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ベイカリーカフェにて

 バスが好きだ。といっても近隣を急ぐ必要のない場合にゆったり乗る場合に限る。長距離高速バスなどは乗ったことはないが、(2時間くらいならある)そういうきちんとした目的のもと乗車するのではない、あくまで日常の動線のなかで乗るバス。

 幸いなことに住まいのあるエリアはバスが非常にたくさん乗り入れており、時刻表も笑ってしまうのだがもはや時間なぞ書いていない。一般的な1時間刻みの列のなかに堂々と【5~8分置き】のように書いてあるくらいで、時刻を気にする必要もない。とことんずぼらな私の性質に非常に合っているのだ。

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 バスに乗るようになったのは、会社勤めを辞めてからのこと。毎朝定期的にどこかに通うという生活様式でなくなったとき、ふと思いつきから乗ってみることにした。これがまあ、電車で5分の距離に20分ほどかかるのである種酔狂ともいえる。しかし、地下鉄にぎゅうぎゅうと押し込まれ、その間呼吸すら忘れ心を滅していることを思うと、車窓に流れる生きた街の風景を停車場ごとに興味深く眺めるなど、バスならではの味わいを知った。

 昨日は、どこかで買ったばかりの本を読みたいな…と思い、けれど行きたい場所が思いつかず、ちょうど目の前に停まったバスにそのまま勢いで乗り込んでしまった。そうして、「どこで降りようかしら…」とうっすら思いつつも、休日の日盛りにあらゆる世代の人が乗り込んだバスがなかなか面白く、結局終点まで行ってしまう。東京のバスの良いところのひとつに、どこまで乗っても初乗り賃であること。終点の地で街散策などしたら行った甲斐もあろうというものだが、いかんせん酷暑の真昼である。汗みどろになって後悔の念にしかめつらになっている自分が容易に想像がついたので即却下。結局、駅前の感じのよさそうなベイカリーカフェに腰を落ち着けた。

 普段立ち寄ることのない街にあるベイカリーは、思いのほかご年配の方が多い。そういえばニュースでその界隈がかつては高級住宅街として昭和時代に鳴らすも、現在は高齢者タウンとなっているようなことを耳にしたことがあるのを思い出された。なかでも、ご夫婦で一緒にやってきてパンを召し上がりながら互いにいたわった会話を楽しむ方々が目立つ。おお、いつもとまったく違う人たちと出逢えるパン屋さん。と少し興奮する。

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 意外なことに当初の目的だった読書がまったくはかどらない。2冊持ってきて互いに読み進めるなどしてなんとかページを繰るのだが、集中ができずとうとう断念した。おそらく自分の関心が無意識に外に飛び出していっているからだと思った。年に数回あるかないかのオーダーでロイヤルミルクティーを所望したのだが、これがよかった。あらかじめ抽出したものを冷蔵庫でしっかり冷やしているので、つくりたて熱々を膨大な氷で一気にアイス化するのではないため、味わいが濃厚であった。いや、最近はみんなそうなのかもしれぬ。

 ややもすると小さな子供を連れた母親らしき人がきてパンを選んでいたが、急に大きな声がするので目線を遣ると女性が「やだパパ―!?」と叫んでいる。なんと偶然にも店内に父親とおぼしき男性が1人で来てコーヒーブレイクしている処を、娘と孫が出くわしたようだった。こういうときしみじみ思うのだが、元々東京暮らしの長い(であろう)ご高齢の方々のふるまいの品のあること…。自分の親であったらああはいかんぞ、と折に触れ感じることが多い。だから良い悪いといったことではないのだけど、こういうとき自分は究極どこにも所属のない人間のように感じる。エトランゼ。

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 終点の地としてバスに運ばれた先は、実は電車で移動したら半分の時間で着くところだし、降り立つ機会がほぼなくても通過点としてはしょっちゅう通る。今回あえて終点まで乗ってしまおうと思ったのには、できるだけ日々に「いつもと違うこと」を取り混ぜていきたいと思っているから。この小市民的というか、冒険のレベルの小ささが私という人間の臆病さであるが帰るのには電車にしようかしら、と思い駅の行先電光掲示板を見遣ると、ちょっと調べないとどっちに行けばいいかわからん、みたいなことすら新鮮に感じられた。

 考えてみると駅に隣接したベイカリーカフェというのは意外にもカルチャーがある。チェーンであってもその街の特性がよく表れていると思うのだ。学生時代にも最寄り駅にゆったりした広さのベイカリーカフェがあり、ほとんど毎日のようにそこでいったん友だちと落ち合っておしゃべりをしてから帰路に就いたものだ。集う人たちが店の特徴となり、登場人物のようになっている。いうなればカフェはもはや舞台。

 昨日の発見としては駅に面したベイカリーカフェでその街の雰囲気を知る方法、というのはあながち間違いではないという気がした。

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