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【受動意識仮説】はすべての神秘体験を否定できるのか?

前野隆司著『脳はなぜ「心」を作ったのか -「私」の謎を解く受動意識仮説』という本を読みました。

人間の心(意識)はどうやって成り立っているのか?という、永遠ともいえるテーマに脳科学的なアプローチで迫り、それは「受動意識仮説」という新たな見地へと展開してゆきます。

「受動意識仮説」とは?
端的にいうと、恐らく多くの人は、何かしようとするとき、自分の意識が命令を出して脳を動かしていると思っていますが、実際は、先に無意識(ニューラルネットワークの自立分散処理)が処理を始めており、意識はそれを受動的に見て、「あたかも自分がやったかのように錯覚するだけ」だったのだ、とする説なのです。

つまり、この説が正しければ、「人間には自由意志が無い」ということになります。これだけでもちょっとショックではないでしょうか。

では意識とは何なのか?
前野氏は受動意識仮説を「意識の地動説」と表現します。
これまでの常識を180度変えてしまうという意味でそう呼んでいるようです。

ではどう変えてしまうのか。
前述したように、これまで意識は、能動的に人の行動の決定権を持ち、脳を制御する主体的なシステムと捉えられていましたが、前野氏は、意識とは受動的で、体験はあたかも主体的であるように脳が錯覚しているだけだといいます。

この説の妥当性を裏付けるポイントはいくつかあるのですが、特に「リベット博士の実験結果(前述のように意識と無意識でタイムラグがあった)」や、「進化の連続性」については、個人的になるほどと思いました。

「進化の連続性」とは、人間にだけ自己意識が生まれたとするのは”非連続的”で、それに対し、受動的意識の錯覚を踏まえれば、生存のための進化の過程で、エピソード記憶(意味以上の高度な認知を含む記憶)が発達していった延長で、膨大な量の記憶を処理するために、突貫工事で自己意識が身についた、とする考え方です。

↓少々かいつまんで説明しているので(汗)、詳しくはこちらをご覧頂けるとより理解しやすいと思います。受動意識仮説について端的に図解しているサイトです。
https://mentalhealthbiz.net/passiveconsciousnessmodel/#9741757b-f0e4-4188-b4c1-3a18f1f6c7b7

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さて、ここまでは個人的にとても面白く、また合理的な説であるようにも思えるのですが、その一方で、これはいかがなものか?と思う部分もあります。

それは、この説自体よりも、前野氏の考え方についでです。
前野氏は、受動意識仮説が正しいとすれば、「霊魂や死後の世界は完全に否定される」という趣旨のことを言っています。

まず著書『脳はなぜ~』中の〈第4章〉で、超常現象や神秘体験に言及している部分があるのですが、例えば”離脱体験”について、立花隆著『臨死体験』の中の、意識が体から抜けて現実の世界を見れるのかといった実験(遠隔透視)の部分のみを取り上げ、「実際にあったものがちゃんと一致しているかどうかを詳しく調べた結果、実際に精神が離脱していたとは立証しがたい」と書かれた部分のみを引用し、離脱体験は「脳によって作り出されていたと考えたほうが妥当」と述べています。
上記の実験結果のことだけでいえばそうかも知れませんが、それを踏まえて、「あらゆる超常体験」は「脳機能の変調や錯覚と考えればすべて説明できる」と、いきなり飛躍して結論づけます。

さすがに超常体験および神秘体験全てを否定するには材料が少なすぎると感じますし、『臨死体験』の中だけでも、他にもまだ目を向けるべき不思議な事例がいくつも載っているはずです。(また立花氏は、あれだけの量の統計データを収集したにもかかわらず、最後まで真実は何なのか結論づけることはありませんでした)
宗教における神秘体験について否定する部分でも、断食による神秘体験のみを取り上げ、食事を抜くことで脳機能の変調により幻覚を見ることはあると説明した後、「すべて脳が作り出したものとして説明ができる」と述べています。確かにヨーガの修行での神秘体験は、いわゆる脳内現象として説明のつく部分もあるかも知れませんが、世界中の様々な宗教を見渡せば、神秘体験に至る修行の方法は、断食だけではないことは明らかです。また、チベット仏教や、日本でも、密教の法力といわれる不思議な力の報告などもいまだ未知の領域でしょう。

この〈第4章〉を読んで、それまでの主張が急に薄っぺらいものになってしまったと感じました。残念ながら、その程度の解像度で物事を見ている人なのだ、ということが露呈してしまっているのです。

私が言うまでもないことですが、従来の物理法則では説明のつかない現象の報告は、世界中で止むことはありません。だからこそ、最新の量子力学の論理で少しでも説明がつくことがあるのではないかと、多くの人が期待している現状があるのだろうと思うのです。


また、別の公式サイトでのFAQの回答では、「霊魂や死後の世界はあるのではないか? -略- といった、人間中心主義にすがる可能性がわずかながら残されていたのでした。しかし、私の仮説が正しければ、もはやこれらの可能性はなくなります。」と述べています。

lab.sdm.keio.ac.jp/maenolab/previoushp/Maeno/consciousness/question.htm#Q1

どういう文脈で”人間中心主義”と言っているのか真意は不明ですが、宗教や倫理が、「人間が他の生き物に比べて特別な存在である」と証明するためにあってはならないのは言うまでもないことですし、霊魂や死後の世界を実際に「体験」し、その存在を認めざるを得ないと主張する人達に対し、「彼らは”人間が特別な存在である”と主張したいだけだ」と断定するつもりなのだとすれば、彼らに対しあまりにも無礼で、想像力に欠けると思うのです。

また、脳科学つながりでいえば、最近見た動画で、脳科学者の茂木健一郎氏は、ある患者が臓器移植した際に、他人の記憶も移植されたというようなケースを、(スピリチュアルな)事例の一つとして紹介し、「そんなものは与太話だ」と切り捨てていて面食らいました。当然、現在の科学では、まだ全ての可能性を排除するには時期尚早でしょう。

【人類最大の謎】未解決問題「意識」を30年探求する脳科学者・茂木健一郎が現在地を講義 (youtube.com)

他にも、科学の分野では尊敬できる仕事をしている方でも、ことオカルトや精神世界の話になると、急に取り乱したように否定する人を何人か見たことがあります。

これは私の主観ですが、前野氏にしろ茂木氏にしろ、自らの「知」の力によって「神の領域に手をつけた」と錯覚した結果、根拠のない全能感に酔っているようにも見えてしまうのですよね。

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これは当然のことかも知れないですが、科学であっても、目指すべき目的地(真理)は一つだけでは無いと思うのです。

普段我々の生活は、ある程度科学を信じ切る(思考停止)ことで成り立っているともいえるので、「科学とは→常に昨日より優れたものを生み出すもの」と誤解しがちですが、科学者も人間である以上は、「自分が見たい世界しか見れない」のではないかと個人的には思います。

つまり、「人類が目指すべきただ一つだけの真理」というものは存在せず、科学者達が各々の感性を頼りに鉱脈を掘り当て、見つけ出した色とりどりの宝石の集積がこの「今」であり、実際どこを掘るかによっては全く違った未来(今)もあり得たかも知れない、と捉えるほうが自然だと思うのです。

「自分が見たい世界しか見れない」というのは、ともすればネガティブにも捉えられがちですが、本当の意味で多様性がある状態というのは、各々が見たい世界を見て生きれる世界のことだとも思います。
逆に、たった一つの真理によって世界が支配されることのほうが恐ろしいと、個人的には感じます。

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『脳はなぜ~』の裏表紙には、「「受動意識仮説」が正しいとすれば、将来ロボットも心を持てるのではないか?という夢の広がる本」と書かれています。(2010年版。筑摩書房)

例えばいつの日か、人の心を物理的に作れるようになったとしても、人が人の心のことを理解できるようになるかどうかというのは、また別の問題なのではないでしょうか。心が宿ったロボットと会話をしながらも、我々はやはり「それにしても、心って何なのだろうね?」と問い続けるような気がします。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました!

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