なぜ物語を求める人と求めない人がいるのか

千野帽子さんの有名な本『人はなぜ物語を求めるのか』を読んだ。

私は以前から存在を知っていましたのだが、テラケイさん(別名 御田寺圭さん・白饅頭さん)が強く勧めてくれたため、やっと読むに至った。

非常におもしろく、私が以前から抱いていた問題意識を整理でき、さらに新たな問題を設定することができた。

おもしろい理由、良かった点については、既に多数の方がネットに書いているので、私が書かなくてもよいと思う。

代わりに私が興味を持った点を書くことにしよう。

なぜ物語を求める人と求めない人がいるのだろう?


『人はなぜ物語を求めるのか』から引用しよう。

人はできごとの理由を自分の知っているパターンに無理やり落としこみたい 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』第3章、ちくまプリマー新書、2017年
ほんとうのことを知りたいというよりも、未知のできごと(異なるもの)をすでに知っているパターンの形に押しこめて消化(同化)してしまいたい、という感情です。つまりこれが、強引にストーリー化してしまう、とういうことなのです。
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』第3章、ちくまプリマー新書、2017年

たしかにその通りなのだが、しかし既知のパターンに無理やり落しこむ度合いにも個人差があるはずだ。「パターン」の代わりに「ものの捉え方」「枠組み」「フレーミング」と表現してもよいだろう。

テレビで見たニュース、人から聴いた話、自分が体験した現象に対し、「それってこういうことでしょ」「よくある話だね」「それなら私が前からやっていたよ」と、何でも自分の既知の枠組みに回収(矮小化)する人もいれば、その対象から新規性や独自性を発見する人や、自分の中にあった古い枠組みをバージョンし、新しい枠組みを手に入れる人もいる。

既知の枠組みに回収する人と回収しない人は二分されるのでなく、グラデーションのように様々な強弱の度合いがあるはずだ。

また、『人はなぜ物語を求めるのか』の中で、公正世界の誤謬(公正世界信念、公正世界仮説)についても解説があった。「公正世界」とは千野帽子さんが作った言葉ではない。

「世界は公正であるので、正しい行為をした人は正しく報われ、間違った行為は罰せられる」という認知バイアスを、公正世界の誤謬、または公正世界信念、公正世界仮説と呼ぶ。

公正世界信念には良い側面もあるが、悪い側面もある。自然災害で被災した人たちを「日頃の行いが悪いから天罰を与えられたんだ」と解釈する現象や、防ぎようがない犯罪の被害に遭った人に「あの人に原因があったんだ」と無根拠に決めつけて責める現象が、公正世界信念の悪い側面にあたる。

2018年11月17日に発売された、御田寺圭さん(別名テラケイさん・白饅頭さん)の本『矛盾社会序説』の中でも「公正世界信念」が重要な着眼点として機能していた。

公正世界の誤謬(公正世界信念、公正世界仮説)についても、個人差があるようだ。

公正世界信念を定量的に把握する試みは進められており、個人がどのくらいの強度で公正世界信念を持っているかについては差があることが判明している。
御田寺 圭『矛盾社会序説』p.147、イースト・プレス、2018年

上記の記述があったが、定量的に把握する取り組みや、強度の差については、これ以上の詳細な記述がなかった。

おそらく「公正世界信念を非常に強く信じる」「少し強く信じる」「弱く信じる」「信じない」などと様々な強度があるはずだ。

おそらく私の力でも調べようとすればソースの文献にたどり着けるだろうが、まだ何も調べていない。

ここで私は筆者の千野帽子さんと御田寺圭さんを批判したいわけではない。まず、すべての情報を本に載せようとしたら膨大な字数になってしまう。また、それぞれの筆者ごとに得意分野があるので、不得意な分野までも軽率に書くべきではない。

脱線したが、まとめると、私が興味を持ったことはこれだ。

物語を求める強度を増減させる要因は何か?個人差を生む要因は何か?


その人が受けた教育だろうか?

生まれつき持っている遺伝子だろうか?

子どもとお年寄りでは差があるだろうか?

精神疾患や発達障害や知的障害と関係があるだろうか?

仕事や学業で物事を数値化する習慣がある人は、物語を求めずに客観的な数値を求める傾向にあるのだろうか?

統計学を学んだ人と学んでいない人で、物語を求める強度に差があるだろうか?

文系と理系ではどうだろう?

誰か教えてくれませんか?


そして今これを書いている私は、「物語を求めること」についての物語を求めているのだろうか?

千野帽子さんは「人はできごとの理由を自分の知っているパターンに無理やり落としこみたい」と書いた。

今これを書いている私は、「人はできごとの理由を自分の知っているパターンに無理やり落としこみたい」という現象の理由を、自分の知っているパターンに無理やり落としこんでいるだろうか?

マトリョーシカのような入れ子構造だ。


さらにもう一点、私が興味を持ったことを書きたい。

「物語」「ナラティブ」「語り」「ライフストーリー」「ライフヒストリー」

様々な言葉があるが、それぞれの意味は違う。私もきちんと整理できていないので、今後、学びたいと思う。


さて、私は『人はなぜ物語を求めるのか』を読む以前に、noteで「人はなぜ情報不足でも自信満々なのか?」と題した文章を公開した。

まずタイトルから似ているし、内容も似ているが、決して盗作ではない。皆様からお読みいただけたら幸いです。

以上です。


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誰もが日常的に体験する悪口、嫌味や皮肉、詭弁、ネットスラングについて考察します。一見すると個人の問題に思えることでも、実はよく考えると社会の問題とつながっているのではないか、との仮説を立て、個別具体的な事柄から普遍性を発見したいと思います。1か月に1回から4回程度の更新です。マガジン「街河ヒカリの対話と社会」にまとめています。

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街河ヒカリ

まちかわ ひかり/理系/社会学/創作/批評/評論/科学技術コミュニケーション/文理融合/かわいそうランキングを考える/マイノリティ/バナナはおやつに含まれますか/メールは hikarimachikawa2017アットジーメールドットコム

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コメント2件

街河ヒカリさん> 情報不足に関する記事も含め拝見しましたが、僕の最近の興味関心とすごく一致していておもしろかったです!ヒカリさん自身も、物語付けしたくなる要因は何か?という問題を一般化して考えられようとしている印象を受けました。僕も一般化して各現象に対するフレームを作ろうとするのが癖です(物理好き?)。「思い込み」「意味付け」の力も含め、あらゆるものを一般化して考えようとして無限ループに陥ります。
Takuma Furukawa さん。コメントをありがとうございます。
私は個別具体的なたくさんの事柄に共通する普遍性を発見し、上位概念と下位概念を相互に行き来したいと思い、思索を深めています。それがTakuma Furukawaさんのおっしゃる「一般化」ということかと思います。
考え方の考え方の考え方……基準の基準の基準……と考え続けると、マトリョーシカのように果てしなく続いてしまうので、この現象をどう整理するか?ということに、私は興味があります。
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