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香彷徨遍歴仮名手本

 「ああやっぱりそうなのか」と、ある試みにおける見込み違いの結論を得た。自分は香水を、多く経験してきたあとはシグネチャーとなる香りひとつにこだわりぬいて、その香り=自分として認識されるようになることを夢みいていた。それはモンローのNo.5を例に出すことさえ憚られるが。

 しかし冒頭に書いたとおり、自分にはおそらくまだ絶対量の経験が不足していたようだった。気分によって日によって使い分けるということをしないようになりたかったが、だめだった。「だめだった」つまりはその香りをどの方角からどのように解釈しても自己の内にくるめられなかったからだと思う。香りが多面的であればあるほど、「気分によって」などはなく、その「気分」にもその香りは調和したはずである。

 香りをそんなふうに堅苦しくがんじがらめにする必要はない、と言われる向きもあろうし、そういう考えも当然にある。これはもう美学の問題でしかない。また、どんどん生まれる新しく解釈された香りの世界が開かれているのだから、どんどん冒険した方がよいではないか、という感覚もわかる。むしろ好きである。が、やはりそれとて追求したい美学には勝てない。

 この数年で3つほどに絞られてきて、どうしても使い分けてしまう。その厳密さは不要なのだろうが。このところ気まぐれで買ったゲランの「夜間飛行」(notパルファム)がやっと心身にとてもよくなじみだし、気負うこともなく普段づかいできるようになった。しかしやっぱり、名香「夜間飛行」の真髄を味わえているとはとても言えなく、最高濃度のパルファムを手に入れてから話せよ、という自己つっこみをしておく。全然違うのでね、そこは。

 けれどここまで書いてきて、「おそらく自分がそんなに多面的な人間ではないからかもしらん」とも思った。よく香りはなりたい自分のイメージを投影するといい、とも言うが、一つのシグネチャーによってすべての自分を万華鏡のごとく多面的に語ってくれる雄弁な香りを私が求めるのには、ゆらゆらと実態のない生体としてこの世に遊ぶことを許されている異邦人としての、確固たる証明を欲しているからなのかもしれん。

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