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【小説】 母はしばらく帰りません 36

「ごめんなさい。こんなふうにあなたを

傷つけるつもりじゃなかったのよ」

 ザラだ。

 まあ、何となく、そうじゃないかと予測はしていたのだ。

だから特に驚きはしなかった。

家を出た夫は、元カノの家に転がり込んでいた。

「それよりさ、マティと話がしたいんだけど。

代わってくれないかな? そこにいるんだろう?」

と、輝子は自分でも感心するくらい、穏やかな声で言った。

「彼は、あなたに合わせる顔がないって。

恥じているのよ、こんなことになってしまった自分を。

本当に、ごめんなさい」

「合わせる顔がないって言っても、

電話だから。恥ずかしいとかみっともないとかは、

私にはどうでもいいことだしね。あなたと話していても、

何も解決しないからさ。電話に出して」

「テルの気持ちを考えただけで、胸が張り裂けそうだわ。

テル、こんな私が言うのも何だけど、

今のあなたは一人でいてはいけないわ。

友達とか家族とかは側にいてくれないの?」

 輝子はフーッと長い息を吐いた。

「ご心配なく。弟たちが住み込みで警護してくれているよ。

なんせ、いつ子供が出て来てもおかしくない身だからね。ありがとう」

 どうも話が噛み合わない。

 イライラするのはホルモンのバランスの乱れだけではない気がする。

 何だかつい最近、こんなとんちんかんな感じを味わったばかりだ、

 と思ったら、マティアスが出て行く前に交わした会話だと気がついた。

 つまりはお似合いの二人と言うわけか。

 ザラ曰く、

「そんなつもり」はなかったのだそうだ。

「夫になった」そしてこれから「父」になる自分に悩んでいた彼を励まし、

相談に乗り、助けてあげたかっただけだと。

「私たちは長いこと話し合って、

マティの心の整理が着くまで、少し時間が必要だって決めたの」

 何でお前が決めるのだ? 

 話し合うのも、決定するのも、元カノだか親友だか知らないが、

お前ではなくて、妻の私であるはずだ、

と言おうとしたが、やめた。

話が通じない上に、そのまま斜め上に転がって行くことが

目に見えている。

「恋人に戻るつもりなんてなかったのよ、本当に。

私はただ、助けてあげたかっただけ。

ただ、そう、起こってしまった。ほんの数日前のことよ」

「あー、もう分かったから! もういいからさ」

 聞きたくない。もういっぱい、いっぱいだ。

「そういうのは、ホントどうでもいいよ。

あんたマティに言っておいてよ、家賃振り込んどいてって」

「え…? や、家賃?」

と、ザラは急に夢から覚めたような声を出した。

「そう、この家の。

私は臨月でいつ子供が出て来てもおかしくないんだよ。

当分働けないんだからさ。だから、家賃とか光熱費とか、

オムツ代とか、帰ってこないなら振り込んでおいてよ」

「テルったら、お金よりも大事な話があるんじゃないかしら?」

 ザラは非難がましく、たしなめるように言った。

「ないね」

 テルはきっぱりと答えた。

「第一、電話にも出てこない夫に、

どうやって話をしろと言うんだよ?」
「……分かったわ。彼と話し合ってみる。

テルは体に気をつけてね。ちゃんとご飯を」

「じゃあね!」

と、テルは相手の言葉に声をかぶせるようにして、

強引に通話を切った。


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