見出し画像

北島理恵子『分水』~詩人会議新人賞2024・審査員のすごい詩集(2)

▶「分水とは何か」から見えてくる、この詩集の魅力

 現在作品募集中の「第58回 詩人会議新人賞」で審査員(選考委員)を務められる北島理恵子さんの詩集の中から、『分水』(第33回日本詩人クラブ新人賞)をご紹介します。

 さて皆様は、「分水」という言葉をご存知でしょうか? 私は知らなくて、単に“水を分ける”、“川が分岐する”という意味だと思っていました。しかし調べたら、実はとても複雑な歴史背景を含む言葉なのですね。まさにこの詩集の内容を包括するキーワードだと思いますので、以下にご説明しようと思います。

分水(ぶんすい)とは、同一の水源あるいは水路から新たな水路を引いて灌漑や生活用水を分配すること。

Wikipediaより

 つまり「分水」という言葉の裏には、農業用水・生活用水の分配をめぐる争い(水争い)があるのです。地理的に、川の水・湧き水が豊富に利用できる集落と、そうでない集落があります。川の上流にある集落が田畑にたくさんの水を引き込めば、下流の集落は水不足になります。水不足は即、集落全体の死活問題となりますので、特に日照りの年などは、川に大石を投げ込んで流れを変えるなど、自分の集落にたくさんの水を引き込もうとすることによるトラブルが頻発しました。それは、農民たちによる鍬や鋤を武器にした集落間の乱闘に発展することもあり(飢え死にするくらいなら戦うというところまで追い詰められて)、私の住む長野県(梓川水系)には、その水争いを解決するために6万人の農民を動員して作られた「拾ケ堰」という大規模農業用水路(10の村に分水する用水路)があります。毎日眺めながら学校に通っていましたが、あれ、天然の川かと思っていました。そのくらい大きな用水路です。

 そこで、北島理恵子さんの詩集『分水』のカバー写真を見ていただきたいのですが、

北島理恵子『分水』カバー写真

…これ、「円筒分水」というものですね。

円筒分水(えんとうぶんすい)は、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設。円筒状の設備の中心部に用水を湧き出させ、円筒外周部から越流、落下する際に一定の割合に分割される仕組みとなっている。

Wikipediaより

↓この、神奈川県川崎市・久地円筒分水の一部をアップにした写真ではないでしょうか(違うかな?)。

久地円筒分水(画像:写真ACより)

 円筒分水は、各集落へ均等に水を分けていることが目で見てわかるように設計されています。生まれた土地・住む土地の不平等を、皆で知恵を出し合って堪えながら生きてきた先人たちの過酷な生活の一部を垣間見ることができる、貴重な文化財ですね。

 実はこのような「分水」の歴史背景は、北島理恵子さんの詩集『分水』の内容と、大いに共通している部分があります。

▶分岐しながら、繋がっていく命の物語。嫁、姑、家…特に女性には響きます。

 まずは序詩「etching」より、一部をご紹介します。エッチングとは銅版画の一種で(最近では他の金属をベースにすることもある)、銅を薬剤で腐食させてできた凹みにインクを擦りこみ、それを紙に写し取る技法。この詩では筆者は、心の傷を思い起こすように、また、深い悲しみがしっかり紙に写し取られるように、銅板を鉄筆で引っかきます。描いているモチーフは「逃がしてしまったわたしの鳥」です。

逃がしてしまった ということは
まだどこかにいる ということと 同義なのかと――

鳥は知っているようだった
だから
たやすくは笑わなかった
どんなにやさしく黒目をなぞっても
愛想のひとつも言わなかった

北島理恵子「etching」より

 この詩「etching」は、北島さんが、胸の中にあるものを掘り起こしながら、時には傷ついた記憶の痛みと向き合いながら、丹念に詩作品を仕上げていく様子を隠喩的に表現したものだと思います。

 この序詩に象徴されるように、この詩集には現実社会の厳しさと向き合いつつ生きる重みが、ずっしりと表現されています。ずっと昔から流れている川のような、たくさんのしがらみに絡め取られながらも、それを断ち切るすべもわからず、脈々と、耐えながら生きてきた私たち。その悲しみ苦しみに共感しつつ、時代を越えた繋がりへの温かさを感じつつも、皆がより良く生きるためにはどうしたらいいのだろう、と考えたくなるような一冊です。

 3部構成のうち、第1部は、不平等の中で生きざるをえない私たちの人生について。生まれた時代、生まれた家、住んでいた場所によって明暗が分かれていく私たちの命を、震災や戦争なども題材にしながら表現しています。私は特に「列」という作品が印象的でした。巨大な天秤に向かって歩いていく人や動物の列。白い大皿に乗るその人たちへ向かって、

〈乗っても意味はない
〈いのちの重さを量ろうなんて無理な話だ

北島理恵子「列」より

と叫ぶ筆者。それに気づいてこちらを向いた見覚えのある女性が「わかっている」と口を動かす描写に、なんとも言えないやるせなさが漂います。

 第2部は、家族のつながりの中に、社会や歴史も織り込んだ作品群。このパートは嫁姑問題、「家」の概念を題材とした作品が特徴的で、特に既婚女性にとっては胸に強く響くものがあるのではないでしょうか。家を出た娘がまだ幼かった頃に一緒に飼い鳥の亡骸を葬った神社が舞台となっている表題作「分水」。母親という役割に疲れた母に対し、「わたしをぶつしかなかった若い手」と同情を寄せた「あかまんま」。黙々と針仕事をする母の描写を通して祖母(母の姑)との確執を表現した「きせ」は、

それほど遠くない
むかしむかし

嫁という言葉が
まだふつうに使われていたころ

北島理恵子「きせ」より

という最終の2連が印象的。「嫁」って現代では、「うちのヨメが」と自分の妻の呼び名に使う人もいますが、基本的には「息子の妻」という意味で、息子の両親が使う呼び名なのですよね。そこには「家」という概念があり、「嫁」には「他家から嫁いできたよそ者に対する呼び名」という感覚が含まれます。この嫁・姑の確執の中で、一体何人の女性が泣いてきたことか…! 家を守り、命を次の世代に繋いでいくためにさまざまなことに耐えてきた女性ならではの悲しみに、胸が苦しくなります。

 第3部は、1・2部で描かれてきた苦難との共生や、悲しみの昇華を感じさせる作品群です。「マリネ」では、ナスやズッキーニと一緒にガラス容器に浸かってしまう「わたし」が、ユニークながらも美しい。最後の作品「テーブル」は、

――無限にうつくしい詩が書ける

そんなふうにおもえる午后がある

北島理恵子「テーブル」より

そして
無音のなかで
みな一斉に云う

書いて
今日だけは
しあわせな言葉で と

北島理恵子「テーブル」より

あとがきの代わりのようでもあり、救いがもたらされる瞬間のようでもあり、たいへん好きな作品です。

 …なんとなく、全体を「分水」というテーマが貫いていることをお感じいただけたでしょうか? 一つの水源から分かれ、不公平・不平等な世の中を流れながらも、社会を潤し命をはぐくんでいく水。その水と重ね合わせながら人々の生活が描かれる『分水』の世界観を感じ取っていただけたら、と思います。

 私はこの詩集を初めて読んだ時、憧れの北島理恵子さんの詩集であり、日本詩人クラブ新人賞を受賞した詩集ということもあり、喜び勇んで開いたのですが、1回通して読んだだけではあまり理解できず(涙)。2回読んでも難しくてピンとこなかったのですが、3回目でめちゃくちゃ感動し、大号泣でした(笑)。この詩集は本当にすごいです! 是非一度お読みになってください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?