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BUMPとRADは似てるのか?綾波レイと君の名は。

RADは君と僕の絶対性を歌う。マイノリティとして世界の周縁にいたが『君の名は。』ではマジョリティに向けて直球勝負で挑んだ。BUMPは痛みと自分が一つになることを重視する。過去と今の多重化に真骨頂がある。『3月のライオン』と共鳴する。これが本稿の要点だ。

「バンプとラッドは似てるのか?」この話題は何周目だろう。しかし両バンドは常に変化しているから、「似てるのか?」という問いを常に更新しなければならない。

本稿では、主に歌詞へスポットライトを当てる。

哲学研究者であり『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』の著者である戸谷洋志氏、「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」で「さやわか賞」を受賞した北出栞氏らの考察と、両バンドのインタビュー記事を参照し、「似てるのか?」という問いを深めると共に、BUMP OF CHICKENとRADWIMPSの魅力を再発見することを試みたい。

なお、雑誌などから引用した箇所には(1)、(2)、(3)という番号を振り、最後に引用元を明記したので、本文中に番号があっても無視して読み進めていただきたい。

目次と引用箇所も含めると、全体で2万7千字の大ボリュームである。今後も加筆修正を加える可能性がある。

読者の皆様にはまずお礼を申し上げたいと思います。街河ヒカリのページを訪問してくださり、ありがとうございます。

それでは、最後までお付き合いください。

以上、第1章「ご訪問ありがとうございます。」でした。

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目次

第1章 ご訪問ありがとうございます。

第2章 俺と一緒にロックを変えようぜ。

第3章 日本語って、いいね。

第4章 藤原基央が歌にした女の子。

第5章 舞台上で狂いだした僕。

第6章 悲しみが消えないことが、なぜHAPPYなのか?

第7章 「天体観測」の続編か?音楽のマトリョーシカ。

第8章 「ハートに巻いた包帯」をなぜほどくのか?

第9章 新海誠監督に全部見透かされた。

第10章 彗星が落ちた『君の名は。』、彗星が透明なバンプ。

第11章 中学生でプロ棋士。

第12章 「空窓」


第2章

俺と一緒にロックを変えようぜ。


まずはBUMP OF CHICKENとRADWIMPSがどのようなバンドなのか、簡単におさらいをしよう。

BUMP OF CHICKEN(バンプオブチキン、通常バンプ)は、ボーカル・ギター・作詞作曲の藤原基央(ふじわら もとお)、ギターの増川弘明(ますかわ ひろあき)、ベースの直井由文(なおい よしふみ)、ドラムの升秀夫(ます ひでお)の4人から成るロックバンドである。メンバー全員が1979年生まれで、2018年の現在で38歳から39歳だ。

バンド結成のきっかけは升秀夫が「女の子にモテたい」と思ったことだった。

当時はメンバー全員が同じ中学校に通っていたが、藤原基央は学校の至る所で歌を歌っていた。テレビで流れるような流行の歌や、校歌(!)まで歌っていた。

そうして升秀夫は藤原基央の歌がうまいと知り、藤原基央の胸ぐらをつかみ、「俺と一緒にロックを変えようぜ」と声を掛け、バンド結成につながった(1)。

高校1年生で現メンバーとして初めてのライブを行い、2000年にメジャーデビューした。

RADWIMPS(ラッドウィンプス、通常ラッド)は、ボーカル・ギター・作詞作曲の野田洋次郎 (のだ ようじろう)、ギターの桑原彰(くわはら あきら)、ベースの武田祐介(たけだ ゆうすけ)、ドラムの山口智史(やまぐち さとし)の4人から成るロックバンドである。メンバー全員が1985年生まれで、2018年の現在で32歳から33歳だ。

2001年にRADWIMPSを結成し、2004年に現メンバーとなり、2005年にメジャーデビューを果たした。

2015年にはドラムの山口智史が持病の悪化のため無期限休養に入り、ドラムにサポートメンバーを迎えた。

つまりBUMP OF CHICKENとRADWIMPSはどちらもメンバー全員が同じ年に生まれた4人組ロックバンドであるが、BUMP OF CHICKENのほうが先輩だ。

なお、RADWIMPSのメンバーはBUMP OF CHICKENのファンだと公言したことがあったらしい。

BUMP OF CHICKENとRADWIMPSの間には交流があり、野田洋次郎のInstagramには藤原基央とのツーショットが投稿されたこともあった。

BUMP OF CHICKENのバンド名の意味は「弱者の反撃」で、RADWIMPSのバンド名は、「すばらしい、いかす」と言う意味の「rad」と「意気地のない人、弱虫」と言う意味の「wimp」を組み合わせたらしい。

BUMP OF CHICKENとRADWIMPSはどちらもテレビにほとんど出演しないが、それにもかかわらず、日本のロックバンドの中で特に売れている。

Googleに「バンプ ラッド」と入力すると「似てる」というワードがサジェストされる。

しかもこの二つのバンドはどちらも「変わった」と評される。実際に聴いてみると、確かに初期の頃と今ではサウンドも歌詞も違う。BUMP OF CHICKENとRADWIMPSの歴史を振り返り、何がどのように変化したのかを丁寧に辿ることにしよう。

まずは先輩のBUMP OF CHICKENからだ。


第3章

日本語って、いいね。


BUMP OF CHICKENのボーカル・ギター・作詞作曲の藤原基央は、最初は英語の歌詞でオリジナル曲を書いていた。辞書を引いて英語の例文をそのまま使うような滅茶苦茶なものだったと本人が振り返っている。

しかしその後、藤原基央が16歳のとき、初めて日本語で書いた曲「ガラスのブルース」が完成したことが決定的な転機となった。

雑誌『CUT』から引用させていただく。

以前から学校教育に違和感を感じていたことや、進学した高校の雰囲気が合わなかったことから藤原、高校1年の秋に中退。やがて東京でひとり暮らしをするように。その生活の中で“ガラスのブルース”が完成。3人は絶賛し、直井は「藤くんひとりで音楽をやれ」と言うが、藤原は「バンプの4人でやりたい」と言う。(2)

高校を中退した藤原基央は、1日に1フレーズのペースで少しずつ時間を掛けて歌詞を書き、「ガラスのブルース」を完成させ、そのときは謎の「できた感」があったと振り返っている(2)。

藤原基央の「ガラスのブルース」を聴いたメンバーは「すごい衝撃」「日本語っていいね」と驚いた(3)。

以前から友達に演奏を聴いてもらう機会はあったが、「ガラスのブルース」を演奏すると友達からの反応がまったく違った。藤原も戸惑った。「何だ?この現象は?」(2)

それからはライブに来る人が増え、地元の仲間が強く応援してくれるようになった(2)。

「音楽を通して想いを伝えるってことが、初めてそこで気がついた」(升秀夫)(3)

「ガラスのブルース」にはBUMP OF CHICKENの原点が詰まっている。

生と死、時間と記憶、空と星と宇宙、そして猫。

この世界観をBUMP OF CHICKENは現在まで20年以上に渡り一貫して歌い続けることになる。次々と新たな曲を産み出し、知名度は上がり、演奏の技術も上がり、曲の雰囲気も変わったが、本質は「ガラスのブルース」から変わらない。

「ああ 僕はいつか 空にきらめく星になる
ああ その日まで 精いっぱい歌を唄う」
「ボクはイマをサケブよ」
「ああ 僕の前に クラヤミがたちこめても
ああ 僕はいつも 精いっぱい歌を唄う」

「ガラスのブルース」は16歳の決意表明だ。


第4章

藤原基央が歌にした女の子。


「ガラスのブルース」から現在に至るまで、藤原基央は歌詞とタイトルに英単語と英語のフレーズを使っているが、歌詞のメインは日本語であり、英語がメインの歌詞はない。

しかしRADWIMPSのボーカル・ギター・作詞作曲を手がける野田洋次郎は、幼少期をアメリカで過ごしたため英語が堪能であり、英語の歌詞と日本語の歌詞の両方を書いている。

他にもRADWIMPSの歌詞には多数の特徴があるが、まずは2点だけ挙げたい。

特徴の1点目は、歌詞の情報量が多く、かつ、普通ではない言葉を使うことだ。一世を風靡した「前前前世」のように、野田洋次郎は自分で言葉を発明してしまう。ラップのように韻を踏む歌詞や、だじゃれや言葉遊びのような歌詞がある。

特徴の2点目は、歌詞に時代と社会情勢が反映されることだ。

「カラスが増えたから殺します
さらに猿が増えたから減らします
でもパンダは減ったから増やします
けど人類は増えても増やします」
「おしゃかしゃま」より

社会の矛盾や、「携帯電話」のようなその時代のカルチャーを歌にする。「週刊少年ジャンプ」というタイトルの曲さえある。

野田洋次郎は大量の言葉をマシンガンのように歌い、聴き手の脳をオーバーフローさせる。独創的な言葉とサウンドを使うため、鍵と鍵穴のように聴き手の感性にぴったりとはまったとき、聴き手が感動する。

一方、BUMP OF CHICKENでは藤原基央の個人的体験を元にした曲もあるが、彼は普遍的な、童話や寓話のようなフィクション性のある歌詞を書いている。歌詞には頻繁に動物が登場する。特に猫だ。藤原基央がその時代の流行や社会情勢を歌詞にすることはほとんどない。

しかし例外はあった。

今からおよそ20年前、まだ10代だった藤原基央は、当時流行していたアニメの登場人物を歌にしたことがあった。アニメの制作者から依頼があったわけでなく、主題歌に採用されたわけでもない。藤原基央が自分の意思で歌にしたのだった。

曲名は「アルエ」だ。1999年の1枚目のアルバム『FLAME VEIN』に収録された。

「白いブラウス似合う女の子 なぜいつも哀しそうなの?
窓際に置いたコスモスも きれいな顔うなだれてる
青いスカート似合う女の子 自分の場所を知らないの
窓際に置いたCOSMOSも 花びらの色を知らないの」

その女の子は、『エヴァンゲリオン』の綾波レイだ。イニシャルがR.A.だから「アルエ」なのだ。

しかし「アルエ」が綾波レイの歌とは知らなくても、ある女の子一人に向けた普遍的な歌として違和感なく聴くことができるだろう。つまり「アルエ」をきっかけにBUMP OF CHICKENの音楽全体における「君」と「僕」を考えることもできるはずだ。

有名なサビの歌詞はこうだ。

「ハートに巻いた包帯を 僕がゆっくりほどくから」

なぜハートに包帯があるのだろう?一般的に包帯は傷口を保護するために巻く道具だが、「君」のハートには傷口があるのだろうか?まだ傷が治らないのに包帯をほどいたらダメじゃないのか?包帯に巻かれたハートとは、どのようなハートなのだろう?ハートに巻いた包帯をほどいたら、「君」と「僕」はどうなるのだろう?

ここからは、綾波レイについてではなく、より普遍的に「君」と「僕」について考えてみよう。


第5章

舞台上で狂いだした僕。


BUMP OF CHICKENの歌詞には「君」と「僕」という言葉が何度も登場するが、誰のことだろう?

「君」と「僕」について考えるにあたり、BUMP OF CHICKENは物語形式の歌を作ることを思い出そう。

物語形式の歌として「K」「ラフ・メイカー」「車輪の唄」「ウェザーリポート」などがあるが、2000年の2枚目のアルバム『THE LIVING DEAD』には第1曲に「Opening」が、最後の第10曲に「Ending」が収録されている。

「Opening」の歌詞はこうだ。

「ええと、うん、そうだ!
いくつかの物語をプレゼントしてあげる」

「Ending」の歌詞はこうだ。

「少なくとも 君には味方がいるよ
プレゼントの物語の中の住人たち」

つまりアルバム『THE LIVING DEAD』はリスナーへのプレゼントであり、アルバムの曲に登場する「君」と「僕」は「プレゼントの物語の中の住人」ということだ。

ところで、「Opening」と「Ending」は元々一つの曲であり、その曲の冒頭だけが「Opening」というタイトルで、終盤だけが「Ending」というタイトルでアルバム『THE LIVING DEAD』に収録されたため、中盤は収録されなかった。元の曲は未公開であり、ライブでも演奏されたことがなかった。しかし8年後の2008年に発売されたカップリング集のアルバム『present from you』の最後には、一つになった元の曲が収録された。タイトルは「プレゼント」である。

なお、「Opening」と「Ending」の語り手、すなわち「プレゼント」の語り手は「ラフ・メイカー」である。

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写真上:アルバム『THE LIVING DEAD』のジャケット。この男が「ラフ・メイカー」である。

2007年の5枚目のアルバム『orbital period』には88ページもの大ボリュームのブックレット「星の鳥」が付属しており、王様と星の鳥の物語(音楽ではなく文章であり、創作である)が書かれている。もちろん作者は藤原基央だ。ブックレット「星の鳥」の物語と収録曲「ハンマーソングと痛みの塔」の物語は、違いはあるが、類似している。

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写真上:ブックレット「星の鳥」の表紙。

こうして振り返ると、「BUMP OF CHICKENの曲に登場する『君」と『僕』は物語の世界の住人であり、実在しない」とみなすことができるだろうか?

しかしBUMP OF CHICKENの曲の中では物語形式を取らない曲のほうが多数を占めている。

BUMP OF CHICKENのメンバーがインタビューなどで、メンバーの実体験が基になったと公言した曲や、藤原基央が友達に贈ったと公言した曲もある。また綾波レイのような架空の人物が反映されている歌詞もある。

つまり歌詞の「僕」が藤原基央だとみなすこともでき、「君」が藤原基央の友達やBUMP OF CHICKENのリスナーだとみなすこともできる。

しかし、「君」と「僕」が実在の人物か、架空の人物かを二分することは困難であり、表現されている内容が現実か物語かを二分することは困難である。そもそも二分する必要がない。これは物語形式を取る曲と取らない曲の両方に対して言えることだ。

そこで私はこう結論を出した。

BUMP OF CHICKENの歌詞に登場する「君」と「僕」には、現実の性質と物語の性質の両方があるが、どちらかというと物語の性質のほうが強い。

2000年のメジャーデビューシングル「ダイヤモンド」の中ではこう歌う。

「やっと会えた
君は誰だい?
あぁ そういえば 君は僕だ
大嫌いな弱い僕を
ずっと前にここで置きざりにしたんだ」

ここでの「君」は 「主人公の内面にいる主人公」である。

BUMP OF CHICKENの他の曲でも、自分が自分と向き合うこと、孤独と向き合うことが重視されている。

BUMP OF CHICKENの音楽においては自分と他者は区別されており、独立している。他者を知ることの難しさ、他者と時間を共有できない切なさが何度も表現されている。

「溜め息の訳を聞いてみても 自分のじゃないから解らない
だからせめて知りたがる 解らないくせに聞きたがる

あいつの痛みはあいつのもの 分けて貰う手段が解らない
だけど 力になりたがるこいつの痛みも こいつのもの」

「真っ赤な空を見ただろうか」より

自分が他者を助けることはできない。しかし、自分が「他者が自分自身(=他者)と向き合うこと」を手伝うことはできる。触媒のようなものだ。

「ダイヤモンド」 から7年が経ち、2007年に発表されたシングル曲「メーデー」の歌い出しはこうだ。

「君に嫌われた君の 沈黙が聴こえた」

「メーデー」は「ダイヤモンド」よりも複雑なひねりが加えられている。
つまり「相手の内面にいる相手」の救難信号を聴いた「主人公」が「相手」の口付けを 「相手の内面にいる相手」 に届けるというストーリーなのだ。しかも救難信号が「沈黙」なのだ。

もう1点重要なことがある。

「オンリー ロンリー グローリー」(2004年)

「特別じゃない この手を
特別と名付ける為の光」

「花の名」(2007年)

「あなたが花なら 沢山のそれらと
変わりないのかも知れない
そこからひとつを 選んだ
僕だけに 歌える唄がある
あなただけに 聴こえる唄がある」

「君は世界で一番美しい特別な花だ」とは歌わない。

「メーデー」(2007年)

「呼ばれたのが 僕でも僕じゃないとしても
どうでもいい事だろう 問題は別にあるんだ」

「君を救うことができるのは世界でただ一人僕だけだ」とは歌わない。

藤原基央が歌にする「君」と「僕」は、その他の多数の人々と同じような人である。特別ではない。ちっぽけな存在だ。

一方、RADWIMPSの野田洋次郎は対照的だ。BUMP OF CHICKENはほとんどラブソングを作らないが、RADWIMPSはラブソングを作る。特に2006年のアルバム『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』までは野田洋次郎の実体験が反映されていたようだ。

「25コ目の染色体」(2005年)

「次の世の僕らはどうしよう?生まれ変わって まためぐり合って
とかは もうめんどいからなしにしよう 一つの命として生まれよう
そうすりゃケンカもしないですむ どちらかが先に死ぬこともない」

「ふたりごと」(2006年のシングルであり、その後2006年のアルバム『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』に収録される)

「神様もきっとびっくり 人ってお前みたいにできてない
今世紀最大の突然変異ってくらいにお前は美しい」
「お前が見てた世界見てみたいの」
「もう決めたもん 俺とお前50になっても同じベッドで寝るの
手と手合わせてたら血もつながって 一生離れなくなったりして」

逆説的だが、BUMP OF CHICKENの音楽では、「君」と「僕」は一つになれない独立した他者である。特別ではない「君」と「僕」が、自分で選んだ行為があるからこそ、「君」と「僕」は特別になる。

2006年の『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』まで、RADWIMPSの音楽では、「君」と「僕」は特別な存在だった。「君」と「僕」は一つになろうとした。

しかし転換点があった。

2009年の5枚目のアルバム『アルトコロニーの定理』では歌詞とサウンドの両方がそれ以前と大きく異なっている。アルバムのタイトルに番号を付けることもやめてしまった。

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写真上:アルバム『アルトコロニーの定理』のジャケット。

『アルトコロニーの定理』に収録された「謎謎」は象徴的だ。

どうやら「謎謎」に登場する「君」は、「君(=自分)」を嫌いになったらしい。

「君はそいつを嫌いになってしまったと言う
もう一緒にいられない 消えてほしいと言う
内側から見たそいつを僕は知らないけど
外から見たそいつならよく知っているから」

「外からずっと見てた僕の話を聞いてよ」

野田洋次郎の解説を聴こう(インタビューアー=鹿野 淳)。

実体験から生まれた歌ですか?
「そうですね。相手のために何が言えるか…………いや、『言いたい』って思った歌です。もの凄い大事な人がへこんでるわけですよ。…………………それがすべてですね(笑)。その時に、『でも俺はこう思ってるよ』って言いたかった。……(その子は)半分しか見えてないし、俺は俺で半分しか見えてないけど、でも……」
◆とにかく相手を励ましたくて、こういう奇跡の言葉を綴っていった感じなんだ?
「そうですね。今まで自分のために言葉を使い過ぎてたけど、これは相手を励ますために使う言葉…………だから書いてて嬉しかったんです。俺が持っている語彙力のすべてを用いてこの人を励ましたいって思う瞬間……そのために、ありとあらゆる言葉を使おうって思ってました。で、そうやって歌詞を書いている自分も嬉しかった。だから結局は自分に返ってくる、自分が書いてて嬉しいなって思っちゃってるんですけど……だけど、言葉として相手に向かっているっていうことが、凄く嬉しかった(4)

2009年の「謎謎」では、「君」が「君」を嫌いになったから、「僕」が「君の知らない君」を「君」に教える。

BUMP OF CHICKENの2007年の曲「メーデー」では、「僕」の媒介で「君」が「君に嫌われた君」と向き合う。

テーマが似ていないだろうか?

BUMP OF CHICKENのほうが2年早い。

野田洋次郎の歌詞が藤原基央の歌詞に接近したか?

野田洋次郎は2011年の6枚目のアルバム『絶体絶命』で、さらに別の想いを歌にした。

BUMP OF CHICKENと違いRADWIMPSは物語形式の音楽をほとんど作らないが、RADWIMPSの「学芸会」は物語形式だ。

「僕」は学芸会で変哲もないただの脇役である「少年D」の役名を与えられた。

「僕」がいなくても始まる舞台だ。いてもいなくても一緒だ。

「僕」は誰からも見られない。

しかし「僕」は「僕は僕の世界では 誰がなんと言おうと主人公です」という意志がある。

周囲の人は「僕」の想いをくみ取ることができず、「僕」に向かって「何言ってんの?」「それは君の世界の話でしょ?現実の中の話はこう」と言い放つ。「僕」は厄介者として扱われる。

舞台上でついに「僕」は、狂いだしてしまう。

狂った「僕」は結局どうなったのか?私がここに書くにはもったいないので、皆様が自分の耳で聴いて感じてほしい。

実は「学芸会」の最後のサビだけはメジャーコードに移行し、違うメロディと違うコードに乗せて、同じ歌詞をもう一度歌う。「僕にとっては僕が主人公なんだ」と強く肯定し、決意表明をしているようにも聴こえる。

つまりある意味では「僕」は特別な存在で、別の意味では「僕」は平凡な存在だ。

インタビューで野田洋次郎は

「僕はマイノリティ」

と語ったことがある(5)。

マイノリティだと感じる理由は複数あるようだが、幼少期をアメリカで過ごしたことも、マイノリティと感じる要因の一つとなっているようだ。

野田洋次郎は以前から、自分のアイデンティティや、自分ではコントロールできない運命や宿命のようなものに対し、悩みながら向き合い、歌詞にしてきた。

特に2011年のアルバム『絶体絶命』にはマイノリティとしての意識や、自分が世界と対峙する姿勢が濃厚に表れている。

「DUGOUT」には「僕みたいな敗者」、「だいだらぼっち」には「僕はもうダメなんだ 神様の失敗作」という歌詞がある。

ずっと後の2016年のアルバム『人間開花』に収録された「棒人間」ではもっとストレートに歌っている。

「ねえ 僕は人間じゃないんです ほんとにごめんなさい
そっくりにできてるもんで よく間違われるのです」

「“棒人間”は、ここまでわかりやすく書けたのは初めてだと思う 。この感覚はずっと俺の中にあったもので。俺、ほんとに人間のモノマネをして生きてきたんですよね。で、人間の真似がほんとに大変で。(中略)そういう意識を一瞬でも持ってしまった人間は、たぶん一生つきまとう気がするんですよね。(中略)人間っていう枠からはみ出さないように生きることが人間なのかな、みたいな」(6)

野田洋次郎がインタビューで語ったことだが、RADWIMPSには「絶対に普通のことをしない」という目標があった(7)。

2016年のインタビューで野田洋次郎が過去の自分を振り返り、「俺はどっかで、メジャーでいながら端っこにいたいっていう思いがずっとあったし、それが自分達の個性だと思ってもいた」と言ったこともあった(8)。

ここから先に書くことは私の推測である。RADWIMPSのメンバーが発言したわけではない。

2011年の「学芸会」は、「変人」が無理矢理「普通」にされる現象を表現している。

不適切な表現かもしれないが、おそらく、野田洋次郎を含むRADWIMPSのメンバーは、「学芸会」を作るよりもずっと前から「自分たちは変人だ」と思っていたのだろう。

自分たちとは別に「普通の人たち」がいる。世界の中心で主役(=主人公)として生きているのは「普通の人たち」だ。自分たちは「変人」だから、居場所は世界の中心でなく、世界の周縁だ。それでも「自分たちにとっては」自分たちが世界の中心なのだ。

この矛盾したダブルバインド、板挟みのような苦しみがRADWIMPSのエネルギーだった。

だからこそRADWIMPSはテレビにも出ず、歌詞とサウンドの両方で独自路線を走り、リスナーをあっと驚かせる「発明」を何度も産み出した。ひねくれたような感性を輝かせた。

と、ここまで書いたことは、私の推測であり、RADWIMPSのメンバーが発言したわけではない。

しかし藤原基央が自分の他に主役(=主人公)がいるかのような歌詞を書いたことや、普通の人と変人を比較するような歌詞を書いたことは、おそらく、ない。

「誰の存在だって 世界では取るに足らないけど
誰かの世界は それがあって 造られる」

BUMP OF CHICKEN「supernova」より

「ご自分だけがヒーロー 世界の真ん中で
終わるまで出突っ張り ステージの上
どうしよう 空っぽのふりも出来ない
ハロー どうも 僕はここ」

BUMP OF CHICKEN「Hello,world!」より

これも私の推測に過ぎないが、藤原基央の感性では、この世界のすべての人は、世界にとっては脇役であり、その人自身にとっては自分が主役(=主人公)だ。

野田洋次郎の感性では、この世界には普通の人と変人がいる。世界の中心で主役(=主人公)として生きているのは普通の人だ。変人は脇役であり、世界の中心で生きることはできない。しかし、人は誰でも自分にとっては自分が主役(=主人公)だ。

この点が異なっている。

さて、世界の中心から外れた場所で変人として輝いていたRADWIMPSが、明らかにど真ん中に立ち、マジョリティの普通の人に向けて音楽を届けたことがあった。

読者の皆様はもうお分かりだろう。

2016年にRADWIMPSは、映画『君の名は。』の主題歌とすべての音楽を手がけ、大ヒットへと導いた。

だが『君の名は。』について考える前に、もう一度BUMP OF CHICKENの変遷を辿ろう。


第6章

悲しみが消えないことが、なぜHAPPYなのか?


2007年12月19日発売の5枚目のアルバム『orbital period』にはアルバム曲「ひとりごと」が収録されている。

なお、RADWIMPSの曲が「ふたりごと」でBUMP OF CHICKENの曲は「ひとりごと」だ。

藤原基央は「ひとりごと」についてのインタビューでこう語った。

「この曲の前にできた“時空かくれんぼ”のあたりから、独りよがりの極みの中で書いてんじゃねえかな?って思ってて」
(中略)
「独りよがりな気がしてきたっていうのは、きっと僕が 『ユグドラシル』のあたりから、ちょっとずつ表現力のリミッターがどんどん外れて行ってるからなんですよね。リミッターが外れると、難解なものは難解なまま届ける状態になるから、それをわかりやすく届けようとすると、真実から遠ざかることになるし、じゃあ、それはそのまま出したものが果たして届くのかどうかには保証が持てない。けど勝手に信じるしかないんだって、開き直りにも近いような感じが芽生えてきて」
(中略)
「メロディに乗ったときに初めて意味を持つ言葉、詞なんですよね、僕の歌詞は。そのメロと言葉の関係性の強さ、むしろそれが新しい言語なんだろうなって、(中略)昔から思ってたんですね。」
(中略)
「言葉が音に乗った時の強さを、以前よりももっと強く信じてるので、そういうふうになったんだと思います」(9)

藤原基央の歌詞は以前から独特ではあったが、表現のリミッターを外した藤原基央の歌詞は、ユグドラシル以降で難解なものも増えていった。わざと「難しくしよう」と思ったわけではない。

藤原「曲を作るっていうのは、仏師の人が流木から仏様を取り出すような作業だと思うんです。やっぱりちゃんと、あるべき姿で取り出してあげたいじゃないですか」(10)

BUMP OF CHICKENはその曲の本質を、ありのままに過不足なく響かせるために、歌詞とサウンドの両方を追求している。

だからこそ、BUMP OF CHICKENの音楽を味わうには体力を使う。それは藤原基央本人も自覚している。

2010年のインタビューではこう語った。

藤原「前からそうだったと思うんですけど、僕達の音楽は受け身でいてはいけないというか、能動的に聴いていかなきゃ何も感じられない種類の音楽なんじやないかなぁと思います。だからきっと、自分もこのアルバムを聴いた時に疲れたんじゃないかと思うんだけど………………要は、1から10までは提示してない音楽。たとえばその曲と聴く人の間に10歩距離があったとすると、そのうちの5歩分しか近づいてこないような音楽。残りの5歩分は、聴く人のほうが近づいていかなきゃいけない。そして、そうやって5歩分近づいていくということに意味がある音楽だと思うんです」(11)

BUMP OF CHICKENのファンは増加し、今ではスタジアムツアーができるほどだ。ファンたちの多くがBUMP OF CHICKENの一番の魅力としてが「歌詞」を挙げているのだから、「聴く人が5歩分の距離を自分で歩いて曲に近づく」という音楽の性質は、実際に機能しているといえるだろう。

ではなぜ、聴く人は自分で歩けるのだろう?

なぜなら聴く人が曲との距離を測り、歩く方向を見定めるための「道標」があるからだ。

その「道標」は、BUMP OF CHICKENの音楽に特有の、「反復と対比」だ。「ズレ」や「リフレイン」とも呼べるだろう。

「時空かくれんぼ」より

「安心すると 不安になるね」
「絶望すると 楽になるね」
「隠れる場所は どこであろうと 常に世界の中心だから
すぐ見つかって オニにされるよ ずっと探す側の かくれんぼ」
「隠れ上手な 自分であろうと 探す役目も自分だから
また見つかって オニにされたよ ずっと僕と僕との かくれんぼ」
「隠れる場所は いつであろうと 僕の心の中だったけど
君を見つけて 君に隠すよ ずっと探さなくてもいい かくれんぼ」

「HAPPY」より

「悲しみは消えるというなら 喜びだってそういうものだろう」
「消えない悲しみがあるなら 生き続ける意味だってあるだろう」
「終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる」
「続きを進む恐怖の途中 続きがくれる勇気にも出会う」

藤原基央は「HAPPY」についてのインタビューでこう語った(インタビューアー=渋谷陽一)。

「連立方程式じゃないですけど、ちょっとずつそうやって、僕の作詞の特徴かなあとも思うんですけど、いくつか対比を出すことによって、でも本当にイコールどういうことかっていうのは書かないっていう。この詞もそういう作りですね。やっぱりそこは、数が入るわけじゃないから、イコールなにっていうものは、また人によって変わってくると思うし」
—それは聴き手に委ねられるというか。
「そうですね」(12)

結論を書いてしまうと、「HAPPY」では「悲しみは消えない」。

これは私の解釈であり、藤原基央が発言したわけではない。

悲しみと喜びはどちらも同じ性質を有している。悲しみが消えるなら喜びも消える。しかし、その人にとって大切な喜びが消えてしまっては困る。喜びと共に生きていきたいのなら、悲しみとも共に生きていかなければならない。消えない悲しみがあることは、消えない喜びがあることと表裏一体だ。だから悲しみと共に生きていくことができる。

なお、藤原基央は友達二人につらいできごとがあったことから「HAPPY」を書き、その友達の誕生日に「HAPPY」を贈ったのだが、そのつらいできごとが何なのかは語ろうとしない。しかし歌詞を注意深く聴けば、つらいできごとが何なのかは、ぼんやりと見えてくるだろう。プライベートなことなので、ここには書かないでおこう。

曲の1番、2番、3番でメロディーが反復されることは他のミュージシャンの曲と同じだが、その曲の中でよく似た歌詞が反復され、一部の言葉だけが変化するスタイルに、藤原基央の独自性がある。

なぜ一部の言葉だけが変化したのか?リスナーが自分で感じ、考え、そういうことか!と快感を覚える。

藤原基央の歌詞を断片的に捉えると、矛盾しているようにも思え、いやみや皮肉のようにも思える。しかし曲の最初から最後までを丁寧に聴くと、実は矛盾してないことが分かり、「君」と「僕」の心情が変化し、前へ進んでいることが見えてくる。

表現のリミッターを外した藤原基央の歌詞は難解だ。聴き手にすべてを分かりやすく説明するような歌詞ではない。聴き手が反復と対比を体験し、能動的に曲へ向かって歩むからこそ、その曲の核心が立体的に見えてくる。そこまでしてやっと曲の素晴らしさに感動することができる。

さて、ここでは歌詞の反復と対比に注目したが、実はBUMP OF CHICKENの音楽は、もっと別の意味でも、反復と対比の現象を有している。それは「時間と記憶」だ。

「時間と記憶」は映画『君の名は。』のテーマだ。

先取りして結論から書くと、BUMP OF CHICKENは「時間と記憶」を表現するが、『君の名は。』の世界観と親和性があるバンドは、BUMP OF CHICKENではなくRADWIMPSだ。

また、私は「アルエ」の歌詞について書き、「なぜハートに包帯があるのだろう?」「ハートに巻いた包帯をほどいたら、『君』と『僕』はどうなるのだろう?」と問いを立てたが、この問いの答えにはまだたどり着いていない。

「ハートに巻いた包帯」について考えるためには「痛み」に注目する必要がある。

そこで次の章では「時間と記憶」と「痛み」をセットにして考えよう。


第7章 

「天体観測」の続編か?音楽のマトリョーシカ。


BUMP OF CHICKENは初期の頃から継続的に「時間と記憶」を歌詞の軸にしている。

「時間と記憶」について考えるための参考文献として、戸谷洋志氏のnoteを挙げたい。

戸谷洋志氏はBUMP OF CHICKENの音楽で表現されている「時間と記憶」について考察する文章を、noteに公開している。

BUMP OF CHICKENと「記憶」の問題

余談だが、そもそも私がこうしてnoteにBUMP OF CHICKENとRADWIMPSについて書こうと思ったきっかけは、戸谷洋志氏のnoteを読んだことである。

戸谷洋志氏のnoteを参照しつつ私なりにまとめるとこうなる。

BUMP OF CHICKENの音楽、とりわけ歌詞では、過去と今と未来は区別されるが、区別されて重なり合い、一つになる。それは地層のようでもある。

2001年に発売され大ヒットしたセカンドシングル「天体観測」においては、「僕」が過去の「痛み」を思い出し、「痛み」が今の「僕」を支えていることが歌われる。

「天体観測」から13年が経ち2014年にアルバム「RAY」へ収録された楽曲「ray」は、「天体観測」の続編とも受け取れるだろうか?

天体観測
「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」
「「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけていた」

ray
「君といた時は見えた 今は見えなくなった
透明な彗星をぼんやりと でもそれだけ探している」

天体観測
「そうして知った痛みが 未だに僕を支えている」

ray
「大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない」

天体観測
「背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった」

ray
「伝えたかった事が きっとあったんだろうな」

天体観測
「始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも」

ray
「大丈夫だ この光の始まりには 君がいる」

「天体観測」においては「痛み」を思い出すこと、想起することが肯定されるが、「ray」においては「痛み」を忘れることが肯定される。なぜなら「痛み」は透明なものであり、見えなくても存在するからである。

「君と僕が共にいた時間」は過去であり、今は「君」はいない。

「痛み」は「君と僕が共にいた時間」と不可分である。

「僕」にとって「君と僕が共にいた時間」はとても大切で、消えてほしくないものだ。

「君と僕が共にいた時間」は忘れても消えないから、忘れても大丈夫だ。

それと同じく、「痛み」は「僕」と一つになったから、「痛み」を忘れても大丈夫だ。

だからこそ「生きるのは最高だ」と歌うことができる。

また、「ray」は初音ミクと共演したことでも有名である。

BUMP OF CHICKENの公式ウェブサイトとYouTubeでは、東京ドームで初音ミクと共演した「ray」の映像を無料で視聴することができる。

北出栞氏は「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期の最終課題として提出した「「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力——時空間認識の批評に向けて」の中で、BUMP OF CHICKENが表現する「時間と記憶」について考察し、続いてBUMP OF CHICKENが「ray」で初音ミクと共演したことについて考察している。

北出栞氏はこの文章で、過去が現在に「オーバーラップ」する、という表現を使っている。的確な表現なのでこの私の文章でも使わせていただく。

BUMP OF CHICKENの歌詞では、過去が現在にオーバーラップする。

私はすべてを調べたわけではないが、RADWIMPSの歌詞で過去が現在にオーバーラップする現象が表現されていることは、ごく稀である(あると言えばある)。

ここまでをまとめよう。

「時間の経過」を表現するBUMP OF CHICKENの音楽は、歌詞の内容から大まかに2通りに分けられる。

一つ目は、「K」「ラフ・メイカー」「車輪の唄」「ウェザーリポート」などのように「いつ・どこで・だれが・何をするか」が表現されている物語形式のものである。それらは1曲の中で明確な時間の経過がある。

二つ目は、「続・くだらない唄」「天体観測」「スノースマイル」「時空かくれんぼ」「R.I.P.」「魔法の料理 〜君から君へ〜」「ray」「宝石になった日」「記念撮影」などのように、過去を想起することや、「君」と「僕」の時間の非共有性や、過去の思い出が時間の経過と共に別の意味を獲得する潜在可能性などを描くものだ。

ここでは特に二つ目に注目したい。

重要なのは、歌詞の内容が、BUMP OF CHICKENの音楽活動にも当てはまる、ということだ。

なぜなら曲を聴く前と聴いた後では、リスナーの記憶が変化しているからだ。

その曲を聴く前の自分を思い出すことはできるが、その曲を聴く前の時間に戻ることはできない。

ファンたちの間では周知のことだが、藤原基央はライブで歌詞の一部を即興で変える。

「天体観測」(原曲)
「そうして知った痛みを 未だに僕は覚えている」
「天体観測」(ライブ)
「そうして知った痛みが こうして僕ら繋いでいる」
「花の名」(原曲)
「会いたい人がいるのなら それを待っている人がいる
いつでも」
「花の名」(ライブ)
「顔をあげて僕らを見て 君に会いに来た 音がある
ここにも」(13)

リスナーは当然「歌詞変え」に気づくだろう。耳に馴染みのある曲が、藤原基央の「歌詞変え」で、「今、ここ」だけの特別な曲へと変化する。リスナーにとっての曲の意味がさらに厚くなる。

CDやYouTubeで聴くことができる音は録音済みの過去の音であり変化しないが、リスナーの体験によって過去の音の意味が厚くなり、更新されてゆく。
つまりマトリョーシカのような入れ子構造になっている。

「天体観測」の歌詞の中では、「君の震える手を握れなかったあの日の痛み」の意味が時間の経過とともに厚くなる。

「『君の震える手を握れなかったあの日の痛み』の意味が時間の経過とともに厚くなることを歌う『天体観測』の歌詞」の意味が、時間の経過と共に厚くなる。

私はBUMP OF CHICKENの持ち味を「反復と対比」と表現したが、ほとんど同じ機能を表現する言葉として、「入れ子構造」「重層化」「多重化」「オーバーラップ」なども適切だろう。

「才悩人応援歌」の歌詞はこうだ。

「僕が歌う 僕のための ラララ
君が歌う 君のための ラララ」

ここまで考えたBUMP OF CHICKENの性質を総括しよう。

「僕」が自分のために「ラララ」と歌う。

「『僕』が自分のために歌う『ラララ』」を藤原基央が歌う。

歌詞の言葉に反復と対比があり、「反復と対比がある歌詞」を聴くリスナーの体験に反復と対比がある。

録音済みの「反復と対比がある歌詞」とライブ空間で響く「反復と対比がある歌詞」に反復と対比がある。

「主人公の記憶の意味が時間と共に厚くなる歌詞」をリスナーが聴く。

「『主人公の記憶の意味が時間と共に厚くなる歌詞』を聴いたリスナーの記憶」の意味が時間と共に厚くなる。

そして私が今書いているこの文章もまた、書き終われば過去の文章となるが、今この文章を読んでいるあなたが過去のBUMP OF CHICKENの意味を再発見し、私のこの文章に新たな実績が加わり、時間と意味が多重化する。
BUMP OF CHICKENの音楽は入れ子構造であり、「入れ子構造について書いているこの文章」も入れ子構造なのである。

BUMP OF CHICKENの音楽は、いくつもの意味で多重化しているのだ。

歌詞の多重化、君と僕の多重化、時間の多重化、録音とライブの多重化。初音ミクとバンドの多重化。


第8章

「ハートに巻いた包帯」をなぜほどくのか?


BUMP OF CHICKENは「『君』と『僕』の過去の行為に、後から意味が加わる現象」を歌詞にしている。

BUMP OF CHICKENの過去の音楽活動に対しても、後から意味が加わるはずだ。つまり自己証明が起き、多重化している。

そこでもう一度「アルエ」を振り返ろう。

「アルエ」よりも後の時期に作られた曲を聴けば、時間を遡って「アルエ」の意味を再発見できるはずだ。

「ダイヤモンド」、「涙のふるさと」、「HAPPY」、「ray」などにおいては、過去の傷、痛み、悲しみが消えないことが歌われている。

「メーデー」では「君」は「嫌いな自分(=君)」を自分の中に沈めてしまった。だから「僕」は「君」と「君に嫌われた君」の間を媒介した。

「アルエ」を書いたときの藤原基央の意図を解釈するのでなく、「アルエ」の「「ハートに巻いた包帯」を、BUMP OF CHICKENの複数の曲を横断しながら総合的に解釈しよう。綾波レイについてではなく、より普遍的に「君」と「僕」について考えよう。

「君」は自分の中に「君に嫌われた君」を沈めた。自分自身と対峙することを避け、自分の内側から発生する痛みを無視した。

「包帯」は傷と痛みを覆い隠すための道具だ。だから「君」はハートに包帯を巻いた。

包帯に巻かれたハートを持つ「君」は、うれしいときに笑えない。哀しいときに泣けない。

「ハートに巻いた包帯」を「僕」がゆっくりとほどくと、そこには「君に嫌われた君」がいる。痛みの声が響くはずだ。

「僕」は「君」にこう言うだろう。

「大丈夫 君はまだ君自身を ちゃんと見てあげてないだけ」(「プレゼント」より)

「君」はハートすなわち自分自身と対峙することを迫られる。傷は治らないし、痛みは消えない。弱い部分と強い部分の両方が、かけがえのない自分である。だからこそ、「君」は「君に嫌われた君」と一つにならなければならない。痛みを自分と一体化させなければならない。

結局「君」を救えるのは君自身であり、「僕」ではない。

過去の痛みを今にオーバーラップさせ、思い出の意味を分厚くすれば、未来へ歩いて行くことができる。

「君」のハートに巻いた包帯がほどけ、「君」が「君の痛み」と一つになってようやく、「君」は素顔になれる。「君」と「僕」はあたたかい日だまりの中で一緒に手をたたくことができる。

「どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう」(「HAPPY」より)


第9章

新海誠監督に全部見透かされた。


ひねくれていた発明家集団のRADWIMPSが、なぜ大ヒット映画の音楽を手がけたのだろう?

2013年に7枚目のアルバム『×と○と罪と』を発表したときのインタビューから、野田洋次郎の発言を引用しよう。

「RADは『絶体に普通のことをしない』っていう目標を持って、それを意識して根を詰めてずっとやってたバンドだけど、『絶体絶命』まで作って、そんなことを意識の外に追いやっても面白いものができるっていう自覚が生まれて。」
「これまで、自分にとって当たり前だったりする気持ちや物事をあんまり歌詞にしてこなかったんですよ。大前提すぎて、歌詞にならなかった。だけど今回は、当たり前かもしれないけど自分にとってすげぇ大事じゃんって思うことをわざわざ歌詞にして」
「時には(自分の意図と)違うふうに捉えられたりもするけど、それも別に悪いことばっかりじゃなくて、自分の言葉が全然違う意味で人に伝わっていくことに喜びを感じられたこともあるし。………ふふ、面白いですね。」(14)

シングル曲でもあり『×と○と罪と』に収録された「ラストバージン」は、直球勝負のラブソングだった。簡単な言葉でゆっくりと、君への想いを歌う。以前のRADWIMPSとはテイストが違っていた。

「普通のことをしない」という目標をやめ、「当たり前だけど大切なこと」を歌詞にした。歌詞が自分の意図と違う捉え方をされることを、肯定できるようになった。

このように変化したRADWIMPSは、「表現のリミッターを外し、言葉が音に乗ったときの力を信じ、聴き手に曲を委ねる」という方向性を強化したBUMP OF CHICKENと重なっているのかもしれない。

RADWIMPSは『×と○と罪と』の勢いをさらに押し進め、後に大ヒットする映画『君の名は。』の主題歌では、まさにど真ん中の曲を作った。

2014年の夏に新海誠監督とプロデューサーの川村元気が居酒屋で『君の名は。』の話をしていたとき、新海誠監督が好きなバンドとしてRADWIMPSの名前を出したため、川村元気はその場で野田洋次郎に連絡し、数日後に三人で会い、その後は数回の話し合いを経て、制作が開始された。

RADWIMPSの音楽と新海誠の『君の名は。』が重なっている要因を何点か挙げてみよう。

一つは、「君」と「僕」の絶対的な関係だ。

後付けの解釈だが、遡って2011年にアルバム『絶体絶命』に収録された「救世主」からは、『君の名は。』とRADWIMPSの親和性が示唆されている。

「君と出会ったあの朝に
僕は世界に呼ばれ
そっと 君を守るようにと送られたんだよ」

「救世主」より

雑誌『ユリイカ』には新海誠監督へのインタビューが掲載されたが、インタビューアーの中田健太郎はこう分析していた。

「RADWIMPSは僕ももともと好きなバンドですけれど、たとえば「25コ目の染色体」で「一つの命として生まれよう」みたいな言い方をするところとか、すごく新海さんっぽいなというふうに思っていたんです。ふたりがおたがいの違いに傷ついたり認め合ったりしていくのが普通の恋愛だとしたら、そもそも一体になっているような絶対的な関係性を考えてしまうというのは、新海さんの世界観に近いような気がします。」(15)

新海誠監督の返答はこうだ。

「そういう関係性みたいなものに憧れがあるんだと思いますよ。この人さえいればって思う、絶対的な誰かがいるということに。だからこそフィクションのなかで描いているのであって、自分自身にそういう相手がいたらアニメーション映画を作る必要はなかったかもしれないですね。」(15)

「君」と「僕」の絶対的な関係の他にも、両者に共通する要因がある。

繰り返しになるが、野田洋次郎の歌詞は以前から情報量が多かった。独創的でエネルギッシュな言葉をマシンガンのように歌っていた。

このことも『君の名は。』の性質と重なっている。『君の名は。』は展開が速く、情報の密度が濃厚だ。一瞬だけ映る場面に重要な要素を描いている。

ただし『君の名は。』の主題歌4曲は、以前のRADWIMPSの曲に比べれば情報の量と速度が控えめではあるが。

こうして『君の名は。』の音楽制作を開始したRADWIMPSだったが、しかし、2015年9月にはドラムの山口智史の無期限活動休止が発表された。持病の悪化のためだ。

立ち止まることができないRADWIMPSはドラムのサポートメンバーを探し出し、『君の名は。』の楽曲制作を続けた。

新海誠は『君の名は。』以前から著名な映画監督ではあったが、ジブリのような大ヒット作を産んだことは一度もなかった。これは不適切な表現かもしれないが、マニア向けの作品だったのだ。

それが川村元気という強力なヒットメーカーと手を組み、東宝の夏のアニメーションとして大々的に宣伝し、明らかに新海誠監督の過去の作品とは違う方向へ進んでいた。

主題歌が4曲あるだけでも規格外だが、歌詞のない劇伴までもすべてRADWIMPSが作曲するのだ。

新海誠監督は楽曲制作に詳細な注文を出し、RADWIMPSが用意した楽曲を何度も却下した。

「ある音を持ってくるタイミングを数秒単位とか拍単位で注文されたりすることもありました」(武田祐介)(16)

野田洋次郎はインタビューでこう振り返っている。

野田洋次郎「不思議なことに、新海さんとウチらは同じタイミングだったんだと思うんですよ。俺はどっかで、メジャーでいながら端っこにいたいっていう思いがずっとあったし、それが自分達の個性だと思ってもいたし。でも、自分に足りてないところを探した時に、さっき言ったようなことを思い始めてる時期で。で、新海さんもこの作品で今までとは違うステップに行こうとしてたのを感じて—」
要はマジョリティに向かい合う、そこに届けるっていう。
野田洋次郎「うん。(中略)だから新海さんに教わることは凄いいっぱいあったというか。『今まではここまででいいと思ってたでしょ、君。』みたいな。『ここまでで伝わると思ってたでしょ』みたいな。で、また俺はちょっと捻くれたほうに力を込めたりしてたから(笑)。言葉を2万費やしたとしても、核心のところは触れずにいた部分もあったっていうか……周りの外堀をもの凄い具体性を持って語って、真ん中を凄くぽかんと空けることで伝えてた部分があったかもしれないけど、その真ん中をそのまま伝えてごらんよ、みたいなところはあったかもしれない。」(17)
(インタビューアー=有泉智子)

野田洋次郎「全部ど真ん中の曲で勝負するっていうのはやっぱり僕のなかではこそばゆさがあって、いろんなアプローチをやってみたいと思っていて。でも僕なりの美学というか、ここであと一押しっていうところでわざとちょっとおしゃれにしちゃったりすると、監督は僕のその感じをわかっていたので「野田さん、そこはあと一歩強く前に出てもらえませんか」っていうことをおっしゃって僕を鼓舞してくるんです。一度、「野田さんが恥ずかしいなって思うぐらいのことをやっても野田さんの気品は絶対に失われることはありません」って言われたんですよ。そのときは全部見透かされてんのかなって、相当衝撃を受けました。」(18)

ここでもう一度振り返ろう。

「普通のことをしない」という目標をやめたRADWIMPSは、2013年にアルバム『×と○と罪と』で「当たり前だけど大切なこと」を歌詞にした。

2015年から2016年には、映画『君の名は。』とアルバム『人間開花』で、ど真ん中の核心をストレートに伝えた。

「もう迷わない 君のハートに旗を立てるよ」

「前前前世」より

テレビには滅多に出演しなかったRADWIMPSだが、『君の名は。』の劇場公開と同日の2016年8月26日にミュージックステーションへ生出演し、『君の名は。』の主題歌「前前前世」を演奏した。さらに2016年末には紅白歌合戦に出演し、「前前前世」を演奏した。

なお、BUMP OF CHICKENもテレビには滅多に出演しなかったが、2014年7月25日にミュージックステーションへ出演し、「虹を待つ人」と「ray」を演奏した。2015年末にはNHK紅白歌合戦に出演し、「ray」を演奏したが、千葉の幕張メッセで開催される「COUNTDOWN JAPAN15/16」からの中継だった。

つまりテレビに出演した時期はBUMP OF CHICKENのほうが1年から2年先だった。

さて、本筋から脱線するが、『君の名は。』は驚くほど細部にまで作品の世界観が徹底されている。詳しく知りたい方には、伊藤弘了氏の「恋する彗星——映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」をお薦めしたい。全文が無料で公開されている。

また、『君の名は。』に批判的な視点の代表例として、齋藤あきこ氏の文章「映画『君の名は。』に感動する方法」が大反響だったので、こちらも皆様にお薦めしたい。

私も『君の名は。』の性質と社会問題の関係を考察した文章を書いたので、こちらも皆様に読んでいただきたい。


第10章

彗星が落ちた『君の名は。』、彗星が透明なバンプ。


北出栞氏は「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期の最終課題として提出した「「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力——時空間認識の批評に向けて」の中で、BUMP OF CHICKENとRADWIMPSの違いを『君の名は。』から考察している。北出栞氏の文章は、私の文章とは比べものにならないほど深く、鋭く、クリアーなので、長くなるがそのまま引用する。

『君の名は。』のストーリーにおけるポイントは、三年のタイムラグを挟んだ主人公二人の運命的な「入れ替わり」と、彗星落下による人命の喪失という悲劇およびその回避、そしてそれらの出来事がラストにおいて誰の記憶からも失われるという「忘却」の主題である。こうして要素だけを取り出すとBUMP OF CHICKENが「ray」で問題にしていたことと非常に近い問題を扱っているようにも思える。
しかし「ray」においては「痛み(気持ち)」が「忘却」されることが肯定されていた一方で、起きた事実は「なかったこと」にはならないことが強調されていた(「あの透明な彗星は 透明だからなくならない」)。逆に『君の名は。』では彗星が落下し多くの人命が失われるという事実は「なかったこと」になる一方で、「どこかに運命の人がいる」という「気持ち」のほうは保存される。「忘れても消えない」という「ヴァーチャル」な時間性・空間性について歌っていたのが「ray」なら、「(出来事は)起きた/起きていない」「(運命の人は)いる/いない」という二分法によって形作られているのが『君の名は。』という作品であり、それは「君と僕」という二者の関係性を主題にしていることとパラレルになっている。(19)

原文はこちらのサイトに公開されている。

つまりBUMP OF CHICKENと『君の名は。』では「時間と記憶」の感性が違うのだ。

それだけの違いではない。

BUMP OF CHICKENの歌詞においては「君」と「僕」を含むすべての人が世界では取るに足らない存在である。「君」と「僕」の二人の関係がその他の多数の人々と比べて絶対的な力を発揮するわけではない。しかし、その人たちにとっては、「君」と「僕」の関係が特別なものになる。

また、BUMP OF CHICKENの音楽ではRADWIMPSのように圧倒的情報量の歌詞でリスナーの処理能力をオーバーフローさせることは、おそらく、ない。
つまりBUMP OF CHICKENの世界観と『君の名は。』の世界観は違うのだ。

ではBUMP OF CHICKENの世界観と共鳴する作品は何だろうか?それは、『3月のライオン』だ。


第11章

中学生でプロ棋士。


羽海野チカの将棋の漫画『3月のライオン』とBUMP OF CHICKENの楽曲「ファイター」のコラボ企画にスポットライトを当てると、BUMP OF CHICKENの魅力が立体的に見えてくる。

2014年11 月28 日(金)に発売した漫画『3 月のライオン』10 巻特装版にBUMP OF CHICKENの楽曲「ファイター」のCD が付属し、同日に配信限定シングルとして発売したBUMP OF CHICKEN の楽曲「ファイター」に、『3 月のライオン』スピンオフ作品『ファイター』の電子書籍版のシリアルナンバーが付属した。

羽海野チカは企画以前からBUMP OF CHICKENのファンであり、BUMP OF CHICKENのメンバーもまた、連載初期から『3月のライオン』の読者だった。

楽曲「ファイター」はコラボ企画のためにBUMP OF CHICKENが制作したものである。

羽海野チカはスピンオフの漫画の大筋を決めた後に楽曲「ファイター」を聴いたのだが、『3月のライオン』の世界観が表れた歌詞に驚き、楽曲からイメージを膨らませ、漫画を描き直したという逸話もある。

その後『3月のライオン』はNHKでアニメ化され2016年10月8日から放送されたが、BUMP OF CHICKENがアニメ化のために制作した楽曲「アンサー」がオープニングテーマとなり、「ファイター」がエンディングテーマとなった。

BUMP OF CHICKENの楽曲「ファイター」の歌詞は『3月のライオン』の世界観を表現しているとしか思えないが、意外にも藤原基央はこう語った。

「“ファイター”は自分のことを書いて……できた曲です」(20)

つまり『3月のライオン』の世界観を表現しようと思ったわけではない。

BUMP OF CHICKENは『3月のライオン』の他にもアニメや映画でタイアップしたことがあった。

藤原基央「僕は僕の曲の書き方しか知らないし、僕の言葉しか書けないんだよね。僕の知っている感情、知っている現象しか書けないので。よくファンレターで、『あそこの部分のあの歌詞はあのキャラクターのこういう気持ちを表しているんですよね』みたいなこと言われるんだけど、それは本当に困ってしまいます。そう思ってくれるのは君の勝手だけど、重なるところを抽出しただけで、僕の心情だし。なんか、……わかりますかね?」(21)

藤原基央は『3月のライオン』とBUMP OF CHICKENが重なっている部分を音楽にしたのだと語るが、『3月のライオン』と楽曲「ファイター」はその重なる面積が広く、共鳴の度合いが強い。

『君の名は。』で瀧と三葉が出会ったのは運命であり必然であり、自分たちにしかできない「入れ替わり」の力を持ち、二人は特別な存在である。神のような不思議な力に導かれるようにして二人の入れ替わりが始まり、二人は世界の危機に立ち向かう。

しかし『3月のライオン』には超能力も世界の破滅もない。

主人公の桐山零が川本家の家族と出会ったことはただの偶然である。

複数の道がある中で一つの道を偶然選んだからこそ、偶然に特別な意味が付与される。

神や運命に導かれたわけでなく、自分で選んだからこそ、自分の弱さと向き合うことが重視される。

主人公である桐山零の魂の叫びを聴こう。

「ふざけんなよ 弱いのが悪いじゃんか 弱いから負けんだよっっ 勉強しろよ してねーのわかんだよ」
「こっちは全部賭けてんだよ」(22)

桐山零は中学生で将棋のプロ棋士となり、将来は名人だと期待されているが、常に身を削りながら勉強しているからこそ、勝つことができている。勝つことに合理的な根拠がある。

ところで、RADWIMPS、『君の名は。』、BUMP OF CHICKEN、『3月のライオン』の四つの性質を、セカイ系、大きな物語、小さな物語、そして大きな非物語の観点から考えたいのだが、今の私にはその力量がないので、これ以上は書かないことにする。

『3月のライオン』には幼少期の桐山零が現在の川本ひなたと出会っているかのような場面があるが、『君の名は。』のように時空間を移動したわけではない。

現在の桐山零が記憶の中の過去の自分を想起し、まるで「過去の桐山零が時空間を超えて現在の川本ひなたに出会った」かのような感覚を覚えたのだ。過去が現在にオーバーラップしている。

過去の痛みが今の自分を支えることを歌う「天体観測」、

「君が君の中に沈めた痛み」を他者が再発見し、「君」が「君の痛み」と再び出会うことを歌う「メーデー」、

「君」と「僕」が過去を共有できないせつなさを歌う「R.I.P.」、

過去の記憶は長い時間を経て別の意味を獲得する潜在可能性を有していることを歌う「魔法の料理 ~君から君へ~」、

いくつもの曲が『3月のライオン』と重なっている。

BUMP OF CHICKENの曲には何度も猫が登場するが、『3月のライオン』にも猫が登場する。

余談だが、『3月のライオン』の主人公の名前は「れい」だ。「アルエ」は綾波レイの歌であり、「ゼロ」は「ファイナルファンタジー零式」(れいしき)の主題歌であり、アルバム『RAY』には「ray」が収録されている。

藤原基央と「レイ」には、不思議な縁がある。

せっかくなので、雑誌『cut』2014年12月号の表紙画像を載せよう。桐山零と藤原基央のツーショットだ。どうだろう?二人は似ているだろうか?

画像4
画像5


最後に、身体性についても触れたい。

映画「君の名は。」では主人公の二人の身体が入れ替わる。

外見が瀧で中身は三葉の状態では、三葉が瀧の身体を動かす。

外見が三葉で中身が瀧の状態では、瀧が三葉の身体を動かす。

「心が身体を追い越してきたんだよ」
RADWIMPS「前前前世」より

心が身体を動かすのであって、身体が心を動かすわけではない。つまり心・精神・意識が身体・肉体に優越している。

「扉開けば 捻れた昼の夜
昨日どうやって帰った 体だけが確か
おはよう これからまた迷子の続き
見慣れた知らない 景色の中で」
BUMP OF CHICKEN「Hello,world!」より

「体だけが自動で働いて」
『3月のライオン』主題歌・BUMP OF CHICKEN「ファイター」より

藤原基央の歌詞では、精神・意識が身体・肉体をコントロールするのでない。

身体・肉体が精神・意識に対しエネルギーを供給し、進むべき道を示す。
つまり身体・肉体への信頼がある。

精神・意識と身体・肉体の間に心・痛みがあり、二つを媒介しているようなイメージだ。だから過去の痛みが自分を支え、自分と過去の痛みが一つになる。

時間と共にあらゆることが変化する。出会いと別れがある。生きていた人が死んでしまう。覚えたことを忘れてしまう。感性と理性が変化する。

変化するものに注意を払うからこそ、対比として変化しないものにも同時に注意を払う。

BUMP OF CHICKENの2016年のアルバムには「宝石になった日」という曲がある。「宝石」は、時間が経っても変化せず輝き続けることの比喩である。

「宝石」を大切にすることと、身体・肉体を信頼することは、ほとんど同じだ。


第12章

「空窓」


さて、RADWIMPSは東日本大震災から1年が過ぎた2012年3月11日に新曲「白日」を公開した。その後も2016年まで毎年3月11日に新曲を公開した。2017年だけは公開されなかったが、2018年4月8日に、再び新曲「空窓」をYouTubeに公開した。

これまでにRADWIMPSが震災から1年ごとに公開した曲は、RADWIMPSの他の曲とはテイストが違っていたが、新曲「空窓」も、やはりテイストが違う。しかし震災から1年ごとに公開された他の曲と比べても、違うところがある。

演奏方法や野田洋次郎の声質も独特だが、ここでは歌詞に耳を傾けたい。
せっかくなので「空窓」を聴いてみよう。YouTubeには歌詞が全文掲載されている。

野田洋次郎の他の歌詞と比較すると、言葉がシンプルだ。ありのままの想い、核心の生(なま)の想いをストレートに歌っている

「空窓」のテーマは、東日本大震災から7年という時間の経過だ。「時」という言葉が7回も使われる。野田洋次郎は過去の曲で「時間」を歌詞にしたことがあったが、その一曲の歌詞全体で「時間」をテーマにしたのは、「空窓」が初めてではないだろうか?

歌われているのは、時間の不可逆性、出会いと別れ、相手と自分が同じ時間に同じ場所にいることができない寂しさ、時間の経過に伴う人の心情の変化、過去の経験が今に重なって自分を多重化する現象、強さと弱さ、心の蓋を開けるということだ。

「寂しさ、嬉しさと ほんの少しの 後ろめたさと 一緒に生きてるよ」

さて、皆さんはここまでわたしの文章を読み、「空窓」を聴き、どのような想いを抱いただろうか?


私の想いはこうだ。


「空窓」の歌詞は、藤原基央の歌詞に似ていないか?


以上です。こんな結末で申し訳ない。


引用

(1)NHK「SONGS」2016年5月1日放送
(2)『CUT』2017年2月号、p.29
(3)NHK「SONGS」2016年5月1日放送
(4)『MUSICA』2009年4月号、p.20
(5)『ROCKIN’ON JAPAN』2011年4月号、p.62
(6)『MUSICA』2016年12月号、p.31-32
(7)『MUSICA』2013年12月号、p.26
(8)『MUSICA』2016年12月号、p.31
(9)『MUSICA』2008年1月号 p.51-52
(10) 『bridge』VOL.78、SPRING 2014、p.31
(11)『MUSICA』2011年1月号、p.35
(12) 『bridge』VOL.75、SPRING 2013、p.53
(13)「ZIP!」2018年3月23日放送
(14) 『MUSICA』2013年12月号、p26, p32
(15) 『ユリイカ』2016年9月号、p.53
(16)『ユリイカ』2016年9月号、p.84
(17)『「MUSICA」2016年12月号、p.31
(18)『ユリイカ』2016年9月号、p.87‐88
(19)北出栞「「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力——時空間認識の批評に向けて」(「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」の第3期最終課題として公開されている)、ページ訪問:2018年5月20日  http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2847/ 
(20)『MUSICA』2015年5月号、p.38
(21)『MUSICA』2015年5月号、p.31
(22)『3月のライオン』第2巻、p.186-187


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