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氏子が育む繋がり

金刀比羅社から小栗橋を渡り、自転車でびゅ~んと対岸の小さな工場エリアへ。工場の佇まい、味わいがあって、かっこいいな〜。

柳島神社
残念ながら、ここは検索しても神社名しか分からず・・・

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なぜかここに石が!
これも残石なのかな・・・

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二女子町にある秋葉神社へ。

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二女子の町名は江戸時代の二女子村からきているそうだ。昔、大領主が7人の娘を7つの村に嫁がせ、それぞれ一女子村から七女子村と名付けたなどという説は、面白い。江戸時代には二、四、五、七女子村しか残っていなかったようで、その頃にはすでに由来は分からなくなっていたらしい。

1913年(大正2年)に下之一色と新尾頭の間(この辺り)で下之一色電車軌道が開業した。それが津嶋街道を走るようになったそうだ。そんな早くに電車が通っていたとは!驚き!!

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[出典:津島軽便堂写真館]

中川運河にかかる長良橋を渡る市電。当時の雰囲気が分かる貴重な写真を見つけた!工場街を走る路面電車は、なんだか昭和の男前な感じ・・・
下之一色電車軌道は1937年に名古屋市電に買収され、1969年に廃線となったそうだ。



秋葉神社のすぐ近くに、今まで巡った中では一番敷地面積が広いと思われる熊野神社があった。熊野社の創建は江戸時代前期の1633年。地理的には、ほぼ佐屋街道沿いといっていい場所にある。佐屋街道が本格的に整備されたのは1634年のことで、家光の上洛にあわせて尾張藩初代藩主の義直が開いたとされている。佐屋街道の元になる道は古くからあったようで、家康が大坂夏の陣で駿府から大坂へ向かうときは佐屋街道を通っているそうだから、江戸時代は大勢の人が立ち寄ったかもしれない神社だ。

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境内に入って一番初めに目についたのが、ゴロリと置かれた石3つと、臼らしき石。残石ツアーになりつつあったので、この石が気になって仕方がない。石の説明が書いてあったに違いない木の立札からは、文字らしいものは消えていた。

ふと、社務所らしき建物に向かうおじさんと目があった。

「あの〜、この石はなんですか?」
「う〜ん、臼かな。蕎麦屋にあった臼。」
「ん・・・? なんで、こんなところに置かれているんですか?」
「分からん・・・」

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おじさんにアート・プロジェクトのリサーチで、神社巡りをしていることを伝えると、神社のすぐ前の自宅からなんと「中川区の歴史」という本を持ってきてくれた。ここらのことは詳しいからと、奥さんにも声をかけてくださり、お二人で神社のことやこの辺りの思い出を話してくださった。

この辺りでは、昔はベニヤ板を作る工場が多かったそうだ。運河から丸太が運ばれ、それをベニヤ板に加工していたそうなのだが、おが屑に引火するのか、火事も多かったので、神社の中にも火の見櫓があったそうだ。火の見櫓は、ちょうどあの辺り、と、奥さんが大きな木の方を指差した。子供のころはこっそり登ったわねと、その柔らかい声に懐かしさがこもる。

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熊野神社では、毎年一月十五日に木を燃やしてどんど焼きが行われるという。「どんど焼き」とは、小正月に行われる火祭り行事で、満月と神聖な火による浄化の力で、集落の人々の1年間の災いを払い、豊作や商売繁盛、家内安全、無病息災、子孫繁栄を願うものらしい。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、どんどん燃えるから、燃やし始めに青竹から「どんっ」と音がするから、など諸説あり、音の響きからその名前がついたようだ。

「どんど焼きの準備は大変なんだけど、皆で協力しあうの。それが地域の繋がりを育んできたのだけど、今後が心配・・・。」
神社は地元の大切な存在。氏子として神社を管理し守ることは、地域の繋がりを育むための大事な役割を担っているのだけど、氏子という自覚がある方は年々減ってきているのではないかと、奥さん。

「あなたに話をしているうちに、あぁ、私こんなふうに考えていたんだって… こんなこと話すの初めてだわ。」

奥さんのお話に、昔から続く風習が、地域のコミュニティの活性化に重要な役割を果たしてきたことにあらためて気づかされた。

「来週返してくれればいいから」と、ご夫婦は、見ず知らずの私に貴重な本を貸してくださった。奇跡のような出来事に、心がふわりと軽くなった。

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2021.10.7
中川運河助成ARToC10 採択事業
アート・プロジェクト 「mind scape」article.03
https://www.yokokoike.com/mindscape.html

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