見出し画像

父の命日・生命力の強かった父のこと

今日は父の命日です。

父が亡くなった日のことを2年前に書きました。

子どもの頃は父との思い出があまりなくて、関係性が薄かったのは確かなのですが、それでも記憶の扉が開くと、次々と良くしてもらったことを思い出すことができました。

記憶というのはあてにならないものですね。

父は88歳で亡くなったのですが、それより若い時に2回あの世に還りかけています。

1回目は確か50代の時で、突然の入院でした。

医師からは「危ない状況なのでご家族は集まった方が良い」と言われ、結婚していた私たち娘3人も病院に集まりました。

それでも何とか持ち直して回復し、その後医師から手術を勧められたのですが、父は自分の意志で手術をしない選択をして退院し、生活習慣を変えたりして、その後は再発することなく元気になりました。

2回目は別の病気で更に危機的な病状で、新幹線の中での突然の発症。

父ひとりの旅行中に、本来なら止まらない駅で新幹線を止めて、病院に担ぎ込まれました。

普通ならこの時点で助からない方も多い病気でした。

その後、父は危ない所から持ち直しました。

そしてこの時は、父も同意して手術を受けることになりました。

心臓に近い動脈の手術であるため、成功してもその後の回復や後遺症に対する不安も大きかったと思います。

それでも、手術を受けないというのは、家族からしても「無い」という感じでした。

私は手術2日前にお見舞いに行き、父から「もしもの時には机の引き出しを見てくれ」と言われ、父も覚悟しているのだなと思いました。

ところが、手術当日の朝に、父は手術をキャンセルしたのです。

大きな病院の偉い専門医に執刀してもらうことになっていて、万一の場合に備えて、輸血に協力してもらう為、会社の部下数人に病院に来てもらう手筈も整っていた矢先でした。

そしてその後病状は落ち着いて、退院することができました。

母はよく父のことを「爆弾を抱えて生きている」と言っていましたが、爆弾は最後まで不発のままでした。

15年以上経って亡くなった時、原因はその病気とは関係ないものでした。

当時、インターネットもない、2回とも突然の発症と緊急入院で、予め本で調べることもできない、家族とはあまり会話のない関係性で誰かに相談も出来ない状況で、父はどうやって手術をキャンセルする決断をしたのだろう?

どれだけ考え、迷ったのだろう?

そして、当日にキャンセルを申し出るには、どれだけ勇気が要っただろう?

当時は自分の子育てで忙しくて、あまり深く考えなかったけれど、父が亡くなってから、父に訊いてみたかったことがたくさん出てきました。

大病を繰り返したので健康な人とは言えないかと思いますが、決断力と生命力は人一倍強い人だったのだなぁと思います。

因みに、亡くなる少し前、頭がしっかりしていた時の父の言葉。

「平和ボケと言われようがなんだろうが、日本の平和を守ってくれ。これがお父さんの遺言だ。」

そう言って笑っていました。

うーん、なんかオフィシャルにはカッコいい感じですが、娘としてはもっとプライベートなメッセージが良かったかな。笑

そして、広島で被爆した母は、大病をしたことがなく、先月103歳になりました。


大正生まれ…強いです。


(同じ選択をしても同じ結果になるわけではないと思っています。この病気は手術しなくても大丈夫と思われないように、父の病名については伏せてあります。)


♪YOKOは作曲活動もしています♪

オリジナル曲 Beautiful

この楽曲はこちらのオリジナルアルバムに収録されています

アルバム紹介のトレーラーです


サポートいただきありがとうございます。いただいたサポートは、参考図書の購入など、更に良い記事を書くために使わせて頂いています。