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不可視のマテリアル _vol.1

シンガポールのダンスカンパニーのディレクターから、彼らが企画するオンラインでの新たな試みにアーティストとして参加しないか?という連絡があった。このところ大学院の課題をこなすだけで精一杯の日々が続いていたが、なんとか必修課題を提出し終えたので、以前からやってみようと思っていたことに着手することにした。

音楽家の山中透氏に音楽を担当していただき、アップデートを繰り返してきた『ENIGMA』というダンス作品がある。ざっくり言うと、今回のプロジェクトは、まずこの作品を言語化し、そこから解体、再構築していこうというものだ。プロジェクトでは、私が書いた文章は、メンバーであるキュレーターによって編集され、山中氏の音分析と合わせて、再考の素材となっていく予定だ。ここでは、編集前の文章を掲載していこうと思う。


ENIGMA〈初演 2012年1月 @ Kyoto〉

2012年1月、京都で上演した「ENIGMA」は、ダンサー・振付家であるJUNG YOUNG DOO氏、音楽家の山中透氏、美術家のシンヤb氏がワークショップのモデル作品として共同創作した〈After a Dream〉という作品から、「眠り」というテーマを引き継ぎ、山中氏、シンヤ氏と共にクリエイションをしたものだ。まずは、8年前のクリエイションの過程を段階的に振り返りながら、現在の私の視点を通して言語化していこうと思う。


「眠り」から引き出した3つのキーワード


神話】

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かつて、多くの地域の原始社会において、夢は非常に実存的な意味をもち、社会制度に取り込まれていた。そもそも人類が“魂”というものの観念を確信したのは、睡眠中に意識が肉体から抜け出て自由に活動するという体験を通してで、アニミズム信仰は、夢の中で岩や動植物とも会話ができることを発見したことから至っている。

アボリジニなど原始社会の部族には必ず呪術師やシャーマンがいる。彼らは夢や幻覚の中で魂を超自然的な世界に飛ばし、精霊に通じ、災害や悪霊と闘った。夢の中で精霊や神々と交流する中で、彼らは世界の仕組みや成り立ちを学び、自然社会における自分たちの立ち位置や振舞い方を理解し、その神話的世界の秩序に則って生きている。彼らにとって夢は、自分たちはどこからやってきて、なぜ存在しているのか、といった実存的な問いをも含む世界の全てを説明してくれ、自分たちを世界に繋ぎとめてくれる重要な知識源であった。夢などから彼らが理解した知識をまとめたものが神話と呼ばれている。

どんなに科学が進化しても、科学の知は私たちと世界との繋がりを語ってはくれない。世界は対象化され、自己から切り離され、精神的な豊かさからどんどん遠ざかっている。私たちは、自分の存在の手応えを肯定するために、神話の力を必要としているのかもしれない。

【疑似的な死】

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眠りとは、本来恐ろしいものだ。なぜなら、眠って、朝に目が覚める保証は何もないからだ。眠る前にぐずったり嫌がったりする赤ちゃんや子供は、カラダが休もうとして眠りにつこうとしているとき、アタマは不安や恐れを本能的に感じ、抵抗しようとしているとも考えられる。寝ている時、人は意識を失い、周りがどういう状態なのか何も覚えていない。生物学的には極めて無防備で危険な状態とも言えるらしい。

かつて、眠りは疑似的な死であり、死者の世界と繋がっていると考えられていた。多くの原始社会では、青年の成人への通過儀礼として、疑似的な死の体験をする。彼らは、抜歯や刺青や数日間の断食などの恐怖と身体的苦痛を味わった後、村から隔離された非日常的な場所、多くは山や洞窟などに籠り、そこで眠りに入る。眠りから目覚めると、新たに大人としてのアイデンティティを持って生まれ変わったとされ、その時に見た夢は解釈が施され、その後の人生の大切な指針とされた。 またその際に夢に登場した動物は、自分の守護霊として一生涯を通して自分を守ってくれると信じられていた。

眠りによって生命は日々更新されている。生命の全体性にとっては、起きている時間だけではなく眠りの時間も同じくらい重要なものだ。「寝たら元気になる」「寝れば嫌なことを忘れられる」とよく言われるように、人は寝ることで、一度死んで、また新しい自分を再生するのかもしれない。起きて、寝て、また起きて、寝る。「覚醒」と「睡眠」、意識がある状態と無意識の状態を、振り子のリズムのように周期的に繰り返していく。人間の営みである社会にもまた「覚醒」と「睡眠」の繰り返しと同じようなリズムがある。

資本主義社会の加速化は、本当は眠るべき時間なのに、眠眠打破!とカンフル剤を打ち続け、人間社会に無理をさせ続けている。今、世界はいかに「眠るか」ということを考えるべきではないか。
私たちは日々眠り、「死」の疑似体験を繰り返している。そういう意味で、生は死であり、死は生なのだ。

【夢】

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ワークショップのモデル作品〈After a Dream〉では、ブリエル・フォーレ(1845-1924)がイタリアのトスカナ地方に古くから伝わる詩にメロディーを付けた「After a Dream」という曲の一部が使われていた。「ある男が夢の中で出会った一人の美しい女性に恋をし、彼女と一緒に地上を離れて天空を巡るという神秘体験をする。男は目覚め、現実に一人残されていることに気付き、あの人を返して!と暗黒の夜空に向かって叫ぶ。」というのが詩の内容だ。

夢は自分で見ているにもかかわらず、自分では理解が難しい不思議な現象だ。どこからが夢で、どこからが現実なのか。夢と現実の境界は、どこにあるのか。

「夢」で思い浮かぶのは、精神科医の一人であったジークムント・フロイト (1856‐1939)だ。近代になると脱呪術化と政教分離が進み、夢は政治的な影響力を失い、啓蒙主義によって夢を信じる人々も少なくなる。その代わりに、夢のようなナンセンスなものにも必ず合理的な理由や機能があるはずだという近代合理主義精神の下で、特に精神医学の分野で徐々に研究対象として認識されるようになる。 
フロイトは、催眠術を用いながら手探りで精神疾患の治療をするうちに、意識の下に幼少期のトラウマを保存している領域(無意識)があることに気付き、夢は無意識に 溜まった欲動(リビドー)の現れの場であることを発見する。フロイトは、人の心を氷山に例え、意識されているのは一部で、大部分は無意識下に隠れていると主張した。

フロイトが夢を無意識のリビドーの抑圧によって生じた病的なものと理解したことに対して、 その一番弟子であったカール・グスタフ・ユング(1875 - 1961)は、夢をポジティブな意味を持つものとして捉え直した。 ユングはリビドーを性に限らず、人間の生命力と創造力の源として捉え、神話・宗教・芸術という形で表現されると考えた。人間の意識を氷山の一角とすると、そのすぐ下には個人的無意識があり、もっと深部に下るに従って、家族、血族、 全人類、先祖も含めた全人類とそれぞれ無意識の層を共有していると考え、集合的無意識という概念を想定した。親しい人や可愛がっていたペットが亡くなる時に、虫の知らせがあった、先祖が夢枕に立ったという話を耳にすることがある。それはもしかしたら、この集合的無意識を通じてコンタクトを取っているのかもしれない。

夢というものは、その人自身が見るもので、人は、他者の夢を見ることはできない。夢は秩序なき世界の連合体であり、現実ではありえない不思議な理が、その世界を支配している。そこでは物理法則は存在せず、時間は流動的で意味をなさない。睡眠中、意識は身体から抜け出しているので、起きている間に感じている「時間=身体をベースとした感覚」からは解放されている。つまり、夢はいわゆる「時間」からはまったく自由なのだ。私たちが夢を認識するのは目覚めてからなので、そのビジョンは脳によって時系列的に編集されているが、実はそれらはすべて一瞬のことなのだろう。私も、いくつかの夢の記憶を一連の旅の中の断片のように感じ、時間が未来から現在にめがけてやってくるように感じることもある。

2011年3月11日、東日本大震災が起こった。

夢にはタイムマシンのように、過去・現在を自在に移動する瞬間がある。夢という他者が確認できないコミュニケーションが、震災によって切り離されてしまった絆を確かなカタチを持って繋ぎとめている。

という記事を読んだことがある。

結果は事象の終着点となるが、亡き人が「夢」によって現在を侵犯する形で関与し続けることで、過去に起こった事実が上書きされ、保存され、忘却しようとする社会に対して抵抗する力を持つのだ。

私は今でも時々「眠っている時が現実で、目覚めた時は夢と言われている世界の続きにいるのかもしれない。」と想像しては、ひゅっと、そこから逃走することがある。理不尽なこと、矛盾、虚無感・・・世界は不条理に満ちている。眠りは私のアジールなのだ。

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