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国語の教科書がつれてくる

 小学校の国語の教科書に芯を支えられてる人間だな、とときどき感じる。先日、甘夏を買ってきて鋭い酸味に口をすぼめてしゅうしゅう言いながら食べていたのだが、部屋じゅうに満ちたさわやかな香りは、まるで部屋の色すら明るく空気を換えたかのような新鮮さに満ちていた。そうなるとすぐに、あまんきみこ作「白いぼうし」を思い出すというわけだ。

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 タクシー運転手の松井さんが、郷里のお母さんが送ってくれた夏みかんを「あんまりうれしかったので一番大きいのをこの車に乗せてきた」と、乗車客からの「これはレモンのにおいですか」という問いに答えるくだり。夏みかんがこんなに匂うのか、と驚く乗車客に松井さんは「もぎたてで新鮮だから」と想像する。匂いまで届けたかったであろういなかのおふくろが速達で送ってくれたのだと。そしてそれを仕事場であり仕事道具でありパートナーであるタクシーに、うれしさのあまり持ってきている松井さん。指先を果汁でべたべたにしながら思わず部屋じゅうの香りを吸い込んでしまう。

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  同じようにして、延々とつづくまっすぐな道に在れば「あの坂をのぼれば海が見える」と口ずさんでしまうし(小さな町の風景:杉みきこ作)、視界の広い胸のすくような青空に出逢えば「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」と、啄木を想う。啄木はあまり作家について調べるとアレなのだが、先入観なしにこの句に接すると歌の情景とシンクロできて言葉の持つ力に脱帽する。

 島崎藤村の「初恋」は、りんごを手のひらに置いてまじまじと見ながら、心のなかで詩を暗唱してしまう。学生の頃、言葉の美しさに感激し暗唱してから忘れることがない。心の鮮度も高かった頃なので、数多の雑音や砂嵐に遭遇してもいつまでも色あせることがない。
 いずれの場合も、作家が選びに選んだ言葉とその流れ、配置などの完璧さと、想像力を掻き立てる心象風景の描き方における巧みさならではだと思う。

 三月になると…これについては別記事で書いたのでこちらへ。

にぎやかな色があふれ、穏やかな陽光に満ちた三月、視覚や嗅覚が刺激されるのか、いろいろのことがこうして思い出される。
 新海誠監督の映像世界には、こうした「あの頃の手触り」みたいな生のものが瞬間瞬間にスッ!と心にカットインされる感覚がある。

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