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言い訳、遠吠え

文字ばかりで申し訳ないと思いながら、文字を書く。
本当はきっと、漫画なりイラストなり、せめて文章で何かを綴るとしても物語調にして何かを残すべきなのだろう。私はそれが出来る人間だから、という理由しかそこにはないけれど。

人生、何があるかわからないのだ。描いていた事柄はすべて白紙、何もそこには残っていない。僅かにのこる記憶のかけらを辿ることしか私には許されなかった。それは仕方のないことだ。
「仕方のないこと」に至るまで、幾多の選択を私は強いられてきた。その出来事を今更正当化する気はさらさらない。
でも、人生のいたるところで起きる決断は、そののちに後悔を生むこともあれば、自己を肯定したり、感謝されたり、とにかく「何か」になってしまう。
私はその選択を正しく行えたとは、言えなかった。そのことへの後悔は消えることはない。のに、それでも、自分は今ある自分を「今ある自分でよかった」と思ってしまう。
するつもりがさらさらないと言った正当化を、私の脳は、生きる為に、いともたやすく行った。脳が憎い。

何だったら、死んでもよかったのだ。いいや……、薬も飲まずに居た自分だったら、死んでいた可能性すらあると、思った。
消えてしまっていると錯覚すらしていた。これも脳のせいだ。自己防衛の為に現実感が喪失したり、離人感が出てしまう。それは仕方ない。脳が憎い。
もし私が死んだら、誰かに覚えていてほしいと思った。その反面、全ての人に忘れ去ってほしいと思う。
忘れるということは、優しいことだ。
覚えているということは、あたたかいことだ。

生きることが怖い。
私の一挙一動は、誰かの記憶、自分の記憶に残ってしまう。蓄積された記憶は印象ともなり、人から人へ伝播すらする。
恐ろしいことだ。
生きることは怖い、できることなら、最近起こる咳が致死率の高い治りようのない病であってほしいと思う。

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