トンネルの向こう
なに、あの人
痛いな
イカれてる
やばいだろ
バカ丸出し 笑
あの日、仕事を終えた私は
会社を出ると、花園神社の脇道を通り
西武新宿線の駅に向かっていた
ワンワン泣きながら
普段は、街灯が少ない暗い道なのだが
その日は樹々の間から、眩しい程の光と
ザワザワと、たくさんの人のシルエット。
観れば野外で劇をやっている。
すごく狭い、けれどそこだけ樹が無い場所で、上手いことテントのような幕を張り、煌々とした、まともに見たら目に悪そうな強い光の中で、役者たちは動き回っている。
無料なのだろう。
観客は、隙間の無い程の人数が、サササ、サササと縦横無尽に動く役者を観ていた。
現実か、幻かの区別がつかない異次元の空間が、そこに広がっている。
普段の自分なら、迷わず空間に溶け込んだことだろう。
しかしこの夜の私は、“普段”とは、ほど遠かった。
駅まで泣き続け、電車の中でも泣き続けた。
いったい、いつ泣き止んだのか覚えていない始末。
コーポと名の付くアパートで、私は一人暮らしをしている。
実家から会社までが遠かったのも、一人で暮らすきっかけではあった。
だが、本当の理由は父から離れたかったからだ。
横暴な父との暮らしには、限界が来ていた。
〈家を出よう〉
そう決めたのだった。
私が大泣きしたわけは……。
それは会社で二つ歳上の、大学も同じ先輩が、過労で働けなくなり、田舎へ戻って行ったからだった。
その先輩社員は男性で、私が想いを寄せていた人だ。
そして以前に勇気を出して、気持ちを伝え、結果、見事に撃沈した人である。
だからって嫌いには、なれない。
”好き”という感情は今も持ってるし、それでいいと、自分は思う。
とても有能な人で、会社側は先輩をかなり、かっているし、他社から引き抜きがあるのも知っている。
そのため先輩には、かなりの高額な給料を払っていた。
私は仕事上、社員もアルバイトの学生達全員のお給料を知っていた。
だからといって会社側は先輩に頼り過ぎていた。
日頃から先輩のスケジュールは、ほとんど休み無しのギュウギュウ詰めだ。
たまの貴重な休みでも、誰かが急に出れなくなると、代わりに先輩が仕事に行く。
一度、上司に抗議したことがある。
こんなこと無謀過ぎている。
どうしても云わずにはいられなかった。
「大谷さん、このところ全く休んでいません。少しは休日をあげてください」
上司は、チラッと私を見ると、
「働くだろアイツは。高い給料を払ってるんだ、会社としては」
「でも、大谷さんも、生身の人間です。倒れたら、どうするんですか!ましてや窓のメンテナンスの仕事です。命がけなのに」
上司は今度ははっきりと私を見た。
怒るつもりだろうか。
「君も大谷君の取り巻きの一員か」
「違います!そんなんじゃありません!大谷さんはメンタルと体の疲労がかなり蓄積しています。見たら直ぐ、分かるくらいに」
「キミ、名前は」
「岡元です」
「大谷君が、そう云ったのか?岡元君に疲れたと」
「いいえ。でも見たら分かります。顔色も良くないし、かなり痩せましたし」
「好きなんだねえ、大谷君のことが」
上司はニヤニヤしている。
私はこれ以上、この人に何を云っても無駄だと悟った。
「失礼しました」
私は挨拶をすると部屋から出た。
先輩、いや、大谷さんと一度だけ会社で二人だけになったことがある。
この時の大谷さんは、よく話しをしていた。
家族は貧しくても仲はいいこと。
だが、父親が事業で作ってしまった借金が、相当な額なんだと話していた。
「だから、息子の自分が少しずつでも返済しないと」
大谷さんの父親は、心臓を悪くして入院している。
母親は、体が弱く働けなかった。
借金の返済は大谷さんと、その姉との二人で、やっていくしかないんだと話してくれた。
詳しい金額は知らないが、数千万単位らしい。
私は何か自分が出来ることは、ないだろうかと考えていた。
自分なりに思いついたことは、これだった。
「ただいま」
「お疲れ様でした。はいこれ」
それは栄養ドリンクを渡すことだ。
「ありがとう、岡元さん」
嬉しそうに大谷さんはゴクゴクと飲み干す。
「あーうまかった。これを上手いと感じるのは疲れている証拠だな」
そう云って彼は笑うのだ。
「少しでも座ってください」
大谷さんは頷くと、椅子に座った。
デスクに顔を付けると、アッという間に小さなイビキをかいている。
《携帯を溝に投げ捨てたくなる》
一度だけ、険しい顔で彼が云った言葉。
誰にでも穏やかに接する、怒ったことがない人の……。
本音が口をついた唯一の瞬間。
休日だろうと、早朝だろうと、お構いなしに仕事の連絡が入って来る。
365日、束縛された毎日。
ある日、人事課の担当者が、困った表情をしていた。
「お疲れ様です。あの、どうかなさったのですか?」
「あゝ、岡元君。キミの大学の先輩でもある大谷君のことなんだが」
私は黙って訊いていた。
「3ヶ月の長期休暇をくれと云って来た」
「3ヶ月……だめなんでしょうか」
人事課の人は渋い顔をしている。
「僕は大谷君に尋ねたんだ。本当はもう会社には戻って来ないつもりなんじゃないのかってね」
「……」
「大谷君は何も反論しなかった。ただ黙って笑顔を見せていたよ」
「辞めるつもりだ、彼は」
その夜、アパートで私は考えごとをしていた。
大谷さんが、会社から居なくなる……。
それは想像したくはなかった。
寂しくて胸が痛くなる。
けれど、それでもーー。
翌日、私はいつも通りデスクに向かっていた。
電話が鳴った。
それは大谷さんからのもので、今日の仕事の件だった。
周りには、誰もいない。
昨夜、決めたことを私は大谷さんに話すことにした。
「大谷さん、もう無理はしないでください。
大谷さんの身に何があっても会社は責任を取ってくれません。
会社の犠牲になってはいけない」
そう、伝えた。
電話からは何も聴こえてこない。
大谷さんは、しばらく沈黙していた。
そして、「じゃあ、今日の仕事は休みます」
「えっ、それは困ります!急過ぎます。今日は仕事に行ってください、お願いします」
慌てふためく私の言葉に、受話器の向こうから笑い声が聴こえた。
その声には、涙が混ざっているのが分かった。
「冗談ですよ。今日の仕事をドタキャンなんてしませんから安心してください」
「ありがとうございます。良かった」
「岡元さん」
「はい?」
「ありがとう」
そう云って電話は切れた。
私は席を立つと、屋上に行った。
眼下には花園神社が見える。
入社した夏に、職場の人たちと花園神社の例大祭に行ったことを思い出した。
凄い人混みだった。
「確か大谷さんは、リンゴ飴を買って食べてたっけ」
私は一度もリンゴ飴を食べたことはない。口の周りがベトベトしそうで敬遠していた。
自分も何か食べたくなって、100以上ある屋台を見渡した。
どうしても、大好物の“たこ焼き”に目が行ってしまう。
「ワンパターンだから今日は別の物にしよう。何がいいかな」
大きな綿飴が、下を通って行く。
小さな男の子が自分の顔より大きい綿飴を、嬉しそうに手に持って歩いていた。
微笑ましさに笑みが溢れる。
「さてと、何にする?」
斜め前の屋台に視線がいった。
「チョコバナナかぁ。よし!これにしよう」
串に刺したチョコバナナをお金と交換して受け取った。
実はこれも初めて食べるので、ちょっとドキドキする。
パク
結構、美味しいんだ。良かった!
「岡元さんはチョコバナナか」
焼きそばを食べてる会社の林さんに、声をかけられた。
「初めて食べましたけど、美味しいですね」
「俺は甘いものは、苦手なんだ。酒飲みだからさ」
「私も呑みますが甘い物も好きですね」
「両刀か、頼もしいな」
「太るだけです」
私たちが笑っていると、残り僅かになった、リンゴ飴を持った大谷さんがやって来た。
「楽しそうだな」
「大谷はリンゴ飴か。俺もそうだけど皆んな食べてばかりだな」
「6時だと、ちょうど腹が減ってる時間だからな」
「そうなんだよ。でもせっかくだから何かやらないか」
「何かって、『金魚すくい』とか?」
大谷さんは最後の一口を食べ終えて、リンゴ飴完食。
「そうだけど、『金魚すくい』だと持って帰るのが大変だし。『射的』なんてどうだろう」
林さんも、焼きそば完食。
「射的か。懐かしいな、やろう」
大谷さんも乗り気になり、射的の屋台まで三人で、フラフラと歩いた。
射的の屋台は子供たちで混んでいた。
皆んな、つま先立ちで熱中している。
ちょうど一人のスペースに空きが出たので、先ずは林さんが挑戦!
「何を狙うかな。岡元さん何か欲しい景品はある?」
「スヌーピーの文具セット!」
「スヌーピー、あ、あれか。よし俺が取ってやる」
身を乗り出して林さんが銃を撃つ。
「何が取ってやるだよ。当たらないじゃないか。次、やらせて」
バトンタッチした大谷さんが狙い撃つ。
「は〜い、お兄さん当たりだよ」
「何が倒れたんだ?」
「はい、ど〜ぞ」
屋台のおばちゃんから、グミの袋を渡された。
「グミか。岡元さんはグミは好き?」
私はニッコリして、
「はい、好きです」そう答えた。
大谷さんから、グミを贈呈された。
また太るわ
「その後、解散して駅に向かったんだ」
懐かしいな……。
少しの間、私は屋上に立っていた。
2ヶ月後、大谷さんは会社を去って、故郷へ帰って行った。
自分は涙もろいので、送別会はやらないでください。
そう、云い残して……。
それから会社は、どんどん規模が大きくなった。
社員もパートさんの人数も、かなり増えていた。
人手不足で年中、募集をしていたが、そうそう集まらない。
全くの売り手市場だ。
私は土曜日も出社することが増えた。
そんな時、故郷に帰った大谷さんの話しになった。
帰郷後、しばらくはのんびり過ごしていたが、父親の借金返済の為に資格を取り、今では会計士の事務所を経営しているという。
お姉さんは、3年目で司法試験に合格。
見習い期間も終えて、今は弁護士として、活躍していると訊いた。
「努力したんだな。大谷さん」
家計の為に中学生の時からアルバイトをしてた。そう訊いたことがある。
疲れて勉強をする体力がなく、成績はビリから2番目だったそうだ。
高校生になっても、同じような日々を過ごしていたが、どうしても大学に進学したくて、大谷さんはバイトと勉強の両方を頑張った。
その甲斐があって、返済しなくてもいい、給付型の奨学金で4年間、授業料免除の特待生になれたのだ。
仕事が多忙を極め、大谷さんが退職してから6年が経っていた。
会いたい
「そういえば、大谷の会計事務所、人手が足りないとか訊いてるぞ」
林さんがそう云いながら、私の前を通って行った。
人手不足……。
ミーン ミーン ミーン
バスから降りたら蝉たちのシャワーの歓迎を受けた。
空から、アスファルトから、体温を超えた、日差しと、照り返しにも出迎えてもらった。
目の前にある、トンネルの向こうに、大谷先輩が生まれ育ち、今は仕事場も構えている街が広がっているはずだ。
連絡もしないで、突然来てしまったけど、
また撃沈するかも知れないけど、私は諦めが悪い。
そのままの自分に素直になる。
そう決めたんです、先輩!
帽子を片手で抑え、私は走ってトンネルに入って行った。
了
※ 2枚目Photo by マシーンぶくお氏
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