ノーラはいま
本でも漫画でも、何度も同じものを繰り返して読む傾向にあるんだけれど、数年ぶりに「ぼくの美しい人だから」を読み直した。古い文庫本なのだが、もともと入手したときも中古しかなかった記憶だ。それで、昨晩ひといきに読み、目覚めて数時間のあいだずっと、「なんだっけ…なんという名前の人だったっけ…とにかくあの人はどうしてるんだろ…」というような旧い知り合いのことを漠と考えていたのだが、ふと気がついた。本の世界の住人を、まるで実在する人のように懐かしく思い起こされているのだ、という事実に。これは理由がある。
グレン・サヴァン著のこの作品は片岡義男氏の解説によると「ニュー・フィクション」という系列で当時発刊されたそうだ。
いわく「現代の関心事に焦点を合わせた小説であり、現役の作家のなかでももっともエキサイティングな小説を書いている人たちの作品を読者に紹介する」というシリーズとして若い女性編集者の熱意で始まったとされる。
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原題は物語にも登場する実在するというバーガーチェーン「White Palace」だが、訳者の雨沢泰さんがとても素敵な邦題を与えた。「ぼくの美しい人だから」は、80年代かな?映画にもなって当時結構話題になった。映画と小説は往々にして別の創作物なので今回は小説の話。それで話が戻るけれど、巻末には片岡氏が評するこの小説の面白さというのが解説されていて、それが非常に論理的に構造を解明していてわかりやすいのだ。それで私は目覚めたての夢うつつな状態で、物語の登場人物を実在する懐かしい知人かのように錯覚したのだと納得した。
そのまま書き出すのは著作権的なことも気になるが、それ以上に手数が面倒なのでしない。すごくかいつまんでみると、「男と女が出会って恋愛関係になった。それをただ、いつこういうことが起きた。それで二人の仲はこう進展していった」というような、状況を追うだけの恋愛小説は誰でも簡単に書けるのだという。恋人同士の二人に起きるいろんなことで心がゆさぶられたり影響を受けたり、恋人をすったもんだの末に獲得する。それをもう一度、おしまいからストーリーをさかのぼったとき、彼(男性)の立場や位置はストーリーが始まった時となんら変わることがないというものになっている。
要は、「自分はそのままで(変わることはなく)彼女だけ欲しい」という話である、ということ。女性を手に入れることが彼の恋愛なのだ、と。
簡単に量産される恋愛小説についての指摘もこのようにわかりやすい。
この知的なテーマをこの小説では描ききって見事に小説として成功しているというわけだ。そのあまりに現実的な物語を体感したことで、私は目覚めに実在の懐かしい知り合いのように登場人物を思ったほど、ビビッドな読書体験となっていたんだと思ったのだ。
主人公はこの場合、一人称視点での男性側だと思うがその恋の相手となる女性、ノーラを私は思っていた。映画ではスーザン・サランドンが演じていてだいぶそれで小ぎれいなのだが、原作ではもっと下卑た雰囲気をまとった貧困階層に住まう女性という描写だ。無論、貧困をマイナスとしているのではなく、それによって選ぶしかない生活の細部がもたらすことで彼女を形象する全体的なものにフォーカスしている。けれどこの彼女が、最高にいかしたあることをやってのけるので、それ以降のまぶしさはことのほか素晴らしい。主人公マックスの上司の女性も、ノーラがその決断をしたことによって「彼女をもっと好きになった」という。それくらいの高潔さを彼女は放ちえたのだ。
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これって、ノーラがもともと持っていた誇りは、生まれ育ちで影になってしまい、主人公マックスと出会ったときはもう第二の皮膚のように下卑た習慣が染みついていたものだ。けれど、マックスと出会い劣等感を覚えるたびに彼女は影に逃げ込まずにものすごい勇気を発動して、誇りを表に引っ張り出すことができたのだ。ここから、このことによって片岡氏が言うように男性も変わることを決意する。男と女が出会い、愛し合いました。いろんなことがあったけど晴れてゴールインできました。そんな物語ではない、稀有な恋愛小説となることができたのだ。
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グレン・サヴァンはもう一冊、とても面白い恋愛小説を上梓している。そして彼は49歳という若さで亡くなっているが、以前調べたときは彼自身が身体に障害をお持ちだったと思う。2作目の登場人物に自身を投影したような設定があった。
この小説を読むたびに、本当にうまい書き手ってのがいるんだよなぁと痛感する。そして、架空の登場人物であるマックスとノーラの物語を自分もあるとき一緒に生きたかのような錯覚をおぼえつつ、否、実際に読むことでどこかの宇宙で共に生きたのだろうとも思うのだ。
アイキャッチにまったく関係ない写真を載せている。先週食べたパエリアがことのほかおいしかったので・・
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