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死にたい夜に効く話【4冊目】『愛なき世界』三浦しをん著

この本を買った日のことは覚えている。
iPadの充電器を盗まれた日だ。

その日は、メンタルもブルーで、その上荷物も多かった。
電車に、ぼーっと揺られていると、ふと駅のトイレに小分けにして持っていた紙袋を置いてきてしまったことに気がついた。やっちまったああ、と引き返すと、紙袋はあったが、中に入れてあったiPadの充電器(純正品)だけが抜かれていた。

普段、気をつけている分、地味にショック。何より人間の気持ち悪い部分を見てしまって、ブルーな気分に拍車がかかる。

この気分を晴らしてくれる本はないものか!
そうしていつも行く、家の近所の本屋へフラフラ吸い込まれていった。
面出しで売られていた文庫本に目が止まった。青色の背景に、植物と蝶の絵が綺麗だった。
人は疲れた時、自然を求めにいくらしい。



某有名大学前の洋食屋で料理人をする藤丸。
大学で植物学を研究する研究室へデリバリーをするようになったことをきっかけに、研究室の面々と親しくなる。
そのメンバーの一人、院生の本村に想いを寄せるも、彼女は恋愛よりも研究対象のシロイヌナズナしか見ていない。
藤丸のなかなか報われない恋模様と、研究者たちの植物への愛の重さが魅力的な、今まであまり見たことのないジャンルの青春ものである。

三浦しをん先生らしい、登場人物たちのキャラの濃さと、コミカルかつ、たまに泣かせにくるテンポの良さ。
そんなエンタメ要素満載でありながら、専門的な研究内容や業界事情なんかもみっちり詰め込まれている。それを素人でもわかるように書けてしまうあたりが、先生の手腕の高さか。
これを高校生の時に読んでたら、生物の授業も、さぞかぶりついて聞いてただろうなぁ。
あと、植物学の小説と思わせておいて、実は飯テロ本でもある。

それまで自分に縁が無かった専門的な世界を垣間見ることができるのも、小説を読む楽しさの一つだ。
読後、シロイヌナズナのデータベースが本当にあるのか検索したり、サボテンガチ勢の本がないか調べたりしてしまった。

そうやって植物の世界の深さにズブズブはまって…なんてことにもなっていたかもしれないが、


わたしは、藤丸のコミュ力の高さが気になって仕方ない。


いつの間にか研究室に溶け込んでいて、気づけば一緒にテーブルを囲んでいる。
他の研究室の先生からは、メンバーと間違えられてカウントされる。
そして、無自覚にも大口の仕事をとってくるんだから、なかなかの男。

大学時代に猛特訓するまで、かなりのコミュ障だった自分から見れば、とんでもない化け物だ。
しかし、「まぁフィクションだから」「そういうキャラだから」で片付けてしまうのは、もったいない。

実在の人物に限らず、フィクションの人物から、人とのコミュニケーションのコツを学ぶことだって意味があると、元コミュ障としては主張しておきたいのだ。


藤丸のシンプルかつ、最強の能力は、
相手の好きなものに興味を持てることだと思う。

今まで植物学の世界と縁もなく、もちろん専門的な知識など持ち合わせていないが、研究室のメンバーから教えてもらう植物の世界に、自分と関係ないから「あ、結構です」とならないで、興味を持って話を聞く。

あまりに自然な流れで、見落としそうにもなるが、人からの、やってみる?見てみる?に対して、自然と、むしろ積極的に参加する。

自分の料理人としての知識や、これまで得た考え方とに結びつけて、「料理みたいだ!」と自分事として、引き寄せて考えることができる。

読み返すと、彼の「興味を持ち」そして「感心できる」という特性は、物語の序盤から表れていた。

切った野菜を明かりに透かして、すごいなあと見入ってしまうことがある。どれもこれも、だれかが設計図に基づいて作ったみたいに、うつくしく精妙だ。野菜ばかりではなく、魚の内臓の配置、骨の形、目玉や鱗の質感も。

三浦しをん『愛なき世界』中央公論新社、2021年、p.19。


また、研究室メンバーと藤丸が芋掘りに駆り出されるエピソードで、本村は藤丸に対して、こんなことを思う。

それにしても、藤丸さんはすごい。と本村は思った。私がうだうだ考えているそばで、藤丸さんはサツマイモの葉っぱをあるがまま受け止め、イモの皮の色がそこに映し出されていることを発見した。なんてのびやかで、でも鋭い観察眼なんだろう。きっと藤丸さんは、だれかを、なにかを、「気味悪い」なんて思わないはずだ。一瞬そう感じることがあったとしても、「いやいや、待てよ」と熱心に観察し、いろいろ考えて、最終的には相手をそのまま受け止めるのだろう。

同書、p.183。


そして、彼のすごいところは、(きっと無意識なんだろうけれど)自分が「すごい」と思ったら迷わず声に出せるところだ。
本村は思っていても、あえて言わないでおこうと選択して、黙ってしまうシーンがわりとある。読んでるこっちとしては、「いや、言ってやれよ!」と、もどかしくなってくるが。

自分の好きなものに対して、全く興味を持たれなかったり、まして、バカにされるような態度を取られて気分がいい人なんて、そうそういないだろう。「おお!すごい!」と言ってもらえた方が断然、人は嬉しい。

もっとこの人と話したいと思えるし、何より話題ができる。
いいコミュニケーションの好循環が起こる。


人より飛び抜けたものを持っている人は、もちろんすごい。
でも、すごい!と口に出して言える人もすごいのだ。

相手に対する観察眼と、普段から自分の知らない世界や人に対して、興味を持てる好奇心がなければ即座に反応なんてできない。

そこに、知識や能力があるとかないとかは、関係ない。

この作品全体から感じる風通しの良さは、元から植物学に精通する人だけでなく、植物学と縁がなかった読者との架け橋になってくれる、藤丸の気持ちのいい気質があってこそだろう。


自然の力に癒されたのか、はたまた爽やかな人間しか出てこなかったことで癒されたのか、おかげでドロドロだったメンタルも浄化された。

ちなみに、充電器と一緒に袋に入っていた友人からの宝塚土産、ベルバラ・インスタントカレーは無事だった。
もっといろんなことに、興味の幅を広げてみた方がいいと、わたしは思うぞ。


(2023年9月16日)