映画評『七番房の奇跡』

2023年度「サギタリウス・レビュー 学生書評大賞」(京都産業大学)
自由部門 大賞作品

「絶望に浮く『幸せ』」
森本渚月 生命科学部・産業生命科学科 3年次

作品情報:『七番房の奇跡』(イ・ファンギョン監督作品、2012)

「奇跡」とは、一体何だったのか___。

この作品を見終えたとき、私はこう思った。

この物語は、実際の冤罪事件に基づいたものである。6歳の娘と暮らしていた知的年齢が6歳の父は、少女殺人の疑いにかけられ、無実の罪で逮捕されてしまう。その後、彼は刑務所の七番房に入れられ、知的障害を理由に囚人たちに虐められる日々が続くが、彼の真っ直ぐな心が周りを変えていく。次第に心を通わせ、「娘に会いたい」という彼の願いを聞いた七番房の仲間は、引き裂かれた2人を何とか再会させたいと奮闘する。さらに、彼が犯人ではないのに刑務所にいることに気づき、彼の無罪を証明するために公判の準備を行う。2人の愛と絆が周りの人々の心までを変えていく、感動の物語である。

この作品は、弱いものを虐めようとする人間の心、それを忘れるほどに父娘の愛に魅了される人々、人間の醜さや理不尽さなど、人間の本質が様々に表現されている。人間とは素直であり、非情な生き物であることを再確認させられる。

「私のパパになってくれて、ありがとう」

「パパの娘になってくれて、ありがとう」

そんな言葉のやり取りが、私が印象に残ったシーンである。主人公は知的障害を持ち、無罪にもかかわらず刑務所に入れられ、本当なら誰もが酷い人生だと感じるだろう。だが、娘と一緒にいる主人公は誰よりも幸せに見えた。知的障害を持つことや、その場所が刑務所であろうとどこであろうと関係なく、互いが側にいれば幸せであるのだと、心を打たれた。

物語の終盤、そんな2人に悲劇が起こる。

七番房の仲間や娘による計画も虚しく、主人公は娘を理由に脅され、無実の罪を法定で認めてしまう。そして12月23日、娘の誕生日でありながら死刑の執行を迎える。

私が想像していたような「奇跡」は、このシーンにより打ち砕かれてしまった。この作品を観る誰しもが願うのは、主人公の冤罪が認められまた娘と幸せに暮らすことであろう。それが一瞬にして失われ、私はタイトルの意味を疑った。

物語のラスト。父を亡くした娘は、刑務所の課長に育ててもらい、やがて成人し弁護士になる。当時の事件の弁護をし、七番房の仲間の供述により主人公の無罪を勝ち取り、物語は終わる。

「奇跡」とは、一体何だったのか___。

最終的に無罪を勝ち取ったものの、もうこの世に主人公はいない。ハッピーエンドとは思えなかった。タイトルの「奇跡」とは何だったのか。その答えをすぐに見つけることは出来なかった。

その答えを探す過程で、この作品の1番の魅力に気づくことができた。それは、作品における「希望」と「絶望」の対比である。

主人公は亡くなってしまったけれど、それでも彼は、最愛の娘が最後まで無罪を信じ、無実を証明してくれたことを、誇らしく思うだろう。最期の日まで、お互いが側にいて幸せに過ごせたことが、彼らにとっては「奇跡」とも言えることだったのではないか。そう解釈せざるを得ないほど、現実は残酷であった。逆に言えば、親子の愛や、娘が勝ち取った無罪は、主人公の死という最大の絶望が、より一層際立たせたように思う。

絶望における希望は、「奇跡」とも呼べるほどの輝きをもつ。しかしそう受け止めるしかないのは、この残酷な現実のせい。これが、この映画の伝えたい本質であるのではないかと感じた。

あなたはこの映画を観て、「奇跡」をどう感じるだろうか。ぜひ考えてみて頂きたい。