できない人になんでできないのと言うことの不毛さ

怒りや不満や悲しみを感じたときはその感情に飲み込まれる前に、一度考えてみることがあります。

私の場合、不満を感じたときはたいてい前提として「私が思う私の理想」があります。それに沿わない行動をする人や環境に対して嫌だと感じる気持ちを、「不快」と表現していることがほとんどです。

理想がなければ現実とのギャップもないわけで、苦しくなる理由をわざわざ作り出しては自分で自分を攻撃しているようなものです。自分が産んだ自分の影が、本当の敵です。私はこれを『影との戦い』と呼んでいます。

仕事場でもそうで、お互い周りの人には常になんらかの期待を持っています。チームで仕事をするなら、あって当然です。ただそれが健全な期待なのか、たんに自分の独りよがりなのかの区別について考えられる程度の心の余裕は、いつでも持っていたいなと思っています。

一方で、自分の理想は自分で守ってあげないと、誰も守ってはくれません。そこは絶対に軽視しません。自分はやりたいようにやりたい、まわりの人も各々の理論で良かれと思ったことをしている、というフレームで見ると、おのずと自分の手の届く範囲に思考が集中できて、必要以上に悩まなくてよくなります。

タイトルに書いた「できない人」というのは、自分基準で他の人に勝手に押し付けた物差しです。そんなものについてわざわざ口に出すのは無駄だし止めようと思いますし、言われた場合は「お前の物差しなど知らんわ」くらいに振り払っていいと思います。

ただこれを仕事場で無制限にやっては品質の担保ができなくなります。共通の物差しを作るため、人やポジションに対して求めるものを見える化しておくのが平和への道なのでしょうか。このあたりはまだまだ考えがまとまらないのですが、とにかくお互いのマイ基準で傷つけ合う事案はなるべくなくしたいなあと思います。

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