか時間が経っていなかった。

ダンス作品を上演に向かって仕上げていく過程で、私は音を使用するシーンでも必ず無音で稽古をする。何かの意図がない限り、舞台上には時計のように視覚的に時間を捉えるものはない。音楽や照明の具合で、時間やタイミングを捉えることも可能だが、無音で照明変化がないような場合もある。視覚や聴覚以外で空間や時間を捉えておくことは、ダンスの質を上げるためにも重要だ。稽古では目を閉じたり無音で動きを何度も繰り返し、シーンにおける時間や空間感覚を身体に覚え込ませる。感覚の一つに制限を加えるだけで、他の感覚器官がむくむく作動し始め、今まで気づきもしなかったことに意識が向いていく。そんなことを繰り返していると、動きながら認知できることの幅が広がり、本番で自分を俯瞰して捉える幅も広がる。

旧ユーゴスラビアのスロヴェニア出身のユジェン・バフチャル / Evgen Bavcar (1946年〜)という写真家がいることを本で知った。バフチャルは10歳で左目を事故で失明し、翌年に地雷事故で右目を負傷し、2年間治療を受けるが回復せず、13歳くらいまでに全盲になった。ある日突然見えなくなるのではなく、見えなくなることがどういうことか分かりつつ何年かを過ごした彼は、今見えているものがやがて見えなくなることをはっきり意識し、見ることのできたものを記憶にとどめようとした。消えていく光を惜しむように、スロヴェニアの空の豊かな表情をひたすら見たらしい。彼は、視力を完全に失う前に色覚がなくなったらしく、心の中のパレットを使って、灰色になった空に色を塗って楽しんだというエピソードに、強く心を揺さぶられた。バフチャルは16歳頃から写真を撮り始めたらしいが、盲学校の卒業後は哲学を専攻し、パリに移住してからはフランス国立科学研究所の研究員として美学を研究している。
バフチャルの写真は、知らずに見れば、盲人が撮影したものとはとても思えない。どんな人でも写真を撮影した時には、様々な感覚、感触が働いているはずだが、目が見えると視覚情報が何よりも優位になってしまう。手触り、温度、匂い、音・・・バフチャルは、普通の写真家がほとんど意識せずに働かせているこれらの感覚を総動員させて、空間・光景を把握しているのだろう。彼がどのようにして、見えない世界を撮影することができたのかということも気になるが、それ以上に私はバフチャルが自身の撮った写真をどう認知しているのか、ということに興味がそそられたので、今後じっくり調べてみたいと思う。

私たちは洪水のように日々生産されている情報を見たり、聞いたりしているが、「見る」「聞く」という経験を考えることは殆どない。見ること、聞くことは知ることであり、見えるもの、聞こえるものが情報そのものだと思っているのではないだろうか。バフチャルは、私たちの置かれた状況そのものを「一般化された盲目状態」と呼んでいた。
昨夜の闇は、私に身体感覚を総動員して「見ること」を促した。私たちを社会的な盲目状態から救うのは、私たち自身の身体感覚にほかならないだろう。

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